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けがれなき神の家族

「キリストの聖なる潔白の道」DI41

2020.09.06 07:30

「キリストの聖なる潔白の道」DI41

The Way of Christ’s Divine Innocence, Christmas 2019

[p.1]

2005年12月24日(i)

パトリシャ:わたしはクリスマスの日のために食べ物や飾り、プレゼント等々の準備をしていて疲れてしまいました。主は、時折わたし達は良いバランスが保てなくなることを示してくださいました。

イエス:準備に時間をかけ過ぎると、黙想とレクリエーションに充分な時間を当てられなくなります。


[p.3]

1988年5月14日、ご聖体訪問

幼子イエス:忘れないでください。霊的幼少期は、いつでもここで、わたしと共にとどまることを習い覚えたときに初めて会得できるのです。恐れを知らない潔白と、幼子のような喜びを見出すことのできる、ここ、聖体の園で。


[p.13]

2015年8月21日、ご聖体礼拝(イギリスのタルワース、無原罪の聖母教会)

パトリシャ:主よ、わたしは「人のお世話や、しなければならない様々なことをするにあたって、一体どうすれば心配しないでいられるのですか」と問われました。

イエス:キリスト者にとって、心配はふさわしい活動ではありません。わたしの言葉「何を食べようか、何を着ようかと心配してはなりません。あなた方の天の父は、あなたが願う前からあなたに必要なものを知っておられます。(マタイ6章参照)」を思い出しなさい。

キティーは、いつもあなたに何と言っていますか。「信頼と自信!」

聖書の中でも、わたしはこう言っています。あなたの祈りは聞き届けられたと信じなさい(マタイ21:22参照)。そして、「神を愛する者にはすべてが善となるよう計らわれているのですから(ローマ8:28)」神に感謝しなさい。

パトリシャ:主よ、本当に多くの人が神を自分の人生から追い出していますので、不安定で、確信のもてる基盤を内面に持っていません。

イエス:わたしは礎(いしずえ)の石であり、ペトロの岩の上にカトリック教会を建てました。「この岩の上に、わたしの教会を建てる。」(マタイ16:18)

パトリシャ:主よ、教会の中でも外でもこのような数々のスキャンダルを見てしまうと、たいていの一般信徒は、どう考えたらよいのかわからなくなってしまいます。

イエス:あなた方には、偉大な聖人である、数多くの偉大な教皇たち、司教たち、司祭たち、修道者や一般信徒たちの素晴らしい手本があります。あなた方が日々出会う、数多くの隠れた聖人たちもいます。あなた方は、罪に傾きやすい弱い人間の上に、自分の信仰を建てることはできません。わたしは、罪深い教皇たち、司教たち、司祭たち、信徒たち、あるいは罪深い社会に、あなた方が従いなさいとは言いませんでした。わたしはあなた方にこう言いました。「わたしに従いなさい。」(マタイ10:38、ヨハネ12:26)。あなた方自身の罪と人の罪のために祈り、つぐないをしてください。

心配は心の成長には役立たないと覚えておいてください。心配ばかりしていると、人はあなたに救い主であり護り手である「力強い解放者」(主なるキリスト)がついているとは思わなくなるでしょう。

パトリシャ:わたしたちと一緒にいたある人に、主は話されました。

イエス:その神学者に、この答えに満足かと聞いてごらんなさい。

神学者:主よ、わたしは満足です。それにしても、信頼と自信は意志のうちにあることに気づかされました。わたしが心配で不安で怖いと感じるときでさえ、信頼と自信をもっていなければならないのですね。主よ、わたしにその力をお与えください。


[p.21]

1997年2月24日

パトリシャ:わたしは神学と、啓示のテーマを学んでいました。わたしは「神の啓示の伝達」についての章の一部(以下の内容)について、主にお尋ねしました。

「現代の神学は、現代主義と原理主義の両極端の間を行ったり来たりしていると言えるかもしれません(原理主義は適応がきかず、現代主義は教会の伝統の存在をかき消す。)」

イエス:まことの原理を示す原理主義があります。厳しく、残酷で、成長を拒む原理主義もあります。また、真理に対してあさはかな現代主義があります。聖霊によって示され、個人に与えられるが、普遍教会のためである新しい発展や新しい概念があります。それぞれの受け手に対する指導もあります。

