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けがれなき神の家族

ニュースレター(2013年春)

2020.09.05 04:42

〔p.1〕

主の潔白の子どもの皆さまへ

復活節に向けた号の発行を準備していると、ベネディクト16世教皇様の辞任という驚きのニュースが入ってきました。・・・・・・・・・・

〔中略〕

マザー・パトリシャ

〔p.6〕

信仰年

(訳注:この内容はマザー・パトリシャの長男のスバッシュが書いたようです。)

ベネディクト教皇様が2012年10月11日から今年の11月24日(王であるキリストの祝日)までを信仰年と定められたことは多くの方がご存じでしょう。10月11日が選ばれたのは、二つの重要な記念日にあたるからです。一つは、第二バチカン公会議開幕50周年であり、もう一つは、『カトリック教会のカテキズム』の最初の発行から20周年の記念です(訳注:フランス語版のカテキズム第1版の発行が1992年10月11日であり、ラテン語規範版が出版されたのは、1997年8月15日です。)

なぜ、信仰年なのか

ベネディクト16世はこの特別年を、「世の唯一の救い主である主に対する、誠実で新たな回心への招きです。」(自発教令『信仰の門(ポルタ・フィデイ)』6)と呼んでおられます。教皇様は、すべての信者が触発され、新たな確信と自信と希望をもって、信仰を十分に宣言することを望んでおられます。これは、私たちが信仰の祝いを典礼において、とりわけご聖体において深める良いチャンスです。なぜならご聖体は、「教会活動が目指す頂点であり、・・・また、教会のあらゆる力が流れ出る源泉」(典礼憲章10)だからです。これは「全ての信者が自分のものとしなければならない務めです。」(『信仰の門』9)(使徒憲章『ゆだねられた信仰の遺産』116参照)

「信仰」の二つの意味

1. 私たちがそれを信じているという意味での信仰(`Fides quae’フィデス・クウェ)

2. 私たちがそれによって信じているという意味での信仰(`Fides qua’フィデス・クウァ)


信仰年に、なすべきことは・・・

「信じることの喜びと、信仰を伝える熱意を再び見いだす・・・必要があります。」(『信仰の門』7)

『信仰の門』(ポルタ・フィデイ、信仰年について説明している使徒的書簡)のメイン・テーマは、

1. 第二バチカン公会議の教え

信仰年は「公会議教父の伝えた諸文書を人々が理解するのを助けるよい機会」を与えます。福者ヨハネ・パウロ2世が言うとおり、『公会議文書は、自らの価値を失うことも、輝きを失うこともありません。これらの文書は、適切に読まれ、教会の聖伝の中で、教導職にとっての重要な規範文書として知られ、消化吸収される必要があります。・・・私は、20世紀の教会に豊かな恵みを与えたとして、公会議を指し示す義務を、今までより深く感じています。この中に、私たちに新しい世紀の歩みの方向性を与える確実な羅針盤が提供されているのです。」(『信仰の門』5)

2. 信者の生活の中で示される証し

「信仰年は、世の唯一の救い主である主に対する、誠実で新たな回心への招きです。」

(『信仰の門』6)

3. 新しい福音宣教

「信じることの喜びと、信仰を伝える熱意を再び見いだすために、教会が新しい福音宣教に強力に取り組む必要があります。」(『信仰の門』7)

4. 信仰宣言

5. カトリック教会のカテキズム

『カトリック教会のカテキズム』は「貴重で不可欠の手段」です。「『カトリック教会のカテキズム』は第二バチカン公会議の最も重要な成果です。」(『信仰の門』11)

6. 信仰の歴史をたどり直すこと

7. 愛徳の証しを深めること

「愛の伴わない信仰は、実りをもたらすことがありません。また、信仰を伴わない愛は、たえず疑念にさらされます。信仰と愛は互いを必要とし合い(ます。)」(『信仰の門』14)

