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けがれなき神の家族

「キリストの聖なる潔白の道」DI42

2020.09.06 04:57

「キリストの聖なる潔白の道」DI42

The Way of Christ’s Divine Innocence, Spring 2020

[p.18]

1989年2月8日(i)、黙想会

パトリシャ:ああ、わたしの神よ、あなたは本当に寛大にご自分の恵みを与え、驚くほど豊かに注いでくださいます。わたしたちの間でも多くの人が、このような数々の賜物を、どれほど不注意に、あるいは無関心に受け取っていることでしょう。それを見て、心が引き裂かれる思いです。わたしの主よ、どうすれば、本来のあり方に戻せるのでしょうか。わたし達は、いったいどこから始めたら良いのでしょうか。

あなたはわたし達の結婚に恵みを注いでくださいます。そして、子どもを与えて祝福してくださいます。結婚した状態で、わたし達が偉大な聖人になるようにと優しく招いてくださいます。福音に従うことによって、あなたに完全に従うよう招いてくださいます。以前は気づいていませんでしたが、あなたはどれほどの高みに家族を招いておられることでしょう!あなたは結婚の状態を、秘跡の尊厳にまで高めてくださいました。それにもかかわらず、わたし達はこの偉大な秘跡に対してなんという扱いをしていることでしょう!わたし達が聖家族に目を向けたあと、自分の結婚を見るならば、恥で頭(こうべ)を垂れるばかりです。わたし達には、あなたご自身の御言葉に耳を傾けるだけで十分です。「あなた方を呪う者を祝福し、あなた方を迫害する者のために祈りなさい」(ルカ6:28)。そして、自分がこの言葉どおりに行えたかを考えてみましょう。わたし達は明らかに、一歩一歩、聖家族の修練を学ぶ必要があります。

イエス:わたしの子よ、天がしようとしていることを、人類が見て理解しようとするならば、どれほど恐ろしい苦しみから人類が救われることであろうか!わたしはあなた方が従うようにと、手本を示しました。わたしは、数々の不正の苦い傷を耐え忍びました。わたしの心は槍で突き刺され、開かれました。わたしの心は、あなた方への愛だけでいっぱいなのです!この優しき天の御母が、苦悩のうちにわたしの十字架の足元でどれほど泣かれたかが分かりますか。それは、全人類のために天から限りない恵みが注がれるためでした!あなた方を救うために、どれほどの犠牲があったか、本当に理解していますか!わたしの子ども達、わたしの元に戻って来なさい!来て、聖なる潔白の道を歩みなさい。あなた方の一人ひとりが、わたしにとってどれほど尊いか分からないのですか!

パトリシャ:それから主は、十字架につけられたご自身とご聖体に現存されるご自身について、こう話されました。

イエス:わたしは、あなた方に自分自身をあますところなく与えました。あなた方の体を罪から救うために、わたしは自らの体を、拷問の苦しみと、侮辱と、苦悩を受けるようにと差し出しました。

わたしは、自らの血を与えました。どれほどあなた方を愛しているかを示すためです。しかし、あなた方はわたしのこの血をこぼし、嘲(あざけ)りのうちにこの賜物を扱いました。

わたしは、自らの霊魂をあなた方に与えました。あなた方の益のために、天の御父にお捧げするためです。

わたしは、すべてにおいて謙虚であるよう、自らの神性をあなた方に与えました。あなた方の心をわたしのもとに取り戻すためです。わたしは今も、毎瞬、毎時間、毎日、ミサの聖なる犠牲(いけにえ)によって、これを行なっています。あなた方を心から愛しているからです。

わたしの子ども達、わたしは諸秘跡としてあなた方のあいだを歩んでいます。わたしはあなた方に洗礼を授け、あなた方をわたし自身の子どもと宣言(認知)します。わたしはあなた方を養います。腐敗するものによってではなく、腐敗しない天のパンであるわたし自身によって養います。わたしはあなた方を、様々な方法によって、わたしの秘跡的生活の中に引き寄せます。あなた方の結婚によって、わたし自身の家族である聖家族に引き寄せようとしました。わたしがあなた方に注いだ恵みの数々によって、あなた方が、霊魂を救うというわたしの贖(あがな)いのわざに、英雄的に協力してくれることを、深く望んでいます。わたしの子ども達、わたしがあなた方の「ゆるせいないこと」をいつでもゆるしてあげようとしているのに、あなた方は自分の周りの人の「ゆるせいないこと」を、なぜゆるすことができないのですか。

天はあなた方のために開かれました。わたしはこれらのメッセージのうちにあなた方の元に行き、世界に、尊く並外れた恵みをくだそうとしています。あなた方の一人ひとりは、一つの家族に生まれ、迎え入れられました。一生のあいだに、あなたは様々な家族的形態の中に所属することになります。聖家族の修練は、あらゆる家族の中で偉大な聖人を花開かせるように意図されていますが、この聖家族の修練を学ぶならば、あなたは聖霊が地の面(おもて)を新たにするのに協力することとなるでしょう。

パトリシャ:わたしの神、わたしの主よ、あなたがわたしに示してくださることを、わたしが説明できさえするならば!あなたが意図された人類の姿、そして、わたし達がどれほど美しい家族になるよう招かれているかを見たあとに、数多くの家族がなってしまった姿を見ると、わたしは落ち込みます。わたし達が、わたし達のためのあなたの神的ご計画を見ることさえできたなら。これは本当に素晴らしいです。あらゆる家族全体が、大きな歩幅で成聖と徳の道において成長し、贖(あがな)いに親密に協力しています。その方法は、一人ひとりの中で潔白と聖性が主の勝利を得ることによります。

イエス:わたしの子よ、わたしの聖体の御心のこの望みをあなたに見せることにより、あらゆる試練と苦しみの中にあるあなた方一人ひとりを勇気づけます。わたしが来たのは、あなた方の信仰を固め、希望を強め、神なるわたしの愛徳があらゆるところで生き、活動するようあなた方を勇気づけるためです。

