修羅ら沙羅さら。——小説。7
以下、一部に暴力的な描写を含みます。
ご了承の上、お読みすすめください。
修羅ら沙羅さら
一篇以二部前半蘭陵王三章後半夷族一章附外雜部
蘭陵王第一
昼に近くなった。十一時を廻った。それはすでに知っていた。新型コロナを厭うた譯でも無かった。にも拘わらず壬生はその日何處に行く気にも成れなかった。何をする気にも成れなかった。ユエンを抱いてやるのさえ億劫に感じた。むしろ歸って來なければいゝと壬生は思った。ソファの上に目を閉じた。あお向けた儘の閉じられた瞼に赤とオレンジにちかい光の残像が透けて見えた。壬生はそれを見るともなくに見た。それを目に見ているというべきなのか否か、壬生は判断しかねた。色が翳った。傍らに人の氣配があったことは知っていた。目を開けた。タオだった。その珍しく結われなかった髪が、覗き込み、長く伸びたその儘に垂れて壬生の顏を覆った。タオほどに気高く美しい顏を壬生は知らなかった。さらし放題の肌の褐色は寧ろその肌に匂い立つ固有の色彩として彼女をだけ彩色した。目の片方だけ黒目が赤かった。壬生は理由を知らない。その色が目に時に、その目を見詰めた眼に何故か痛みを走らせた。タオは目を剝いて笑っていた。いきなりに、それは無惨な迄に容赦のない笑みだった。口を大きく明けて白目を一瞬だけ剝いた。口は広げた儘だった。笑った事実さえすでに忘れ、かたちは大きく広がった儘に口の中が無造作黑かった。あまりに自然な、ちいさな狹い光の翳り。唾液が顏に垂れた。臭った。内臓の腐ったような。当分齒など洗っていないに違いなかった。タオはのけぞるように上半身を、跳ね起きるようにのけぞらせると、そして叫んだ。ベトナム語だった。纏うた白いパーティ・ドレスが裂けそうに伸びた。その豐かな女の体のかたちに。寢間着のピンクのだぶついた薄いパンツの上に、妹たちの誰かのお古に違いないパーティドレスを、タオは着ていた。あまりに小さすぎた。肉の豊満を淫蕩なまでに讃えたからだには、そして布地はち切れそうな無理を曝し続けた。壬生はタオの爲に息苦しさをのみ感じた。二の腕は着込んだ男物の防寒着が隠した。タオは再び背筋を反り返らせて何か叫んだ。右のかすか上の方を見て、何を云っているのか壬生には判らなかった。ベトナム語だった。彼女は長い大聲のベトナム語で何かを嘲けていた。目に野蠻な色が萌した。事実野蠻に見えた。或いはタオは訴えていた。或いは拒否していた。或いは侮辱していた。或は嘲弄し、或いは罵倒していた。むしろ或は懇願していた。或いは嘆いていたのだった。或は讃えてさえいたのだった。或いは、彼女にそれらに本質的な差異など無かったのかもしれない。そして或いは、それらすべての混淆した複雜を、彼女の想いはまさに彼女に体現していたのかもしれない。壬生は部屋から顏をすこしだして、コイがうかがっているのに気付いた。かすめとるように。コイはすぐにひっこめた。かすめとるように。ドアを閉め鍵をかけた。かすめとるように、壬生は、そしてコイはいつもそうだった。頸を突っ込みかける前にはまっさきに逃げた。壬生は身を起こした。すれすれにタオの肌が匂った。エレガントでノーブル過ぎた香水に砂糖をぶちまけて、汗の匂いに媚薬の効果を期待したような。タオがめくりあげたドレスのスカートで顏を拭った。さらされた乳房には気づかなかった。タオが再び壬生に叫んだ。気付かれない儘乳房が揺れた。タオは滿足した。言い切ったのだった。背を向けないで奧に歩いた。蟹股で、床に踵を擦り付けるように步いた。見つめたタオの目が、黑も赫もともに壬生を愚弄した。奧の翳りに入った時に、すでに壬生をわすれたタオはあまりに自然に右に歩いた。蟹股で、猫背の儘にのけぞったように背を伸ばして歩き、その先はタオがひとりで住んでいる区画だった。もとチャンとその娘たちが相部屋を複雑に重ねて住んでいた。チャンはティエンの家の新築と同時に引き取られた。