8. 償い

信仰年はまた、皆が大いなる信仰をもって、より頻繁に、悔い改めの秘跡(訳注:告解)に与る良い機会となります。(CDF信仰教理聖省 注7 参照)



主の潔白の家族として信仰年に何ができるでしょうか

信仰教理聖省は、普遍教会、司教協議会、司教区、そして私たちの多くにとって特に注目すべきですが、小教区と新しい運動に向けて司牧的指示を出しています。

信仰年ウェブサイトに、勧められていることのリストが全て載っています。

(http://www.annusfidei.va/content/novaevangelizatio/en.html)。

主の潔白のメンバーの皆さまには、これをご覧になることをお勧めします。信仰年について知ることは、教会が私たちに求めている生き方を実践するための第一歩だからです。

皆さまの多くがすでに、ミサへの参加やご聖体の信心、祈りのグループなどで小教区に活動的にかかわっていらっしゃることと思います。小教区の日々の運営に実践的にかかわったり、カテケージス(要理教育)のお手伝いをしている方々もいると承知しております。主の潔白の子どもたちにとっては、仕事や生活の状態、個人的状況に応じて、カトリック教会の生活に十分に身を捧げるのは、とても重要なことです。現時点での私たちの人数は少ないですが、私たちは、聖家族のうちに打ち立てられた教会の原初の霊性の新しい理解と、その生きた証しとなるよう招かれており、そのようなパン種となることが望まれているのです。

私が、信仰年に主の潔白の子どもたちの皆さまにお勧めしたいのは、家族で果たすべき義務を実践する努力を新たにすることです。家族で果たすべき務めというものは、「あなた方の霊魂と体の訓練によって、・・・聖家族のふさわしい一員とさせる」ためのものです。

「荘厳な献身の式に与り、この完徳を目指す会で、聖家族のふさわし一員となるよう励みなさい。」(イエズス:1996年2月9日)

聖家族の修練(コミットメント)における義務のいくつかは、信仰年の主要テーマにかかわるものであり、他のカトリック信者の方たちと共に信仰を深めるよい機会となるでしょう。以下に私たちの義務(オブリゲーション)を記し、そのうちの五つの項目についての私の考えを示したいと思います。信仰年の呼びかけにより深く応え、メッセージで与えられた訓練方法を他の人たちとも分かち合えることを願います。


2009年11月6日、初金曜日

マリア:あなた方の義務を、規則や規制するものと思わないでください。それよりも、神の御恵みに助けられて、完徳の高みにたどり着くためのハシゴであると考えてください。


○毎日のミサ(教会への距離や日々の務めに応じて、可能な限り、どこでも)

教会の霊的善のすべてがご聖体に含まれています。それは、ご聖体がキリストご自身だからです。そのためにご聖体はあらゆるカトリック信者の生活の中心となるべきものです。聖体祭儀(ミサ)では、イエズス様の御体・御血・御霊魂・御神性が私たちのために現存しています。それは単に十字架上の犠牲、復活、昇天というだけでなく、イエズス様の救いの使命と命として存在するのです。

1996年2月9日のメッセージでイエズス様はこう仰せられました。「聖家族の修練が明らかにされたのは、全人類を一つの召命に召し出し、初めから終わりまで、一つの心、一つの精神、一つの目的で私に従わせるためです。それは、私の初めから私の終わりまでであり、神の完全性であり神の栄光なのです。…神である私の潔白な幼少期の秩序に生きて、私に従いなさい。それは、潔白(清らか)で、御父の御旨に従順な道です。世のための私の任務において、私に従いなさい。自分で勝手に作った十字架ではなく、私の磔刑(はりつけ)まで従いなさい。あなた方は、私の潔白の衣を着なさい。あなた方の十字架につけられた潔白のうちに勝利する私の復活に与って喜びなさい。