わたしの子ども達を通して、あらゆる仕事、生活のあらゆる場面、社会のあらゆる場所で、わたしが勝利することを望みます。わたしは、あなた方のうちにあって無敵です!苦しみは喜びに変わり、涙は幸せに変わります。わたしの子ども達、もしあなた方が、自分たちのうちにわたしの命をまことに生かし、神であるわたしの聖なる潔白があなた方のうちで勝利することを拒まないならば、どんな悲嘆であろうとも、あなた方を打ち負かすことはないでしょう。

パトリシャ:主よ、あなたはご自分の言葉によって、わたしの心に火を灯(とも)してくださいます。そして、あなたが見せてくださった全てによって、わたしを鼓舞してくださいます。それでもわたしは自分の弱さを知っています。なんとわたしは脆(もろ)いことでしょう。わたし達は皆、なんと脆(もろ)いのでしょう!

イエス:その弱さと脆(もろ)さを、わたしに差し出してください。そして、喜んで、心と知性を差し出してください。そうすれば、わたしがあなた方の無力さのうちに、数々の勝利を勝ち取ってあげましょう。わたしは弱い者を選んで強め、わたしの証しをさせます。重荷を負った者よ、わたしの元に来なさい。わたしはあなた方の霊魂を休ませてあげましょう。わたしの重荷は確かに軽いのですから(参考:マタイ11:28−30)。幼子のような神の潔白の道を、聖家族の修練を通して学びなさい。この礼拝とつぐないの日に、わたしの祝福とわたしの感謝を与えます。わたしがまことに愛する数々の霊魂が、永遠の滅びから救われています。わたしは、ここに来てわたしを助けてくれる者たちを、決して忘れません!

[p.1]

2018年4月30日(i)、初期のメッセージで主からわたし達に与えられた祈りの重要性:

「ああ主の潔白、十字架につけられたわたし達の潔白のうちに勝利してください」

‘O Divine Innocence, be Triumphant in our crucified innocence’

イエス:この祈りを唱えるとき、あなたは時代を遡(さかのぼ)ってすべての十字架につけられた潔白を集めてくることになります。そして、神の御座からは、力強い滝の流れのように、絶え間なく恵みが溢(あふ)れ出ます。体の血であろうと心の血であろうと、潔白な(innocent, 無実の、無垢な)人の血は、一滴も無駄にはされません。

わたしの十字架上の内的叫び「ああ主の潔白、十字架につけられたわたしの潔白のうちに勝利してください(O Divine Innocence, be Triumphant in My Crucified Innocence)」の中に、わたしはすべての十字架につけられた潔白を、時代を超えて普遍的に集め入れました。子なる神という位各そのものにおいて現れた神の潔白(Divine Innocence, 主の潔白)以外に、一体だれが、聖霊なる神のうちに、この言葉を御父に叫ぶことができたでしょうか。

わたしがあなた方に与えたのはこのように小さな祈りですが、この祈りには無限の力があります。わたしの神なる潔白のうちに勝利した、神の愛の力です。

この祈りは御父をお喜ばせしましたから、御父はご自分の無限の愛のうちに、ご自分の苦しむ子ども達に向かって身をかがめ、故郷に帰る道を示し、どうすれば彼らが失った潔白を、わたしの神なる潔白のうちに取りもどすことができるかを教えてくださったのです。

神の子の神の潔白(Divine Innocence, 主の潔白)を現すことが、父なる神と子なる神と聖霊なる神の、三位一体の神の潔白(Divine Innocence, 主の潔白)を人類が理解できるようになるための唯一の方法でした。

神は、ご自分の民の十字架につけられた潔白に対する完全な答えを、あなた方に与えてくださいました。わたしはあなた方に懇願します。この力強い恵みに協力して、潔白のうちに立ち上がり、わたしの神の潔白の美しさの中で歩んでください。

パトリシャ:世界における、聖三位一体の神の潔白(Divine Innocence of the Blessed Trinity)の宣言である、わたし達の主イエス様だけが、聖霊なる神のうちに、父なる神の潔白への直接の道を開くことができる、と理解するのは重要なことです。

極度な弱さのうちにあって、わたし達には、十字架上の主イエス様によってわたし達のために開かれたこの黄金の小道、すなわち父なる神の潔白にいたる小道があります。

上記の祈りの「十字架につけられたわたし達の潔白」という言葉は大変重要です。この言葉によって、わたし達は、これまでのあらゆる時代における全人類の十字架につけられた潔白を思い、主イエス様の十字架上の完全な犠牲(いけにえ)と、あらゆる罪と死に対する十字架上の勝利とに、より頼むのです。これには、すべての人が含まれていたのです。


[p.2]

2018年11月23日、聖クレメンスの祝日

イエス:神を否定して、(訳注:環境)保全のみに集中する者は、地にしばられています。しかし、これらすべては変化して過ぎ去るものです。多くの者は、このような賜物の与え主である神に栄光を帰すことはありません。これらは流れる砂です。被造物である自然が、これをはっきりと示しています。被造物の神秘すべての源である神を、まず探しもとめる努力をしない者は、近視眼的です。

「だが、まず神の御国とその義をもとめよ。そうすればすべては加えて与えられる」(マタイ6:33)。「すべては変わり、腐敗しますが、あなたは変わらず、いつも新しい」時課の典礼、昼の祈りの賛歌。

苦しみが来るとき、神を拒絶する者たちは、勝手気ままな世界に住んでいるため、最終的で愛に満ちた答えも解決方法も持ちあわせていません。

わたしは地上からあげられ、すべての罪と苦しみと不正をわたし自身のもとに集め、愛のつぐないの完全な犠牲(いけにえ)を父なる神にささげました。わたしは、人類の罪をおおうために、わたしのものである神の潔白と神の愛をささげました。わたしはあなた方を自由にし、罪の結果である罰を、自分自身の身に負いたかったのです。