パトリシャ:主よ、教会は新しい啓示はないと言っています。

イエス:わたしは啓示の充満である。そこには全てが完全に含まれています。しかし、それは各時代に、わたしが神の啓示の、より大いなる理解を、個人を通して教会に明らかにすることができないという意味ではありません。


[p.22]

2019年8月23日、ナザレの家

イエス:あなた方は、真理とカトリック教会の教えを知らないうちは、神から来る真理をまことに邪悪に歪める(社会の)権威の言いなりです。悲しいかな、これは教会内でさえ起こり得ます。社会や政府の中であれ教会内であれ、真理を歪める者は、真理(訳注:である神)の前に出て裁きを受けることになり、その者たちが十字架につけた潔白な人々は完全な勝利を得ます。

わたしにとって、この不正は何という茨の冠であることか。

イエス:あなた方それぞれの持ち場にとどまりなさい。あなた方は勝利するでしょう!

パトリシャ:愛する主よ、わたしたちは人々が罰せられるのではなく、救われ、慰められることを望みます。

イエス:わたしの主の潔白の最愛の子どもたち、あなた方の望みはわかっています。ですから、あなた方も知っている通り、わたしたち(聖家族)は、あなた方の近くに寄り添い続けてきたのです。


[p.23]

2019年7月2日、ナザレの家、ロザリオ

パトリシャ:主よ、わたしたちは皆をゆるしたいのですが、場合によってはあまりにも苦痛がひどく、とても傷ついてきた人たちがいて、今でもその傷が痛んでいるのです。

イエス:わたしの子よ、十字架上で人がその罪によってわたしに与えた数々の傷は、いまだに肉体的にも霊的にも痛み、そのときも大変な苦痛でしたが、それでもわたしは彼らを赦しました。加害者はたいてい、どれほど深く相手を傷つけているかを理解していないからです。もちろんわかっている者たちもいます。そして、彼らも審判者の席の前に出るのです。

目の前に磔刑という野蛮な行為の証拠を見てさえ、この人たちは彼らの命そのものの主を十字架につけたことがわからなかった。そして、それが代々にわたってゆるしと癒しの源である御者であったこと、すなわち、生きているわたしが、わたしの教会(わたしが聖ペトロという岩の上に建てた、唯一の聖なる普遍的教会)の中で秘跡によって赦し、癒すということがわからなかったのです。

ある種の残虐行為はゆるしがたいと思えるかもしれませんが、わたしとわたしの勝利を通して、ゆるしがたいと思えることをゆるすという解放への小道が、栄光のうちに開かれたのです。これによって、犠牲者にも加害者にも他者をゆるす機会が与えられ、わたしにおいて自分自身をゆるす機会が与えられました。

聖パウロは、聖ステファノの石殺しに完全に同意していたことを思い出してください。聖ステファノはゆるしがたいと思えることをゆるすことができ、聖パウロはわたしの十字架上の赦しによって自分自身をゆるすことができ、わたしの教会の使徒となることができました。パウロ自身も不当な死を体験し、ゆるしがたいと思えることをゆるしました。


[p.24]

2000年12月25日、クリスマスの日、松の木のところで

パトリシャ:マリア様がおいでになり、幼きイエス様をわたしたちの方に差し出して、わたしたちに与えてくださろうとしました。聖母はおっしゃいました。

マリア:御子の尊い命を殺そうとする世の様々な力に抵抗して、わたしのこの御子をあなた方の心と生活に迎え入れるためにしてくれた全てに感謝します。世と世に迎合する者たちは、あらゆる方面から押し寄せて、御子を押し出し、無視し、ヘロデのように殺そうとさえしますが、主の潔白のわたしの小さな子どもたち、あなた方は様々な困難な状況にあって、最善を尽くして御子を守ってくれました。あなた方は全天を喜ばせ、天の全ての者はあなた方の喜びに満ちた祈りと賛美に加わっています。世界中のあらゆる場所で、子ども達が潔白(イノセンス)を失って苦しんでおり、十字架につけられた潔白の姿になっています。中でも、とりわけ胎内の幼子たちがそうです!わたしの母性的祝福を与えましょう+。

パトリシャ:聖ヨセフ様がマリア様と共におられます。マリア様の周りはとても多くの天使でいっぱいです。


[p.4]