このメッセージの現実が、聖なる犠牲であるミサの間、私たちのために現れるのです。それはまるで私たちが、天使のお告げ、ベトレヘム、ナザレト、ヨルダン川、ガリラヤ、エルサレムにいるかのようなものです。イエズス様の初めからイエズス様の終わりまで従いたいという人たちにとっては、ミサ聖祭がその現実に今、遭遇できる場所なのです。「聖家族における修練」は、私たち自身のうちに、イエズス様の人生の全神秘のあらゆる段階を、開花させるための招きです(『カトリック教会のカテキズム』521、1391参照)。そして、この地上で中心となるのは、ご聖体なのです。

勧め:


○毎日の聖体訪問(聖体大学のための時間と聖体大学に向けられた意識)

聖体礼拝(訪問)は、ミサの恵みをさらに持続・延長させます。信仰年は、私たちの信じている信仰を深め、また、それによって私たちが信じている信仰を深める時です。私たちが信じている信仰の知識を成長させるのに最高の場所といえば、それは、真理の人であるイエズス様の現存の御前です。信仰はまず、神に対する人間の人格的な帰依(きえ:神などを信じてその力にすがること)であり、これは神の啓示の充満である神の御子を信じることから切り離すことができないのです(『カトリック教会のカテキズム』150、151参照)。ご聖体に現存されるイエズス様の御前で時を過ごすことによって、私たちの信仰には霊的利益がもたらされ、私たちは変容させられます。教会はこのような体験を重ねてきており、多くの聖人がそれを証ししています。

聖体礼拝(訪問)が私たちに多くの利益をもたらすことは疑いの余地がありません。しかし、私たちの主と共に時を過ごそうとすると、様々な障害が持ち上がってくることに気づかされます。教会に鍵がかけられていたり、教会まで遠かったり、仕事や家族に対する務めのために時間が十分にとれなかったりなど、私たちにはどうにもできないことがあります。一方、私たちが何とかできること、優先順位のつけ方の問題、しなければならないことを考慮した時間の組み方の問題などもあります。『カトリック教会のカテキズム』1380「教会と全世界は聖体の礼拝を大いに必要としています。イエズスは、この愛の秘跡のうちで私たちを待っておられます。私たちは信仰にあふれた礼拝と観想において、世界の大きな過ちと罪を償う心構えで、イエズスに出会うためには時間を惜しんではなりません。私たちのこの礼拝が、決して途絶えることがありませんように。ヨハネ・パウロ2世『ドミニケ・チェネ(主の晩餐)』3。


○告解

和解の秘跡は、カトリック信者の大半によって省みられていない秘跡として広く知られています。主の潔白の子どもたちにとっては、欠かすことのできない秘跡です。洗礼の時に与えられた聖化する恵みは、罪を洗い流し、私たちを神の特質に与らせるので、私たちは神の潔白(主の潔白)にも与るのです。

『カトリック教会のカテキズム』1426

…キリスト者となった当初に受けた新しいいのちは、人間本姓のもろさと弱さ、並びに罪への傾きを停止させるわけではありません。この傾きは、教会では伝統的に欲情と呼ばれており、受洗者がキリストの恵みに助けられ、キリスト者として生活しながらこの傾きと勇敢に戦うために、洗礼を受けた人々のうちにも残ります。この戦いは、主がたえず私たちを招いておられる聖性と永遠のいのちとを目指す、回心の戦いです。

『カトリック教会のカテキズム』1458

日常の罪(小罪)を告白することは、厳密にいえば必要ではありませんが、教会から強く勧められています(トリエント公会議第14総会『ゆるしの秘跡について』第5章(DS1680)、「新教会法典」第988条第2項参照)。小罪の定期的な告白は私たちの良心を培い、悪い傾きと戦い、キリストによっていやされ、霊的生活において向上していく助けとなります。私たちはこの秘跡を通して頻繁に御父のあわれみのたまものをいただくことによって、御父のようにあわれみ深くなるよう促されるのです(ルカ6:36参照)。

