南シナ海「九段線」に法的根拠はない⑤
青い海と碧い空、大海原に浮かぶ珊瑚礁の白い砂浜、遮るものは何もないまさに絶海の孤島を独り占めにして暮らしてみたいと夢見るのは、単に空想の世界であって、実際には、灼熱の太陽に焼かれ、飲み水は天の情けにすがって雨水に頼るしかなく、台風や嵐のときは荒々しい高波に襲われ、荒海のなかで藻屑のようにはかなく消えるのが落ち。まして、つねに海水に覆われ、人も住めない環礁に手を加えて構造物を作り占有を宣言しても、国際社会の承認は得られず、他のライバルと互いに領有権を争い続けるだけだから、結局、自分の思うとおりには海底資源の開発もできず、兵士たちの駐留経費など領有を維持するための莫大なコストだけが嵩み、何の役にも立たない無駄な投資が続くことになる。南の海の珊瑚礁の島は、誰のものでもなく地球のみんなのものであり、あるがままの姿で豊かな自然を残すから、それだけで無限の価値が生まれるのである。
『南シナ海―アジアの覇権をめぐる闘争史』のなかで、著者ビル・ヘイトンは次のように書いている。「第二次世界大戦終結から1年強のあいだ、パラセル諸島であれスプラトリー諸島であれ、どこの国からも領有も支配もされていなかった。しかし、その50年後にはほぼすべてがどこかに領有・支配されている」(P94)
第2次大戦後、スプラトリー諸島の一つの島を台湾が占拠したのに続き、フィリピン、ベトナム、マレーシアがそれに続き、各国はそれらに前哨拠点や滑走路を建設した。中国が兵員を派遣し、この海域の環礁や島を占拠したのは1980年代になってからで、もっとも遅れてやってきた新参者に過ぎなかった。
しかも、1980年代に中国がスプラトリー諸島分捕り合戦のパーティーに加わったころには、よいテーブルはすでに獲られたあとで、あとは安い席しか残っていなかった。中国が現在、実効支配している場所8つのうち、5つは低潮高地で、残る3つもフィリピンの申し立てによればせいぜい岩でしかなく、12カイリの領海は生じてもEEZは生じない。国連海洋法条約に明記されているとおり、それが低潮高地であるかぎり、そこにいくら大きな要塞を建てても無意味なのである。
中国は、どういう経緯をたどり南シナ海への進出を図ってきたのか、振り返ってみたい。領有をめぐって大きな変化があった時期、つまり関係国の間で緊張が走り危機的状況となったエポックは、1946年から47年、1970年代初め、1988年、そして1995年と、つごう4回あった。
<戦後、沿岸の渡海作戦さえ失敗した中共軍>
第2次世界大戦が終結するまで、国民党の海軍にはスプラトリー諸島に到達する能力すらなかった。1946年12月、アメリカから退役した艦船2隻と海図を提供され、さらに訓練までしてもらって初めて、遠洋航海ができる態勢となった。1946年12月、蒋介石の艦艇は、パラセル諸島のウッディー島(永興島)や日本軍が撤退したあとのスプラトリー諸島イツアバ島(太平島)に到着し、領有を宣言するため、日本が残した石碑を取り払い、そのあとに中華民国の石碑を建てたという。(p138)しかし、1949年、国共内戦に敗れた蒋介石は台湾に逃亡。1950年、中共軍に海南島を奪われると、ウッディー島とイツアバ島から軍を撤収させている。
一方、この当時の中共軍は、船を使った渡海作戦にはまったく不慣れで、海での戦い方も知らなかった。それを雄弁に物語るのは、1949年10月、金門島をめぐって中共軍と国民党軍が一戦を交えた「古寧頭戦役」(こねいとうせんえき)だった。陸上では連戦連勝だった国民党軍に対し、中共軍が敗れた唯一の戦闘でもあった。
中共軍は、台湾に逃れた蒋介石軍を追って台湾に攻め込む前に、国民党軍が立てこもる福建省沿岸の金門・馬祖を奪い取る必要があった。中共軍は上陸用に200隻の漁船を徴用し、上陸部隊の第1波として9,000名の兵士を送り込んだ。しかし、漁船の多くは浅瀬に埋められた上陸阻止用の杭に阻まれ、干潮になると浜に乗り上げたまま動けなくなった。浜にとり残された木製の漁船は、国民党軍の火炎放射器で焼かれ、手榴弾で簡単に破壊された。9000名の中共軍兵士は島で孤立し、ほぼ全滅した。海の何たるかを知らない者の作戦の失敗だった。金門島と対岸のアモイまでは最短距離でわずか2キロ。そのほとんどが浅瀬で、「小三通」のいま、金門島とアモイの間は、1時間ほどのフェリーで結ばれている。
これほど近い島も落とせずに、中共軍は台湾本島をどう攻略するつもりだったのか。ちなみの国民党軍側で金門島の作戦を指導したのは、「白団」と呼ばれた根本博中将をはじめとする日本人軍事顧問団である。
