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けがれなき神の家族

ニュースレター(2018年 クリスマス)

2020.09.05 05:24

マザー・パトリシャからの手紙

キリストの潔白の子どもの皆様へ

わたしたちは、ダッドリー・プランケット博士(Dr. Dudley Plunkett)に深く感謝しております。プランケット博士はこの新しい著書(『わたしは主の潔白である(I AM DIVINE INNOCENCE)』)によって、キリストの潔白のメッセージと霊性をより多くの方に伝えるために、多大な労を費やしてくださいました。彼の穏やかさと忍耐強さは、この2年間の作業を容易にしてくれました。ダッドリー博士はユーモアと思いやりのある方で、特に、ナザレトの家で山積する仕事のために遅れが出たときなど、わたしにとってもスーバッシュ(訳注:マザー・パトリシャの長男)にとっても本当に助かりました。ダッドリー博士とともにこの本の出版作業に取り組むことができたことを光栄に思います。そして、タイトルを決めようとしていたとき、イエズス様が「わたしは主の潔白である」という名前をくださって、わたしたちはみな、驚きました。福音書には、使徒たちは自分たちの見たこと、聞いたことを証ししたとあります。ダッドリー博士はすぐに、証しという要素が大変重要であることに気づきました。まず彼は、主の潔白のメッセージの主な部分の概要を、この著作で提示していますが、加えて、キリストの潔白の道という恵みがわたしたちの人生の中に入ったことによる、わたし自身と他の人々の証しが、わかりやすくまとめられています。博士は、本部での、わたしや他の人たちからの聞き取りや会話のとき、恵みに対して敏感で、それに敬意を示してくださる一方で、メッセージの内容には明確さを追求されました。専門家としてのゆずることのない態度で示してくださったダッドリー博士の助力と、優しさと友情に、わたしたちは感謝してもし尽くすことができません。

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みなさんが、主の潔白の賜物(カリズマ)について説明しようとしたときに、「主の潔白の道は、わたしには向いていません!」とか「わたしには自分の霊性がありますから」という声を聞いたことがあるかもしれません。しかし、イエズス様はメッセージで、主の潔白について際立った発言をされて、教会におけるキリストの潔白の道の普遍的性格を示しておられます。


2005年6月19日

イエズス:主の潔白はカトリック(普遍的という意味でのカトリック)ですから、すべての人のためのものです。


主の潔白とはイエズス様であると理解することが重要です。ダッドリー・プランケット氏の新著のタイトルでも強調されているように、イエズス様だけが「わたしは主の潔白である」と言うことがおできになります。イエズス・キリストはすべての人を救うために来られたと教会は教えています。キリストは、普遍教会を設立された普遍的救い主だからです。この教会を通してすべての人が救われます。主の潔白の道についてはどうでしょうか。わたしは、ヨゼフ・ラッツィンガー枢機卿(教皇ベネディクト16世)がその著作で、唯一の「道」しかないことを強調され、それは「わたしは道、真理、命である」(ヨハネ14:6)と言われたキリストに従うことですと書かれていたのを思い出しました。これこそが、まさに神であるキリストの潔白の道が教えていることです。イエズスが「わたしに従いなさい」と言われたと、聖書には書いてあります。これはキリストの公生活に限ったことではありません。『カトリック教会のカテキズム』では、「キリストの生涯の神秘」、わたしたちのあがないのための神の啓示、「キリストの全生涯を通して行われている」(『カトリック教会のカテキズム』517)神秘について述べられています。「聖家族の修練」は、わたしたち自身をイエズスの地上の全生涯と一致させる道として与えられており、そこにはナザレでの秘められた年月も含まれています。

     「キリストの全生涯は御父を啓示するものです。そのことば、行い、沈黙、苦しみ、生き方、話し方、すべてがそうです。イエズスは『わたしを見た者は父を見た』と言うことができました。そして御父は、『これはわたしの子、わたしが選んだ者。これに聞け!』と仰せになりました。キリストは御父のみ旨を果たすために人となられたので、その神秘のどんなにささいなものであっても、わたしたちへの神の愛を表しているのです。」          『カトリック教会のカテキズム』516


主の潔白のメッセージでは、聖家族の修練が土台であることが語られています。イエズス様ご自身の聖家族における生活が、福音宣教の土台となっていたからです。聖家族の修練は、完全になるための訓練であり、すべての人のための、生き生きと働きかけてくる恵みです。これはすべての人のための天からの賜物です。カテキズムではさらにこう言っています。「キリストのあらゆる富は、すべての人に提供されており、すべての人の財産です」『カトリック教会のカテキズム』519

メッセージで主は次のように仰せられました。


2004年7月21日:

「聖家族の聖三位一体的生活は、任意ではありません。必須であり、人を養成するものです!それは平和と成聖の場所であり、世からの避難所です。男性・女性・子どものための、教会の中にある神自身の家庭です!」