2007年12月28日、幼子殉教者の祝日

マリア:わたしの子どもたち、屠(ほふ)られた、潔白で小さな子どもたちの訴えのことを忘れずにいてくれてありがとう。世の人々の十字架につけられた潔白のうちで勝利している我が神なる御子の十字架につけられた潔白のメッセージは、いのちに関わる重大なことです。この内容は、世界中のすべての民に伝えられなければなりません。あらゆる国で、本当にたくさんの人の潔白が十字架につけられています。しかし、とりわけ貧しい子ども達(産まれた子も産まれていない子も)のうちで明らかにそうなっています。これは聞き届けられるべき訴えであり、カトリック教会の教導権の助けが必要です。この教導権の役割は、はっきりしています。彼らは、み言葉と秘跡と神法と教会の教えの奉仕者です。彼らが先導して進まねばなりません。教導権は、世の十字架につけられた犠牲者たちを寄せ集め、この神の正義・神の愛・神の慈しみのメッセージが次から次へと諸国民に伝えられるのを止めてはなりません。今は、我が御子の神なる潔白を殺す時でも、追放する時でもありません。歴史を繰り返してはなりません!来なさい、わたしの愛する息子達(教皇、枢機卿、司教)。来て、すべてのカトリック教会のあらゆる馬屋で、新たに世に産まれ出た神の潔白を礼拝しなさい。

わたしの祝福を与えましょう+。

パトリシャ:まぐさおけが見せられています。そのまぐさおけから幼子イエス様がおっしゃいます。

幼子イエス:わたしは主の潔白である!(I AM Divine Innocence!)

パトリシャ:愛するお母様、いつになったらここに、十字架につけられて勝利した潔白の、最初の教会が建つのでしょうか。

マリア:すでにそれは建てられつつあります。我が御子の主の潔白の道を生きようと努力しているあなた方みなのうちで。

パトリシャ:お母様、わたしが言っているのは建物のことです。

マリア:生きた石は、普通の石よりも良いのです!すでに、我が神なる御子の潔白の道の数々の基礎はすえられ、数世紀にわたって建て続けられています。あなた方はその建設作業を、自分自身の人生と、御子の主の潔白のより深い理解によって続けています。それは、教会建設をさらに強化することになるでしょう。教会はここに建てられますが、生ける石は簡単には壊されません+。(パトリシャ:マリア様はわたし達を祝福してくださいました)

イエス:わたしの主の潔白の生ける石は、数多くの場所で立ち上げられており、わたしは大いに満足しています。あなた方のつぐないに感謝しています!


[p.11]

2001年3月20日

パトリシャ:わたしは、教会におけるリベラリズムについてのカトリック神学を読んでいました。聖霊の賜物に応える自由について考えながら、わたしはイエス様に、正しいリベラリズムとは何かをお尋ねしました。

イエス:偏見や無知に曇らされることなく、また、神の愛によって拡張されるような視野の広さ(解放された見方)です。そのような視点は教会に知らされ、教会がそれを定義し、それが人類のための神のビジョンであること、そして聖霊のわざであることの真実性を確実に保証しなければなりません。

2017年3月7日

パトリシャ:わたしは、自分にいつも欠点や失敗があることを心配していました。

イエス:平和でありなさい。あなたは告解でわたしの元に来ていますから、あなたの意向は分かっています。忘れないでください。ミサを通して、わたしの十字架上の完全な犠牲(いけにえ)によって、全ての罪は打ち負かされています。

イエス:全ては今良し、また、将来良くなります!わたしがなぜ、全ては今良く、また、将来良くなると言っているのか、矛盾しているのではないかと不思議に思っているのですか。あらゆる罪と死に対する十字架上のわたしの決定的な勝利が完成していることが「今良し(IS well)」という言葉に表れており、わたしの勝利が今も継続して生きていることが「将来良くなる(WILL BE well)」という言葉に表れていることを、すべての人に知ってもらいたいからです。あなた方は自信をもって、復活の民(people of the Resurrection)でなければなりません。世のあらゆる恐ろしい苦しみに対する勝利は、すでに勝ち取られています。どんな不正も悪も、最後に勝利することはありません。そして、わたしの十字架上の勝利によって、全ては今良し、また、将来良くなります。

パトリシャ:堕胎と受精卵(胎芽)実験(十戒の一つ「あなたは殺してはならない」を犯している)によって産まれる前に殺される幼子たちについて、主はこう言われました。

イエス:わたしは、天にいる産まれる前に殺された数多くの幼子たちの潔白な(無実の、清い)声を聞いて喜んでいます。わたしは、母なる教会であるカトリック教会の中で、全世界がこの賛美の賛歌を聞いて、喜んでほしいのです。


[p.19]

2019年5月31日 (i)

パトリシャ:わたしは色々な人のために祈っており、誰も祈りの中で忘れないようにしようとしていました。わたしはこう思いました。神様はすべての人を愛しておられ、誰もお気に入りはいないのだからと。すると主はおっしゃいました。

イエス:神に特定のお気に入りはいません。すべての人が神のお気に入りだからです!


