unite
最近、とんと踊ってないので、
忘れてた感覚を
ふと今日思い出して
あ、これ必要、って思った。
写真を撮っている時から、切り取られた部分と、その先、について
いつも考えて、というか不思議に思っていた。
写真て、その「切り取った部分」だから。
それがわたしの視点であるけれど
でも自分の感覚は、いつもそこを超えてあって、
もどかしくもあった。
なぜ、四角なのだろう?
なぜ丸なのだろう?
わたしを隔てている、この皮膚とはなんだろう?
ダンサーはそこを溶かしていく。
空間いっぱいに広がっていく。
そこには踊っているからだしか見えないのだけれど
意識は広くどこまでも繋がっていく。
今回の作品を、
「こちら側から見ているようで見られているような気がする」と言ったひとがいて
作品の中に自分が入ってしまっているようだ、とか
結局のところ、あの作品はわたしが作り出しておきながらも
本当に生み出しているのは見ているひとだったりする。
あなたとわたしの世界が繋がった時に
見えてくるもの
それが、今回の作品だった。
でもあの中の世界は、いま、私たちの身の回りに満ち満ちている。
少し、自分の普段の意識をぼーっとさせると感じられること。
そしてそのエネルギーとつながり一緒に遊ぶのが踊り。
見ている人のエネルギーと
周りに在るたくさんの有象無象とともに
つながり、ひとつになる。
この湿気をまとった熱い空気のように
いつもそれはあって
そこにつながると、世界の「境目」はなくなってしまう。
わたしとあなたは消えてしまう。
三宅洋平の持つエネルギーも
なんだかそれに似ている。
彼の視点から、の言葉でもあるけれど
それは多分わたしからの言葉でもある。
unite、と彼は言う。
つながる、というのは、
ひとつの思想の元に同じ方向を向くのではなくて
全存在との有り様を認める、ということなのではないのかな。
境目、を溶かしていく。
………………
人かもしれないし
人じゃないかもしれない
ただ、知覚が少し変わっただけで
隣の人はこう見えるかもしれない。
なんとなくずっとそう思ってた。
恐ろしいような、懐かしいような。。。
この存在とすれ違った時、
一瞬何もかもが融合する。
わたしはあなたの中に入り、あなたはわたしの中に入る。
夕暮れの山からは、セミの合唱。
薄暗い光の中で、
一瞬の逢瀬、邂逅。
夜がくる前に
捕まえよう
その姿を