新しい天と新しい地があらわれます。これが、あの祝福された時代への扉です。(十字架へのはりつけが示されました)。あなた方信じる者は、わたしの存在そのものがその扉であることを見いだしました。


[p.4]

2018年11月23日(ii)

パトリシャ:イエス様は、堕胎で殺された幼子たちについて、また、この幼子たちをべトレヘムの幼子殉教者の同志殉教者としてカトリック教会が認知宣言をしてほしいというご自分の要望について、次のように話されました。

イエス:男性、女性、政府や医療機関が何をしようとも、何をし続けようとも、教会が、世界中で行われている堕胎に反対する行進に参加するとき、この戦いの決定的な勝利を示すことになります。彼らは「わたしは、無力で罪のない(潔白な)子どもたちに自分たちが何をしたのか分かりません。わたしは、神から来て、カトリック教会が教えている真理(すなわち『あなたは、殺してはならない』という掟)を知りません」と言うことはできなくなります。

イエス:教会には、悔い改めた者を和解させ、苦しむ者をなぐさめ、真理と教会の教えによる生き方の改めと天の栄光への道へと導く必要性がでてくるでしょう。

2019年5月17日、アイルランド

パトリシャ:ミサの後、わたしがマリア様のご像のもとに祈りに行くと、数えきれないほどの堕胎された幼子たちがマリア様をあおぎ見ている様子が示されました。するとマリア様は、幼子たちの殉教の地位を認めてほしいという沈黙の訴えを示すために、カトリック教会の教導権と教皇様の方を向かれました。

2019年5月18日、アイルランド

マリア:アイルランドの民よ、[堕胎で殺された]幼子たちとその父母を、わたしが取りもどすことができるように、手助けしてください。プロライフ活動を敗北のまま終わらせても良いのですか。それとも、御言葉である主イエスが、力強くはっきりと宣言されるよう手伝ってくれますか。忘れないでください。この幼子たちは「主のうちに生きている」*のですよ。

わたしはあなた方が、カトリック教会の栄光ある教えのうちにある聖家族の修練に応えるよう、個人的に招きます。今日、ここに来てくれてありがとう。わたしの母性的祝福をあたえましょう。

*これは聖ヨハネ・パウロ2世が、堕胎された幼子たちについて使われた表現です。


[p.5]

2019年12月28日、幼子殉教者の祝日

パトリシャ:聖家族がここにおられます。

マリア:この小さく隠れた場所で行われているあなた方の集いは、わたしに大きななぐさめを与えてくれます。

パトリシャ:マリア様は幼子イエス様を抱き上げてわたしたちに示してくださいます。幼きイエス様の美しさを表現するのは不可能です。御子はわたしたち一人ひとりに、個人的に与えられているのです。それはわたしたちが、自分の生活の中や自分自身のうちで、また人への話し方や自分の行いのすべてにおいて、御子のお世話をするためなのです。イエス様は、聖なる潔白の状態で、わたしたちのうちにお住みになりたいのです。わたしたちは、あらゆるところに今後広まってゆく大いなる運動のはじまりなのです。

マリア:わたしたちの祝福をあなた方に与えます。小さく無力な幼子たちのことを思い出してくれてありがとう。幼子たちはみな、それぞれ殉教の冠(かんむり)を受けました。救い主は馬屋でお生まれになることによって、あなた方が貧しさ、苦しみ、またどんな状況にあろうとも、ご自分があなた方のいのちの中に生まれたいというお望みを妨げはしないことをお示しになりました。わたしたちはあなた方とともにいて、救い主の栄光を分かち合いたいのです。わたしたちは、あなた方のつぐないの行進に同伴します。

パトリシャ:聖家族がわたしたちに祝福を与えてくださいました。


[p.6]

2018年5月4日、イギリスの殉教者の祝日、初金曜日のつぐないの行進

パトリシャ:マリア様がおいでになりました。マリア様は両手をあわせて天を見上げられました。

マリア:わたしの主よ、ここにいるわたしの子どもたちをごらんください。わたしたちの望みに忠実に応えて、彼らはこの聖域に来てくれました。彼らは、産まれる前に殺された数多くの幼子たちや、戦争や犯罪による無数の潔白な(罪なき)犠牲者たちを思い出してくれています。今日はイギリスの殉教者の祝日です。彼ら殉教者の苦しみが、この前代未聞の恵みに貢献してくれました。わたしの主よ、あなたは聖なる望みを(これからも)拒みはされません。

わたしの子どもたち、数えきれないほどの霊魂が、あなた方の先例にしたがうでしょう。そして、この選ばれた場所で恵みを受けるために、世界中からこの場所に人が流れてくることを、誰も、何も、止めることはできないでしょう。

わたしの子どもたち、あなた方はカトリック教会の偉大な教えの数々を目にしました。そして、聖家族の修練は、全世界で繰り広げられているこの大虐殺に、唯一の答えを差し出しています。

神は、聖なる神の潔白による生き方を望むよう、世界を導かれます。そして、ここでの恵みがそのための道具です。あなた方は開拓者(パイオニア)です。開拓者には多くの困難や苦しみがあります。それは、聖家族の修練を生きたいと世界が望むようになるための、産みの苦しみです。聖家族の修練をもっと熱心に生きることを、今日、わたしに約束してくれますか。あなた方の生き方を変容させ、あなた方を霊的アスリートにするために、これ以上の恵みを得ることは、わたしにはできませんでした。

カトリック信仰の継続的な学びは、いのちの維持に不可欠です。もう一度言います。信仰の学びは生死に関わる重大なことです。あなた方が信仰を深めるために今日ここに来てくれて、わたしは心温まる思いがしています。この共同体とスバッシュ(訳注:マザー・パトリシャの長男で、主の潔白会のために総務的働きをしている)に協力してください。スバッシュがあなた方のために苦労して準備してくれたことに応えて、あなた方も実りをもたらしてください。

(今月スバッシュは、初金曜日のために学びの会を準備していました)