[p.17]

2001年6月5日

パトリシャ:わたしたちの何人かが政治のことを話し合っていましたが、ある人がイエス様だったら完璧な首相(prime minister, プライム・ミニスター)になられると言いました。すると主は言葉遊びをして、こう仰せられました。

イエス:わたしは最良の奉仕者(Prime Minister, プライム・ミニスター)である!

ミニスター(minister)の定義:

 名詞:キリスト教会の聖職者、ローマ・カトリックの修道会の総長、霊的指導者

 動詞:困っている人を助ける、聖職者としての務めを果たす、仕える、物・薬・秘跡を提供する

2000年1月17日、寝る前の祈り(聖務日課の晩課)

パトリシャ:わたし達がサルベ・レジナを歌っていると、あたかもムチ打たれて、秘められたる神秘の御傷から血を流しておられるかのようなマリア様のお姿が、わたしに示されました。それと同時に、カトリック教会とその母性的役割が、あらゆる方向から攻撃されている様子も見せられました。数日後わたしはマリア様に、なぜムチ打たれているところが見せられたのかをお尋ねしました。

マリア:あらゆる国で母性がこのように扱われているからです。

2019年7月10日

イエス:「わたしの荷は軽いです」。あなたは人の重荷を背負い過ぎています。感情的重荷も肉体的重荷も。もう一度言います。わたしの荷は軽いです。

パトリシャ:主よ、軽いとは思えません。わたし達は自分の任務を果たし、愛徳のうちに立派に生きようと努めています。多くの人は、どうしたら不要な重荷や人の問題を捨てられるのかが、わからないのです。わたし達は手助けしたいですし、その人達のために祈っています。

イエス:全てをほどよい加減で行いなさい。人の罪や重荷のために、自分自身が悩み苦しむほどになってはいけません。穏やかな平和のうちにとどまりなさい。

パトリシャ:主よ、わたし達みながあなたのなさり方でできるよう、あなたが仰せになる穏やかな平和のうちにとどまれるよう、助けてください。

イエス:いつも平和の源にもどって来なさい。

パトリシャ:平和の王子イエス様、平和の元后マリア様、平和の護り手聖ヨセフ様。


[p.1]

1988年9月28日(ii)、カナダ、主の御変容教会、午後のご聖体訪問

パトリシャ:わたしは教会に入ると、ご聖体のみ前で時を過ごす前に痛悔の祈りをしました。すると主が、ご聖櫃から話されました。

イエス:自分自身ではなく、わたしを見てください!

パトリシャ:ご聖櫃から幼きイエス様がいらして、わたしに抱っこしてほしいとおっしゃいました。イエス様はわたしに、自分の罪はすべて忘れて、その罪を主の御足元に置きなさいと言われました。

幼子イエス:罪を告解で言うならば、わたしはその罪をもう思い出しはしません。わたしの現存に浸りなさい。すべての教会で毎日ベネディクション(聖体賛美式)が行われることはわたしの望みです。癒されるために、人々に来させなさい!あなたの抱えている病人(体、精神、霊を病んでいる人々)を、わたしの元に連れて来なさい。彼らの恐れを、わたしの祝福で吹き飛ばさせてください。試練の中にある彼らをわたしに慰めさせてください。彼らの心の中に喜びを目覚めさせ、わたしの民が再び潔白(純真無垢さ)のうちに歩むのを見させてください!