ティエンの四人の子供の最後が、タオと同じ症状を曝しているのに気づかれた三歳の一年前に、タオはティエンに忌まれた。チャンは毎日バイクに載せられて、殘した娘の世話に來た。ほんの三時間程度。タオの生活区域は荒れた。鼠と俱にタオは生きた。一日分まとめた食糧をタオは好きな時に食べた。好きな時に寝た。タオは彼女の区域の女王だった。タオはチャンの最初の子だった。妹たちの誰にも姉を引き取る気はなかった。壬生は、壁の影に姿を消したタオに隨った。タオはもはや壬生を振り返りもしなかった。仏間を通って裏の庭に出た。つけっぱなしの電飾のせいで、まさに人工の荘厳をさらした仏間に物音がした。鼠が駆けたに違いなかった。だれでも、——その鼠の目は、
だれでも他なる生き物を弑殺者の侵入として見出す。
彼固有のものであるべき領土の中への。
タオの区域は裏とは言え、通りにはそのまま面していた。もとはこちらの方が表通りだったのかもしれない。庭の向こうに何かの廟が見えた。樹木に翳る庭の眞ん中に出てタオは日差しを浴びた。白いのパーティードレスを引き上げて尻を出した。壬生が羞じて、眼を逸らしそうになったほどにそれはひとり、色めいてなまめいた。壬生はタオをだけ見ていた。木漏れ日がまだらにタオにふれた。タオはしゃがみかけると、しゃがみきらない儘にそこに放尿した。チャンが居たなら罵倒するに違いなかった。妹たちなら折檻するかもしれなかった。誰よりもタオは煽情的なまでに美しかった。タオの体はまさに男の夢の女だった。かくて偈を以て頌して曰く
いくつもの明白な差異がある
告げよう、そっと
蝶と蝶の落とす翳には
だれに?あるいは
恐ろしいほどの明白な差異がある
だれかに。わたしではない
飛ぶ蝶と飛びたつ前の蝶には
だれかに?あるいは
際立った明白な差異がある
告げよう、だれかに
蝶の羽根と蝶の足には
だれに?
まがいようのない明白な差異がある
指先がふれる
傾く蝶の翅の傾斜と一、二步這う蝶の触覚の角度には
そのまえにゆびさきは
それらの差異をつぶさに見た
ふれようとした
タオはひとりで
じぶんにふれた
さまざまな聲と音響と
ふれられもしない
タオはもはやひとりでさえもなく
そのままに
さまざまな色とかたちと俱に
ふれあいを擬態して
タオはかろうじてひとりで
ふれられないままに
さまざまな息吹きとその残像の兆しと
眼差しは見た。その
かろうじてタオはその
指先のわずかな向こうに
固有性を維持したのを知り
飛び立つ蝶を
その羽搏きの揺れを
かくに聞きゝかクてユエン歸り來たル後殊更に詫びて媚びタる後壬生と俱なる昼食の後ひとり寢き昼寐ベトナム人の常なルがゆゑなり此ノ國に人と人ゝオフィスなラば床に御座を敷きて寝又此の國に人と人ゝ工場な羅ば床に段ボールを敷いて寝又此の國に人と人ゝ家なラば当然に家のどこかシらに寢て嘗て壬生サイゴンの路上にバイク・タクシーのバイクの上に寝るを見き壬生は添ひ寢せざりき居間にアりテ壁の向かふにタオが怒號の騒ぐ儘に耳に聞きゝかくて壬生思ひて…蝶にでも?
雀に
鳩に?
烏にでも?
タオは叫んでいるのかも知れない。たとえば、十年前の明日の天気の曇りの日の、火星の空に雪が降る奇蹟的現象の可能性について。
かくて壬生外に出でり故にユエンの家には眠れるユエンと眠れるコイと醒めたるタオが殘りき壬生外に出てどこに行ク宛てもなかりき右手なる車道が向かフに河に日差しは照りき照り映え映えて照り埿の河白くきらめかき光り騒ぎてみづから白濁せり壬生小道に折れき壬生見て目に道に道なりノ店の開閉店乃状況を追ひき知りタる喫茶店の前を通りかゝりき厥レ女三人で經營しをりきその女のひとりを壬生は知りき通りがゝりにその女にのみ笑みきかくてそノ他の女にも笑みきひとりの女壬生を見て歓喜し女殊更にも笑みて女ベトナム語しか話せザりきゆゑに背後なる店を指に差しき店大掃除途中にてムしろ雜然たりかクて女腕にバツ印を作りき明日から閉めると云へるに壬生解しきかくて事実異ならずかくて頌して
あなたに話そう
かくすすべもなく?