応えてくれたことを、あなた方みなに感謝します。やる気をなくしたり、あきらめたりしないでください。あなた方は永遠に入るとき、自分の努力を持っていくのですよ。そして、あなた方のあとから来る人々のために、無数の恵みを得るのです。わたしの祝福を与えましょう。

パトリシャ:マリア様は司教様たちと司祭の方たちに向けて話されます。

マリア:わたしの司教・司祭たち、この恵みを自分と彼らのカトリック教会に、なぜ受け入れないのですか。

あなた方はこの恵みをホームレスの状態にしたまま、この聖霊の御働きをいまだ見ようともしていません。そして、さまざまな誤解が広まったままにしています。

わたしの幼きイエスの像を(訳注:おみこしで)かついでくれた子どもたちに感謝します。そして、わたしの像をかついでくれた皆にも感謝します。このような公的証しを、カトリック教会は勧めています。(参考:『カトリック教会のカテキズム』2471, 2472, 2487)*訳注

*訳注:『カトリック教会のカテキズム』第2部 神の十戒、第2章 「隣人を自分のように愛しなさい」、第8項 第八のおきて、2「真理についてあかしをする」と3「真理に反する罪」の中に、以下のように書かれています。

 CCC 2471. キリストはピラトの前で、ご自分は真理についてあかしをするためにこの世に来られたのだと宣言なさいます。キリスト者は「主をあかしすること〔を〕恥じては」なりません。キリスト者は信仰のあかしが必要なときには、裁判官たちを前にした聖パウロに倣い、明白に信仰を宣言すべきです。「神に対しても人に対しても、責められることのない良心をたえず保つ」必要があります。
 CCC 2472. キリスト者には教会生活に参与する義務がありますが、そのことによってキリスト者は、福音および福音に基づく責務についての証人として行動するように促されます。そのあかしとは、ことばと行いとによって信仰を伝達することです。あかしとは、真理を明らかにしたり知らせたりする正義のわざのことです。
  「すべてのキリスト信者は、自分が生活している場所で、模範的生活とことばのあかしとをもって、受洗に際して身に着けた新しい人と、堅信によって強められた聖霊の力を現さなければなりません」(第2バチカン公会議『教会の宣教活動に関する教令』11(Ad gentes))。

 CCC 2487. 正義や真理に反して犯されたどんな過ちも、たとえそれを犯した本人の罪がゆるされたにしても、賠償の義務から免れることはありません。公に損害を償うことができないような場合には、人知れず行わなければなりません。損害を受けた人に直接に損害賠償をすることができないような場合は、愛の名においてその人のために精神的な償いをしなければなりません。他人の評判を損なった過ちの場合にも、賠償の義務があります。精神的、時として物的な賠償がどの程度のものでなければならないかについては、かけた損害の大きさで量られるべきです。それは良心上の義務となります。


[p.7]     

キリストの神なる潔白をたたえるための世界で最初の聖殿

(英国サービトンの聖域についての説明のパネル)

 パネルの下の壁は、かつてマナーハウス修道院(The Manor House Convent)があった敷地の境界線を示しています。修道院は1984年に取り壊されました。その頃、イエス・マリア・聖ヨゼフの聖家族の皆さまが、アダムスクローズ(Adam’s Close)13・14番の前庭にある松の木の下に出現し、世界に向けて大きな希望のメッセージを与え始められました。

 神は、この場所がキリストの神なる潔白をたたえるための世界で最初の聖域となるようお選びになりました。聖家族が「キリストの聖なる潔白の道」とお呼びになる、すばらしいご指導を与え続けてくださっています。

 イエス様ご自身の家族でありカトリック教会内にある聖家族の実際のメンバーになって、聖家族の修練(Novitiate of the Holy Family)と呼んでおられるものを生きるよう、聖家族がすべての人を招いてくださいました。この場所は、神の潔白であるイエス・キリストによって取りもどされた潔白の神殿になる予定です。また、十字架につけられた潔白の典型的な例である堕胎された数多くの幼子たちを思い出す場所にもなります。

 この選ばれた場所で、皆さま、ご自分の必要のため、また、他の方の必要のために、どうぞご自由にお祈りください。ここではすでにたくさんの恵みや祝福が与えられています。堕胎にかかわってしまった方でしたら、神様のいやしをここでお祈りください。神のいやしの充満は、カトリック教会の中に見出すことができます。


 イエス様はこの聖域について、次のように仰せられました。

「この聖殿には、普遍のナザレ(Nazareth Universal)の生きた生活があります!

ここは、すべての国で堕胎された数多くの潔白(innocent)な幼子たちの神殿です!

ここは聖体大学(Eucharistic University)と、聖家族の修練(Novitiate of the Holy Family)を理解する賜物と、神の愛の哲学(Philosophy of Divine Love)の教えの誕生の地です。

ここから全世界に向けて特別な恵みの数々が流れ出るでしょう」。

普遍のナザレ(Nazareth Universal):カトリック教会内にある聖家族の中での生活の場であり、すべての人が招かれている。

聖家族の修練(Novitiate of the Holy Family):教会と聖家族を通して与えられている訓練であり、わたしたちは聖家族に献身(コミット)したメンバーとなるよう招かれている。

聖体大学(Eucharistic University):ご聖体におけるイエス様の唯一の現存のみ前における、カトリック信仰の学び。この現存とは、至聖なるご聖体の秘跡におられるイエス様の御体、御血、ご霊魂、ご神性のこと。

神の愛の哲学(Philosophy of Divine Love):すべての人が愛を知り、理解することができるため、誰でもこの哲学を理解することができる。しかし、神はわたしたちに神の愛を知り、理解してほしいと願っておられる。この完全な愛の性質は、イエス・キリストを通して明らかにされた。それはわたしたちの理性によって知り、聖書や唯一の聖なる使徒継承のカトリック教会の教えによって学ぶことができる。


[p.8]

1996年4月22日

パトリシャ:わたしは告解に行きました。司祭がゆるしの言葉(「わたしはあなたの罪をゆるします、父と子と聖霊との御名によって」それから「あなたがするどんな善も、あなたが苦しむどんな悪も、あなたを罪からいやし、あなたが成聖において成長する助けとなり、あなたに永遠のいのちの報いをもたらしてくれますように、アーメン」)を言っているとき、次のようなシーンがわたしに示されました。わたしは、神の愛の大いなるかまどを霊的に見ましたが、誰かがシャベルで石炭を火にくべています。主がこう仰せられます。

イエス:あなたのすべての罪と弱さも、このようにしなさい。そうすれば、罪も弱さも神の愛の火で焼きつくされます。これくらいわたしに信頼しなさい!