ところで新華社香港支社長として、香港返還=香港回収工作に携わった許家屯が亡命先の米国ロサンゼルスで6月29日、死去した。100歳だった。彼の回想録に、この金門島上陸作戦の話が出てくる(『香港回収工作』ちくま学芸文庫下巻P63)。この作戦を指揮したのは第3野戦軍第10兵団司令員の葉飛だった。この上陸作戦で1万人近くの犠牲者を出し、戦術と状況判断に誤りがあったとして批判されたが、のちに葉飛は海軍司令官に就任している。この程度の能力でも海軍のトップが務められたのである。
<1950年代 領有宣言しても渡海作戦能力なし>
「1950年5月からの5年間、南シナ海の島嶼のうち、どこかの国に占拠されていたのは(フランス軍が占拠する)バトル島だけだった。この海域を支配していたのはアメリカ、英国、フランスであり、1950年6月に始まった朝鮮戦争中はとくにこの3国の支配が強かった。中国には、この3国と覇権を争う力がまったくなかった。とはいえ、だからと言って領有権をあきらめたわけではなく、1955年に共産中国の部隊がウッディー島に根拠を置いている。(P98)
1958年8月23日、金門島と馬祖島に対し中共軍は砲撃を開始した。中共軍は、戦闘開始から2時間で4万発、1日では5万7千発もの砲弾を金門島に撃ち込んだ。「八二三砲戦」または「第2次台湾海峡危機」として知られるこの砲撃戦では、アメリカは金門防衛のために戦術核兵器の使用まで示唆した。
その11日後(9月4日)、共産中国は「領海宣言」を発して、岸から12カイリまでの領有を主張した。これには金門・馬祖のほか、台湾およびその周辺の島嶼、パラセル諸島、マックルズフィールド堆、スプラトリー諸島の領有権まで主張されていた(p141)。
これに対して、当時は同志的関係にあった北ベトナム首相が周恩来に書簡を送り「中国の領海宣言を認め、同意する」と伝えている。のちのちこれが「禁反言に抵触する」として問題になることになる。
一方、フィリピンのキリノ大統領は1950年5月1日、スプラトリー諸島の領有を宣言した。ところが、1951年のサンフランシスコ講和会議ではフィリピンはスプラトリー諸島の領有権を主張していない。(P100)
1956年7月、フィリピンの実業家トマス・クロマが、パラワン島沖の海域とその中にあるすべての島、岩礁、砂洲の所有権を主張、フリーダムランドとして独立国であると宣言し、みずから国家元首を名乗った。トマス・クロマは、フィリピンではスプラトリー諸島の「発見者」と呼ばれているという。のちにマルコス大統領は、トマス・クロマが独立宣言したフリーダムランドを「カラヤン群島」と改名(カラヤンとはタガログ語で「自由」の意)、1978年6月、大統領令を発してパラワン州の自治体に編入した。
<1970年代 パラセル諸島をめぐる攻防>
1973年9月、南ベトナムはスプラトリー諸島の10の島を正式に自国に編入し、石油探鉱活動を保護するため、兵を配置した。
一方、パラセル諸島の領有権をめぐり、1974年1月、中共軍と南ベトナム軍の間で武力衝突が発生。中共側が南ベトナムの軍艦1隻を撃沈し、南ベトナムが支配していたバトル島に部隊を上陸させて占領した。「永楽紛争」あるいは「西沙海戦」とも呼ばれる。中共海軍の公式記録(『当代中国海軍』1987年)によると、この作戦は毛沢東と周恩来によって命令が下され、鄧小平が作戦の指揮をとった。準備は前年の7月ころから始まり、中国のトロール船による訓練が行われたという。ベトナムが旧正月(テト)の準備をしていたころ、パラセル諸島周辺に不審なトロール船が現れ、沖合い300メートルに停泊。中共軍の発砲を契機に双方の戦闘が始まった。毛沢東の意図は、中国南岸の沖合に戦略的要塞を確保することであり、パラセル諸島周辺の油田探査を可能にすることだった。P109
1975年4月、サイゴン陥落の3週間前、北ベトナム側は南ベトナムからスプラトリー諸島の6島を奪った。中国の手に落ちるのを防ぐためだった。
1975年11月、共産党機関紙『光明日報』がベトナムの領有権の主張を非難。南シナ海の島々をめぐる中国と北ベトナムの紛争が明らかになった。スプラトリー諸島は、はるか南方にあるため、当時の中国はそこで継続的に軍事作戦を遂行する能力がなかった。にもかかわらず、その準備はひそかに進められていた。1970年代の後半にはパラセル諸島の足場を強化していく。1978年にはウッディー島(永興島)の港を拡張し、滑走路を建設した。かくして10年後、中国は圧倒的な存在感(プレゼンス)を示すまでになる。(p117)