わたしたちはイエズス様に、その最初から従うように召されています。つまり、母なる教会を通して、マリア様の霊的母性の胎内からはじめるということです。イエズス様は、教会の類型である聖母マリアのお世話のもとにおられました。母マリアはイエズスを胎内に宿し、産み、育て、必要な手をさしのべ、イエズスは、神の前にも人の前にも、背丈も知恵も成長されました。聖ヨゼフは、聖家族の中で、この世でイエズスの命を護るという父性的役割を果たしました。わたしたちの中でキリストの命が、カトリック教会の秘跡と教えによって養成されていく過程で、聖母マリアと聖ヨゼフは、この土台となる役割を今でも生き生きと果たしてくださっています。弟子たちがイエズスに「先生、どこに住んでおられますか」とたずねたとき、イエズスは、「来て、見なさい」と言われました。主の潔白の道でも、まったく同じ招きが与えられています。

聖家族の中には、キリスト者の女性の母性的役割の完成と、男性の父性的役割の完成と、司祭の役割の完成とがあります。聖家族の修練のつとめは、最初の聖家族そのものの中で果たされなければなりません。聖マリアと聖ヨゼフは、聖家族の修練における最初の修練者でした。そこでお二人が学ばれた、イエズスの命を育て、護ること、そしてキリストのようになることを、たった今聖家族はわたしたちと、分かちあってくださっています。これは、家族のため、教会のため、全人類のための、カトリック・クリスチャンの神的秩序の原型です。イエズス様はわたしたちに、何か新しいものをお与えになったわけではありません。最初のご計画の美しさ、すなわち個々の家族と人類家族に対する最初のご計画の、より深い理解を与えてくださったのです。わたしたちは、キリスト教のはじまりの時代に、イエズスご自身が、家族と教会の中にすえられた崇高な土台の上に、より十全に生きるようにと招かれているのです。

神から選ばれてこの養成という重責を担うよう任せられた方たち、すなわちイエズス・マリア・ヨゼフ様方によって、わたしたちみなが、キリストの幼少期において育てていただく必要があります。神は聖家族の中に、あらゆる家族のための完全な秩序をお定めになりました。すべての人が、普遍的修練において十分な養成を受けることができるようになるためです。

聖家族は、聖なる家庭生活の単なるひな形ではありません。それ以上のものです。この恵みに協力する人にとっては生きた訓練です。わたしたちが、自分自身と、人と、自分の召し出しの中にあるキリストの命を育て、護ることを習得するならば、わたしたちの人生は変容させられることでしょう。世にあってわたしたちは、平和と成聖の場である聖家族そのものの中で養成を受ける必要があります。

「主の潔白の道は、わたしには向いていません」と言う人には、主の潔白とは誰かを考えてみてもらってください。主の潔白は人であり、その人とはイエズス・キリストです。わたしたちがいかにイエズス様の地上の生涯のはじまりから従わなければならないか、聖母と聖ヨゼフのお世話のもと、イエズスに寄りそわれて、その生涯をお手本として従わなければならないかを、説明してあげてください。わたしたちはみな、カトリック(普遍)教会の中で、イエズス・マリア・ヨゼフ様方によって養成される必要があります。そして、聖家族が、自分自身の中と、家族の中と、自分の人生の中とにおられるキリストの命を育て、護ってくださるのに任せる必要があります。

わたしたちは、主が「わたしは、いつもあなた方とともにいる」から恐れることはないと言われましたので、そのお言葉に大いにいやしとなぐさめを見いだすべきです。どのようにして主は、わたしたちといつもともにいてくださるのでしょうか。第一に、特別な賜物として、イエズスご自身がその御体・御血・ご霊魂・ご神性をもってご聖体に現存してくださっています。聖なる犠牲(いけにえ)であるミサの中で、聖体拝領によってイエズス様を受ける以上に近い関わりを、生ける神ともつことができるでしょうか。ご聖体の現存が聖櫃に安置されている地元の教会や、あらゆる教会をしばしば訪問して、主にお会いすることができるよう、主は計らってくださいました。なんという特権でしょう!

この他に、いかにして神はわたしたちとともにおられるのでしょうか。神のみ言葉が聖書のうちにあります。ここでひと言、重要なことを言わせていただきたいのですが、わたしたちはカトリックの聖書を読み、学ぶことが大切です。聖書によっては、教会が認可した書を省いているものがあるからです。

わたしたちが聖務日課(訳注:教会の祈り)を唱えるとき、他の人と一緒でも、一人でも、主はともにいてくださいます。聖務日課を祈るときや聖書を読むときに、わたしたちは決して一人ぼっちではないということを、忘れないようにしたいものです。わたしたちは聖書の中に神のみ声を聞きます。神の愛に満ちたご指導や、寂しいときや恐れるときのなぐさめがあります。わたしたちは主のアドバイスや教会の指導を受けます。カトリック教会のメンバーとして、わたしたちはキリストの体である教会に密接につながった部分なのです。

告解(訳注:ゆるしの秘跡)もまた、わたしたちが主に出会う方法です。司祭の手を通してキリストがわたしたちの罪をゆるしてくださる以上になぐさめとなることがあるでしょうか。先日、わたしは告解して、ミサに与り、聖体拝領でイエズス様を受けました。教会から出てきながら、わたしは、これは天国に一番近いことだと思いました。


著作権:パトリシャ・デ・メネツィズ(試訳)2019年2月1日(初金)