パトリシャ:これを行う場所は、和解の秘跡です。でも、告解と告解のあいだでも、わたしたちは失敗や罪や弱さのすべてを、完全に燃やしつくすために、慈しみと愛と共感の大いなるかまどである神の愛の火の中に投げ入れて良いのです。


[p.9]

2003年11月3日、聖カロロ・ボロメオの祝日、まことの教義という武具

パトリシャ:主は、わたしたちが暮らしの中や教会の中で、数多くの間違ったことに遭遇することを、わたしにお見せくださいました。わたしたちはそのことについて何とかしなければならないと感じます。そうするとわたしたちは抵抗や反対を受けます。このようなことに巻き込まれてしまう危険があります。わたしたちは事を正すのに忙しく、自分自身の霊魂の聖化をおろそかにして、成聖において成長できなくなってしまうのです。

イエス様は、ブラックベリー(訳注:ふつうのブラックベリーはトゲがたくさん生えている)の生垣を、誰かが分厚いウールのセーターを着て通り抜けようとしているシーンを見せてくださいました。その人はあちらもこちらも引っかかってしまい、前に進むことができませんでした。わたしが、ウールのセーターは何を意味しているのかとイエス様におたずねすると、こう答えてくださいました。

イエス:論争に巻き込まれてしまう傾向です。そのようなトゲのあいだを、そのような衣服を着て通り抜けるのは簡単ではありません。教会の教義と信仰を知って、真理と正しい教義の武具を身につける必要があります(エフェ6:11ff参照)。なめらかな武具は、誤りと衝突のトゲに引っかかることはありません。これらのトゲがたとえ厚く鋭くても、御言葉のつるぎならば、簡単に切りくずすことができます。教義と御言葉を学びなさい!兄弟姉妹の目にあるおがくずを見る前に、まずあなた自身が、天の御国を求めなさい!覚えておきなさい。ブラックベリーの生垣でさえ、正しい方法でアプローチすれば、デザートやジャムやコーディアルを作ることのできる美味しい実をもたらしてくれます。トゲを取りのぞけば、昔のように枝でバスケットを編むこともできます。葉は薬効のあるお茶になります。まことの信仰や正しい判断と行いに対する異議というトゲは、教義の意味を明確にし、また、啓示のより深い神学的理解を発展させるのに役立ち得るものです。そうであれば、はじめは不和と誤謬が絡まってしまったと見えるものからでも、良い実を収穫することができるのです!


[p.10]

2004年2月6日、いやし、生涯をかけての学び(抜粋)

イエス:さまざまな誤りをいやすのは、信仰の学びと、正しい教義と、すべての年代の者に対する適切なカテケージス(要理教育)です。家族の中でも教会の中でも、継続的な学びのため、生涯教育のために、男女が互いに助け合う必要があります!どうか言い訳をしないでください!煉獄は、言い訳をした人でいっぱいです。


[p.11]

2004年5月26日 (i)

パトリシャ:わたしは信心と教義(教え)について考えていました。すると主がこう仰せられました。

イエス:信心とは、教義を温めておくための毛布です。


[p.11]

2008年9月16日、聖コルネリウスと聖チプリアノの祝日

パトリシャ:イエス様は、わたしたちが正しい教義を知らないままではいけないこと、そして、わたしたちが信仰の知識を深める必要があることを、お示しくださいました。わたしは主に「信心業だけで満足している人たちはどうなのでしょうか」とお尋ねしました。

イエス:彼らは子どものままです。信仰を学ぶために今、煉獄にとどまっている者が数多くいます。自らの信仰の成長を煉獄まで先延ばしにすることの悲しさは、学んだことをこの世で、生きた愛の行いとして実践できないことです。怠惰、無関心、わがまま、傲慢の償いがすむまで、神についてのあなたの知識は増します。教会の中には、自分はカトリック信者だと言いながら、ごく簡単なカテキズムの本を開いたことも読んだこともない者がいますし、また、教皇の回勅一つ読んだことのない者、司教の司牧的書簡の一つにもあえて耳を傾けようとしたことのない者がいます。

教会の偉大な文書は、読み、従うべきものです。その代わりに多くの者が、自分自身の無知の教えに従っています。この無知は、広く普及しています。意図して無知のままでいるならば、煉獄に向かうか、さらに悪いことになります。神と、聖書と、教会の教えと、教父や聖人たちの著作についての知識は、平和と喜びをもたらします。信心は第一歩です。しかし、教義と信心の両方が、神と自分自身を知るための梯子(はしご)を作ります。


[p.23]

1996年3月18日、エルサレムの聖チリロ

パトリシャ:わたしは前の晩にぐっすり眠ったのですが、疲れ果てていました。そして、イエス様に申し上げました。

パトリシャ:主よ、わたしは疲れて、何もできません!

イエス:あなたは何もする必要がありません。ただ、わたしを愛しなさい!わたしがあなたを愛してあげましょう。そうすればあなたはわたしを愛することができます!