勧め:


○聖務日課の朝・晩の祈り

信仰年の鍵は、第二バチカン公会議です。公会議の多くの実りの一つとして、聖務日課の改定があげられます。以前は修道会や司祭たちのものと考えられていた時課の典礼ですが、公会議では、この祈りが全教会の祈りの生活の一部を成すものとなろうことを見越していました。

『カトリック教会のカテキズム』1175

時課の典礼は、神のすべての民の祈りとなるべきものです。この祈りによって、キリストご自身が「この祭司職を、ご自分の教会を通して継続しておられます」(『典礼憲章』83)。各自は教会でのそれぞれの役割と自分の生活事情とに従ってこれに参加します。…「霊魂の司牧者は、主な時課、中でも晩課が、主日と大祝日に教会において共同で挙行されるように努めなければなりません。また、信徒自身も、あるいは司祭と共に、あるいは互いに集まって、または、各自単独にでも聖務日課を唱えるように勧められます」(『典礼憲章』100。『典礼憲章』86、96、98とPO5も参照のこと)。

教会で時課の典礼に与ることを広めるというのは、主の潔白の家族に特有なカリスマだと思われます。聖務日課は全教会の祈りであり、私たちの日々の祈りの中心となるべきものだからです。

私個人にとって、時課の典礼の益したところは数限りないのですが、二点だけお話しさせていただきたいと思います。一つ目は、聖務日課が私の回心を育て、継続させたということです。19歳になって家を離れて大学に行くことになった頃の私の祈りの生活は貧弱で、子どもの頃に教わった祈りを唱えるばかりでした。主の祈り、天使祝詞、栄唱、朝の奉献、晩の痛悔の祈りなどでした。時間のある時や思い出した時には、祈りの本を開いていくつか唱えてみたりもしました。マザー(訳注:スバッシュの実際の母であるパトリシャさん)が聖務日課を唱えているのを見たことはありましたが、これがイエズス様とマリア様から言われてしていることだとは知りませんでした。(この頃の私は、母が天からメッセージを受けているという話にはかかわりたくないと思っていました。)

カトリック信者としての生活を実際にはきちんと行っていない私でしたが、幼いころの信仰と宗教の習慣という細い糸でなんとかつながっていました。でも、私の「信じていること」は、私の好みに大いに影響されていました。天の御母と自分の母の祈りのおかげで私には恵みが与えられ、自分の祈りの生活が貧弱であったことに気づかされたと、私は確信をもって言うことができます。私にとっては、もっと秩序立っていて変化に富んだものが必要でした。ですから私は母に、聖務日課を指してこう言いました。「あれを一つ用意してくれたら、僕も祈るよ。」私は大学に行き、朝課と晩課を祈り始めました。家に何度か電話をして、正しい箇所を祈っているかどうかが分からず、怒りを爆発させることもありました。とりわけ、特定の季節や聖人の祝い日などにはそうでした。それでも私は何とか踏みとどまりました。今、思い返してみると、教会の教えに従った大人のカトリック信仰への回心の始まりは、教会の祈りを唱えることによって与えられる力と、浴びるように入ってくるみ言葉で保たれたと言っても良いでしょう。一方では、家を離れて大学生活を送るというのは、カトリック信仰の弱い人にとっては、致命的打撃となることもあります。私の場合は、(訳注:信仰へ)ゆっくりと戻ってくる旅路となりました。私はこれは、聖務日課を唱えていたおかげだと思っています。二つ目の効果は、自分の祈りの生活のみならず、私の日々の過ごし方に良い秩序を与えてくれたことです。生活のリズムと秩序立った習慣というものは、人によってはそう簡単には手に入れられません。とりわけ人生のある時期や、状況下ではそうです。仕事や家族内での役目があまりない青年や、家から離れたところに住んでいたり、あるいは病気をしている青年などは、おそらくそうでしょう。数年にわたり、聖務日課(日々のミサも合わせて)が、私のスタート時刻を定め、そこから私の一日が始まるのでした。それは場所や状況にかかわらず、日々、「神の国をまず求め」るための、良いチャンスでした。聖務日課を唱えるか、あるいはミサに与るために、私は毎日決まった時間に起きるよう努めることができました。また私は次第に、一日の中での行動を、祈りを中心にすえて考えるようになりました。他のあらゆることの隙間に祈りを滑り込ませるようなやり方は、やめるように努めました。これは一夜にして成るというものではありません。そして、祈りと実践的行動の間には、常に緊張感が生まれるものです。それでも、少しでも努力を続ければ次第に、聖務日課は良い祈りのリズムを確立させ、順境にも逆境にも安全で確固たる礎石となるはずです。