まさにあなたの爲に話そう
かくす氣もなく?
ここではコーヒーはアイス・コーヒーに決まっている
かくす必要さえ感じずに
ロックグラスに砂糖をたっぷり落とす
ミーはわたしをまっすぐに見る、いつも
淹れ置きのコーヒーをそそぐ
正面から
かき混ぜる
まるで、そこに
氷を落とす
わたしとミー以外には
冷やしたお茶を添える
存在さえしていなかったように
お茶に砂糖は入れない
知ってる
お茶の金色は氷の溶かした眞水の渦をしずかに巻く
あなたは知ってる
上に
わたしがあなたを愛していることは
下に
わたしは知ってる
右に
わたしがあなたを愛していることは
左に
わたしがミーを
あるいは四維に
愛しているのかどうか、その問題は
立方体の広がりの儘にそれらの巻き亂れる可能性のうちに巻く
ミーの眼差しには存在しない
時に行く度にミーは目配せさえしなかった
長い髪がひっ詰められて
瞳孔の開いた眼でわたしを見た
後ろで肩に撥ねる
隱すということはなかった
かすかに女たちに
だからひけらかす必要もなかった
肌の汗ばんだ匂いがした
主張もない素直さの儘に
日差しは慥かに
ミーは瞳孔を開いた
彼女たちを店の
その眼差しのなかにわたしを見た
日影の中に
ミーはすべてを知っていた
蒸す
わたしの住んでいる場所も
ミーの眼差しは
わたしの俱に住んでいるひとたちも
瞬きさえしないように見えた
わたしの毎日のくさぐさのあらましも
わたしを見るときには
狹い親しい町だった
いつもなら
客の誰もが美人のミーに媚びたから、ミーは耳にわたしの話を知っていた
昼下がりにも店は
なにを求めているのか定かではなかった
男たちで混雑した
ミーはわたしを自分のものにしようという氣もないのだった
未婚の、既婚の男たちで
ミーは惡い女ではなかった
博打をする譯でも無く
そして自分が惡い女ではないことを知っていた
殊更に騒いだ雜然をさらすわけでもなく
だからわたしを自分のものにしようという氣もないのだった
ミーの爲に
ミーはひたすら瞳孔のひらいた目で見た
殊更に家畜じみた
その目の色は知っている
従順な紳士をさらして
多くの女がわたしにさらした
だれもが猫背で
多くの男はさらさなかった
自分のスマートホンを見た
愛しするというかたちはおそらく男と女ではちがうのだ
誰もがほとんど聲をださずに
それが身体的な要因なのか所謂精神的な要因なのか
その日影に群れて
精神の本能的なプログラムのあらわれなのかその性格に歸するべきなのか
うずくまるよにミーに添うた
しらずに強制されるものかあくまで能動的なものか
ミー以外のふたりの女は
わたしには判らない
丸いちいさな体で息遣う
男は冴えた見つめる眼差しをさらす
男たちの目の
女は朧ろに瞳孔をひらく
自分たちにはふれないで
おなじく、私を鮮明に見つめる
ミーにさえふれない伏し目の気配の
彼等の、彼女等の眼はそのそれぞれのいろとかたちにあざやかに見い出す
なまめいた匂いの筋に
ミーが聲を立てて笑った
ぶつかりながらふたりは
不織綿マスクはその表情をは視覚にかくした
日影に生きた
そのほゝ笑みを気配させた
その日影は涼しかった
通り過ぎかける私の、彼女をだけかえり見た眼にミーのくちびるが気配に兆した
通りの向こうに高校の
不織綿マスクの向こうに唇は何か言いかけた
グランドが見えて草を茂らせ
すくなくとも一か月か二か月の別れを告げたように思った
いま
ミーの瞳孔の開いた目が私を見た
だれの姿もなかった
ミーはわたしのためにマスクをおろした
だれの聲も
ミーの瞳孔の開いた眼のしたに、彼女の頬と唇は笑んでいた
もはや響かなった
わたしは彼女の爲にだけ笑んだ
ミーが
ずれあがるマスクの触感が頬に違和感を与えた
そしてわたしの爲にだけ笑い
街路樹の上に蟬が啼いた
ふたりの女の、そのひとりが