パトリシャ:わたしは、しなければならない全てのことを考えていました。「愛し続けることのできるエネルギーをお与えください」。

イエス:愛するためにエネルギーは必要ありません。愛こそが全宇宙のエネルギーだからです。多くの科学者はエネルギーの源をあちらこちらに探しますが、愛のことを決して考えないのです。しかし、愛こそが全宇宙を存在させ続けているのです。それは、使い尽くすことができず、人間の力に頼らないエネルギーです。それは見ることができませんが、あらゆるところに現れています。それは人の心に隠れています。それは胎内に子どもを形づくり、空に鳥を舞い上がらせます。それは男にも女にも小さい子どもにも、他の人への奉仕をさせます。それは個別的であり、普遍的です。それは日の昇るところから日の沈むところまでです。愛は一つの世代から次の世代に受け継がれます。それは、第一の戒めと第二の戒め、そして、神とその教会のその他あらゆる戒めのうちにあります。それは存在の理由です。それはあなたの始まりであり終りです。

愛は静けさであり、沈黙です。それは行動であり、創造です。それはいのちであり、死です。愛は喜びであり、苦しみです。それはわたしであり、あなたです。あなたは神の愛によってつくられたからです。

あなたの希望の全てを、愛そのものであるわたしに置くならば、たとえあなたがベッドに横たわり、動くことができなくても、愛があなたの目と心から輝き出て、全世界に広がるでしょう。

今朝、すべてが失敗に終り、あなたの努力がまったく報われなかったかのように感じられ、疲れ果てて勇気を失っていたときに、あなたがわたしに求めていたエネルギーは、愛です。全てが無駄になったのではありません!わたしはあなたの努力を受け取り、聖ヨセフの保護のもと、その努力はわたしの心と聖母の心に置かれたからです。わたしの愛しい人よ、あなたがわたしのために何もできないように思われても、愛があなたを裏切ることはありません。わたしはあなたのために、あなたのうちで、あらゆることをしてあげましょう。わたしである岩から出る蜜をあなたに食べさせ、神の愛の生きた水であなたを生き返らせてあげましょう。神の愛は終ることのないエネルギーです。

さあ、教会に行き、他の人(聖体大学にあずかっている人々)と、これを分かち合いなさい。そして、皆で愛について黙想しなさい!

パトリシャ:ああ、わたしの神よ、あなたに対するわたしの愛を証明できさえするならば!

イエス:あなたのわたしに対する愛を証明する必要はありません。証明には、わたしのあなたに対する愛で十分です!

パトリシャ:主よ、それはどういう意味ですか。

イエス:考えてごらんなさい!

パトリシャ:あなたのわたしに対する愛が、わたしのあなたに対する愛の証明として十分なのですね。

パトリシャ:これについて思い巡らし、わたしは自分に対する神の愛について考えました。

パトリシャ:主よ、あなたはわたしへの愛のために死んでくださいました!

イエス:さあ、今度はわたしへの愛のために、自己愛に死んでください。そうすれば、あなたはわたしのいのちとわたしの愛を、あなたのうちに受けるでしょう。しかし、あなたが自分では何もできないということを忘れないでください。あなたのうちにあるわたしの愛が、人のために死にたいと思うのです。それ故、あなたに対するわたしの愛が、わたしに対するあなたの愛の証明として十分なのです。あなたの全存在(体、知性、霊)をもって、まず神を愛しなさい。そうすれば、あなたの中のわたしの愛が、自分自身のように人を愛さずにはいられなくなるでしょう。なぜなら、あなたの中の新しい自己は、わたしだからです。「生きているのはもはやわたしではなく、キリストがわたしのうちに生き [愛し] ているのです」(ガラ2:20)。

イエス:そして、わたしの愛は終りなく、永遠のエネルギーをもっています。この愛が、すべての理解を超える平和をもたらします。愛の聖三位の、愛といのちです。友のために自分のいのちを捨てる以上の愛を、人は持ち合わせていない…。わたしはあなた方をもう僕とは呼ばず、友と呼ぶ。僕は主人の仕事を知らないからである(ヨハネ15:13-15参照)。わたしの仕事は愛です。わたしの友よ、あなた方もわたしの王国の世継ぎとして、わたしの仕事に従事すべきではありませんか。至高なる神の、まことの息子と娘たちよ。

パトリシャ:主よ、成し遂げられるようにと叫んでいる数々の善業のすべてを行うには、肉体的エネルギーが必要ではありませんか。

イエス:いいえ、あなたに必要なのは、超自然のエネルギーです。神の愛のエネルギーです。それがあれば、肉体的エネルギーにかかわらず、善業は成し遂げられます。もちろんここでは、自分のタレントを地に埋めた怠惰な僕のことを言っているのではありません。危険なのは、自分の善業が肉体的エネルギーのみによると思っている者が、わたしのことを、使役馬がこれ以上働けなくなったときに愛を注がなくなってしまう厳しい主人であるかのように考えてしまうことです。彼ら自身が、そのように人を扱う危険もあります。(この主人とは、まさに仕事を割り当てる主人であり、実のところ悪魔なのです。わたしは良き羊飼いであり、わたしの羊を丁寧に一人ずつ面倒見ています)。

このような考え方をする者たちは弱い者のことを忘れ、弱い者が働けなくなると、彼らがわたしを証しするための手助けをしません。わたしはとりわけ弱い者を選んでわたしの愛で強め、わたしを証しできるようにさせることを、彼らの弱さのうちにも十分に知るべきです。極端な弱さのうちにあってさえ、彼らは無力さのうちにわたしの十字架を証しし、多くの場合、彼らの人生の他の時期よりも、このときにずっと多くの霊魂を救うのです。

パトリシャ:主よ、ある霊魂は、肉体的な活動ができなくなっても、自分があなたや人を助けられることを信じようとしません。彼らは苛立ち、不機嫌になるようです。単にあきらめてしまうこともあるようです。

イエス:彼らは、わたしの恵みを制限するという大変な危険に陥っています。彼らは、しばしば無力さという賜物を自己憐憫の地に埋めてしまい、寛大な霊魂の苦しみや償いがなければ神に向き直ることのできない霊魂たちを助けようとするわたしの手伝いをしてくれません。