勧め:


○信仰の学び(以下のことに注意して)

i) 『カトリック教会のカテキズム』は、カトリック信仰の権威ある表現です。

ii) カトリック信仰を体系的に学びましょう。

iii) 常に聖体大学とリンクさせましょう。(ご聖体の御前で)

以上に記した聖家族のコミットメント(献身)での義務は、信仰年と最も鮮明に結びついているものと考えて良いでしょう。カトリック信仰を宣言し、祝い、生きるためには、それを良く知る必要があります。そのためにはカトリック教会の正当な教えの体系的な学びが不可欠です。第二バチカン公会議の数々の文書とカトリック教会のカテキズムをより「広く知らせ、消化吸収する」ようにとの招きに応えるためには、まず自分がそれらを学ぶべきなのです。「信仰内容を体系的に知るために、誰もが『カトリック教会のカテキズム』のうちに正確で不可欠の手段を見いだすことができます。『カトリック教会のカテキズム』は第二バチカン公会議の最も重要な成果です。」福者ヨハネ・パウロ2世は(訳注:使徒憲章『ゆだねられた信仰の遺産』の中で)こう述べておられます。「このカテキズムは…教会の生活全体にかかわる刷新事業に、きわめて重要な寄与をもたらすでしょう。…私はこのカテキズムを、教会的交わりのために役立つ権威ある道具、また信仰を教えるための確実な規範として認定します。」(『信仰の門』11)

勧め:

(2番目と3番目の勧めを効果的に実践するためには、印刷物でも視聴覚教材でも、あるいは小教区で準備されたものでも、何らかの学びの指針かプログラムなどがあると良いでしょう。)

その他の義務

○毎日、聖書の一部を読み、黙想すること

○ロザリオ(少なくとも一環)

○お告げの祈り(アンジェラス)、正午と午後6時

○主の潔白のメッセージを良く読み、黙想すること

○聖体メダイを見えるところに着けること

○「ご聖体チャプレット」の祈り(ミサの前後に)

○「十字架につけられた潔白のチャプレット」の祈り(できるだけ午後3時から6時の間)

○主の潔白の祈り

○主の潔白の家族のための霊的・実際的支え

○聖ベネディクトの戒律(主の潔白のメッセージに照らして、また、メッセージで補いつつ読む)

最後に、私たちの保護の聖人の一人である聖ベネディクトの言葉をもって結びたいと思います。信仰年を四旬節のような恵みの時と考えてみることもできるでしょう。聖ベネディクトはこのような時期についての勧めを書いています。

 「これら四旬節の日々を清くけがれなく過ごし、また同時に他の時期に犯した不始末を、この聖なる日々にすべて洗い流すことを、私たちは勧めます。それを適切におこなうには、すべての悪習を断ち、涙のうちに祈り、読書し、心からの痛悔と節制を実践しなければなりません。そこでこの期間中には、通常の私たちの務めのほかに何か…加えたいものです。」


著作権:パトリシャ・デ・メネツィズ & 主の潔白の家族(試訳)

©Copyright The Family of Divine Innocence 2013 ©Copyright Patricia de Menezes 2013