パトリシャ:人の霊魂の永遠の価値と、良く生きられた人生が、わたしに示されました。


[p.27]

1987年5月18日、アイルランド

マリア:ご聖体チャプレットと十字架につけられた潔白のチャプレットを、あらゆるところに広めてください。

マリア:多くの者は単純な信仰をばかにするでしょう。しかし、あなた方は恵みの影響のもとで、我が御子と、諸秘跡と、教会の教えと、神の無原罪の母に対して、幼子のような信頼をもつ努力をしなければなりません。これが報われないはずはありません。もつべき霊性は、単純かつ静かで愛に満ちた謙遜の姿勢です。

単純で知識は少なくても、ロザリオと十戒と諸秘跡に忠実な霊魂は、自分自身の知力や地上の権力と富ばかりを信じてより頼む者よりも、地上の善に、より貢献します。単純な信仰の者を、天はどれほどお喜びでしょう!彼は富や権力をもつ者、傲慢な者を当惑させるでしょう。彼は天の御国を見ており、それが彼の力になっているからです。

徳に満ちた生活を送りなさい。お互いに愛しあいなさい!

パトリシャ:わたしは霊的に、マリア様が、十のアヴェ・マリアの祈りを表す十の白い新鮮なバラと、主の祈りを表す赤いバラからなるロザリオを、司祭に手渡しているところを見ました。部屋にある十字架は、十字架につけられた生けるキリストでした。マリア様は、ロザリオを司祭の手の中に置きました。それは生きたロザリオでした。天使たちが、ここにいるすべての人に生きたロザリオを手渡してくれました。バラは美しく新鮮でした。わたしは、このようなものは見たことがありません。

幼きイエス様は、まるで小さな召使いであるかのごとく、皆のあいだをまわりました。最初は小さなチャプレットをもって、わたしたち一人ひとりに本当に謙虚に手渡してくださいました!幼きイエス様の謙虚な態度に、わたしは少し恥ずかしさを感じるほどでした。わたしのような罪びとに対して、召使いの小さな子のようだったからです!このような幼子を、どうして愛さずにいられるでしょうか。それからイエス様は、十字架につけられた潔白のチャプレットを、わたしたち一人ひとりに手渡してくださいました。


[p.12]

2000年9月17日 (i)、

パトリシャ:「あなたは罪のゆるしのために世界に聖霊を送られました」の言葉でゆるしが与えられると、わたしは司祭とわたし自身の上に、聖霊が白いハトの姿で空中にとどまっているのを見ました。わたしは静かに祈りました。

「主よ、あなたはわたしたちに、自分の罪の深さとみじめさを明らかに示してくださいますが、さらには、わたしたちに愛と慈しみをふり注ぎ、やさしくなぐさめてくださいます。少しずつ少しずつ、あなたのわたしたちに対する愛は、わたしたちを傷つけた人への憤りと怒りの火を消してくださいます」。

イエス:あなたが人に対して感じるべき火とは、聖霊の愛の火です。それは全くもって柔和で慈しみ深いものです。あなたの中のこの火に、愛と、謙遜と、自分自身の過失や罪や失敗についての良い告解という、愛の薪をくべなさい。かわいそうな罪人たちには、霊魂の安らぎと、ゆるしが必要です。早まって裁いてはいけません。裁きはわたしに任せなさい!わたしの裁きは正しく真実です!早まって裁くならば、あなたは愚かにも偉大な聖人を裁いているかもしれません。そうなると、審判の日にあなたは全くの混乱状態におちいるでしょう。裁かないならば、審判を恐れることはありません!

わたしは貧しい霊魂たちに、悔い改めの時間を与えます。あなた方自身、一人ひとりにどれほどの時間が必要か、わかりますか。他の人にも、同じ寛大さをもちなさい。柔和で優しい心になりなさい。そうすれば平和と喜びが、あなた方の霊魂を治めるでしょう。あなた方自身にも、この同じ慈愛をもちなさい。自分に対して厳しい者は、しばしば人にも厳しいものです。人に対しては厳しいが、自分には決してそうではないという者もいます。慈悲とゆるしの傾向をもつ方が良いのです。そうすれば、あなたが人に与えたものを、わたしもあなたに与えることができるからです。これは情け深い裁きの利点です。愛は、多くの者が思っているよりも厳しい訓練であり、良き秩序と結びついて、平和と調和をもたらします。

パトリシャ:わたしたちは、神に早まって裁いていただきたくはありません。恵みによって神がわたしたちを聖なる者としてくださるまで、待っていただきたいのです。

イエス:わたしが厳しければ、あなたの罪は減りますか。

パトリシャ:いいえ、主よ。わたしは怖くなるだけです。わたしはとても弱いですから。

イエス:その通り!何があなたに改心の望みを起こさせますか。

パトリシャ:愛です!

イエス:わたしの愛する子よ、そうです、愛です!わたしがあなた方を愛したように、互いに愛し合いなさい。愛が勝利を勝ち取ります。愛が成し遂げます。「あなたの神に対するあなたの愛ではなく、あなた方に対するわたしの愛」が、義化と変容という無償の賜物によって、成し遂げます。

パトリシャ:主よ、そんなに簡単なのですか!

パトリシャ:主は微笑まれ、それから、ユーモアたっぷりに笑われました。

イエス:愛の荷です!わたしの荷は軽いのです。わたしの愛しい子どもたち、愛を観察しなさい。より劣った愛ではなく、神の愛をです。掟に従いなさい。そうすれば、その他必要なものは、加えてすべて与えられます。愛は掟の充満です。わたしは掟の充満である。神の愛という掟の充満を、観察しなさい!「友のためにいのちを捨てる以上の愛を、人はもち合わせていない」。これを、わたしがしたように、友にも敵にも同様に行って、愛のまことを求めなさい。


[p.14]

1998年5月18日、ダラム

マリア:わたしの子どもたち、もしあなたたちが自分の子どもたちに、その子たちを守り、助けるとわかっていることをするよう願うとしたら、あなた方は親として、子どもたちが従順であることを期待しますか。ある食物が子どもたちを強くして、いやすとわかっているのに、子どもたちがその力を与える食物を食べるのを拒むならば、あなた方はどれほど悲しむことでしょう!聖なるミサの犠牲(いけにえ)、聖務日課(「教会の祈り」)、そして、あなた方の祈りは、あなた方の霊的いのちの食物です。あなた方が飢餓療法の食事をしているならば、あるいはもっとも滋養のある食物の一つを食べずに、必要最低限の物しか食べていないならば、わたしが主の潔白の子どもたちに望むほど強くはなれません。全教会の祈り(訳注:聖務日課)は、豊かでとても力をつけさせる食物です。ロザリオは、教会である安全な船の周囲につけられた命綱のようなものです。子どもたちが、ミサに行き、聖務日課とロザリオを唱える習慣を身につけて世に出るならば、どんな苦しみも子どもたちを打ち負かすことはできません。あなた方は、自分自身が知らないことを、人に教えることはできません!わたしの子どもたち、お願いですからあなた方の天の母のために、この特別な努力をしてください。そうすれば、教会の卓越した祈り[時課の典礼]が日々、神の民の家庭や家族から立ちのぼるでしょう!



時課の典礼(「教会の祈り」) 総則

27 信徒の団体が祈りや使徒職やその他どのような理由であっても、いっしょに集まる場合には、「教会の祈り」の一部を唱えることによって教会の務めを果たすようすすめられている(注103)。まず典礼行為によって、父である神を霊と真理のうちに礼拝することを学ぶべきであり(注104)、また、公的礼拝と祈りによってすべての人に影響を与え、全世界の救いに貢献できることを思い起こすべきだからである(注105)。さらに、教会の家庭内聖所としての家族でも、神に共同の祈りをささげるだけでなく、教会に堅く一致するよう、時課の典礼(「教会の祈り」)のある部分を唱えることが望ましい(注106)。

32 その他の修道会の共同体とその会員各自は、その生活状況に応じて「時課の典礼」のある部分を唱えるようすすめられている。時課の典礼はあちらこちらに分散しているキリスト者を一つの心、一つの魂にする教会の祈りだからである(注119)。同様のすすめは信徒にもあてはまる(注120)。

注103 第二バチカン公会議、典礼憲章100
注104 ヨハネ4:23参照
注105 第二バチカン公会議、キリスト教的教育に関する宣言2、信徒使徒職に関する教令16参照

注106 第二バチカン公会議、信徒使徒職に関する教令11参照

注120 第二バチカン公会議、典礼憲章100参照

時課の典礼は教会の祈りであり、ミサとともに教会の公式の典礼を構成しています。このようなわけで、他のどのような祈りよりも、その尊厳は偉大であり、神の御稜威(みいつ)をお喜ばせするものなのです。頻繁にミサに与ることに加えて、時課の典礼をわたしたちの祈りの生活の中心とすべきでしょう。

一人で祈る場合は、神に栄光を帰し、わたしたちが神の御言葉の豊かな宝から益することができるように、最大の注意をはらい、敬虔に、ゆったりと、決して急がずに唱えます。共同体で祈る場合は、自然な品位をもって、飾りたてず、あわてず、引き伸ばさずに祈ります。

[Carmel’s Call(カルメルの召し出し)p.129]


[p.17]

1997年10月1日(ii)

パトリシャ:わたしは神学コースの本(旧い契約、Mervyn Tower神父著、Maryvale Institute、バーミンガム1992)を読んでいましたが、この学びはわたしにとって、旧約聖書のより深い重要性を示しはじめてくれていました。イエス様は仰せられました。

イエス:今は、聖務日課を唱える意味がわかりますか。今年あなたは、旧約聖書の各著、詩編などを学びますが、すでにあなたが唱えてきた聖務日課の中で、詩編や聖書朗読、教父たちの著書を学び、読んできました。

1986年12月13日(i)

パトリシャ:主よ、「神にとってわたしたちは必要ない」というのを聞いたことがあります。

イエス:あなた方がわたしに何を与えることができるかという意味では、わたしにはあなた方は必要ありません。わたしがあなた方を必要とするのは、わたしがあなた方に与えることのできるもの、すなわち愛のためです。わたしの存在から流れ落ちる愛、しかもこれほどまでに豊かな愛のためです。愛はすべての心と知性と魂を喜ばせ、世界を愛と美で満たしたい、あなた方の人生を喜びで満たしたいのです。そして、あなた方の喜びを、さらなる喜びで満たし、あなた方の苦しみをも研ぎすまされた喜びで満たしたいのです。わたしはあなた方を善き羊飼いのように、喜びの翼(つばさ)に乗せて、ふるさとに連れてかえりたい。わたしの心、わたしの愛、わたしの慈しみ、わたしの赦(ゆる)しをあなた方に与えたい。わたしの徳のすべて、謙遜、純潔、節制…そして、信仰・希望・愛を与えたい。わたし自身の愛する母を、そして、諸聖人と数多くのすべての天使をあなた方に与えます。被造物の美しさをあなた方に与えます。わたし自身をあなた方に与えます。わたし自身の体と、わたしの血そのものを与えます。あなた方がわたしに向き直り、わたしの深い愛に満たされて喜ぶためです。(パトリシャ:ご自分がおつくりになった霊魂への、創造主の愛です。)


[p.22]

1993年8月12日

イエス:あなたが聖霊に覆われているならば、父と子から、聖霊という神格において流れ出る愛が、誠実と自己犠牲、そして、十戒と教会の教えによって真実を生きることを、個人的に教えてくれます。聖霊の力により、あなたは悪に抵抗して善を選ぶ力を得るでしょう。


著作権:パトリシャ・デ・メネツィズ(試訳)2020年8月7日(金)