パトリシャ:主よ、「いやしのための祈り」はどうでしょうか。わたしは自分自身をヒーラーに仕立て上げるつもりはありません。

イエス:あなたが癒すのではありません。わたしが癒します!「いやしのための祈り」を、願う者のために祈り、その人々を司祭のところに行って告解し、その司祭の祝福を受けるように促しなさい。

イエス:わたしの子よ、わたしがあなたをこの大陸に連れて来たのは、聖なる潔白によるマリアの時代(Marian Age of Holy Innocence)と、神の愛による聖体の時代(Eucharistic Age of Divine Love)という良き知らせを告げさせるためでした。わたしの民の心に明けの星がのぼるところ、すなわち、五つの聖なる傷の星(Star of the Five Sacred Wounds)と、あなた方の天の御母の五つの神秘的傷の星(Star of the Five Mystical Wounds)がのぼるところを、わたしは見たいのです!

パトリシャ:わたしが聖霊への奉献の祈りを唱えると、ご聖櫃から本当にたくさんの白い鳩が飛んでくるのが見えました。この意味が分かるかと主は尋ねられ、こう仰せられました。

イエス:これは、わたしの聖体の心と、あなた方の天の御母の聖体と一致した心から生まれた、主の潔白の子ども達です。わたしたちの望みは、聖なる神の潔白が、あなた方一人ひとりのうちで生まれることです。

パトリシャ:わたしはこの白い鳩の群れが、世界中に飛び立っていくのを見ました。


いやしのための祈り

 ああ、主の潔白、わたしたちのからだ、精神*、霊において十字架につけられた潔白のうちに勝利してくださいますように。わたしたちに健康と、いやしと、慰めをおあたえください。わたしたちの霊魂に、賛美と礼拝と感謝の霊をおあたえください。聖霊の賜物をあたえ、また、新たにしてください。わたしたちを聖なる生活、喜び仕える生活へとお導きくださいますように。

 すべての人の救い主イエズスの御名によって、また、祝福されたおとめ聖母マリアと、すべての天使と聖人のお取り次ぎによって願います。

 イエズス、マリア、ヨゼフのご聖体の御心の誉れのうちに、また、至聖なる三位一体への賛美と感謝のうちにお願いいたします。 アーメン   


[p.6]

2000年3月15日

パトリシャ:わたしは学位コースのための教会法の本のなかで「教会内の組織的多様性(The institutional diversity within the Church)」というセクションを勉強していました。ここでは、教会における一般信徒と聖職者の役割と召命について述べられていました。

パトリシャ:主よ、聖家族の修練(the Novitiate of the Holy Family)はどうなのでしょうか。

イエス:聖家族も聖家族の修練も、神がその秩序をつくりました。それは三位一体的であり、救済的です。聖家族の修練は、どの召命とも食い違うところは全くあり得ません。これは、神なるわたしの潔白のうちに神の愛が勝利するという召命です。これは、単純であり、多様であり、そして、男性的・父性的役割と女性的・母性的役割の完成です。神なるわたしの潔白の、ゆりかごから墓場までです。家庭内教会においても、地方教会においても、普遍教会においても、これはまことにカトリックの神学です。

これは実践における今の栄光であり、霊性におけるキリスト教の勝利です。これは個人的かつ普遍的です。これは神の愛の修練(the Novitiate of Divine Love)です。聖家族の修練は、全人類家族の原初の計画(オリジナル・デザイン、Original Design)です。しかし、教会のメンバーがこれを理解して、生活の場で実践しないならば、一体どうして全人類がこれを認識することができるでしょうか。あなた方はわたしの家族、すなわち聖家族に属さなければなりません。それも、聖家族を模範としてではなく、生きた現実として、普遍的ナザレ(Nazareth Universal)の家そのものに属さなければなりません。

わたしは(御父と、聖霊と、受肉した言葉かつ在りて在る者であるわたしを、この聖なる家庭に所有しているわたしたち聖家族は)、あなた方と共にずっといたというのに、まだ、わたしたちが分からないのですか。あなた方と共に生き、歩き、食べ、眠り、教え、苦しみ、使命において救い、十字架につけられ、復活し、今あなた方と共に、つつましく平和な普遍的ナザレの家に、栄光のうちにいるというのに!

パトリシャ:主よ、教会の司教・司祭の方達はどうなのでしょうか。あの方達は、ほんのわずかの方を除いて、この驚異的なお恵みの広がりを理解されていないようなのですが。

イエス:唯一の司祭(the One Priest)であるわたしは、人生の全てをナザレの家庭で過ごしました。わたしは背丈も知恵も成長し、ここからわたしの使命を果たしに世に出ました。わたしは弟子達に、この家で教えました。弟子達は、わたしの住んでいるところに来て、見ました。わたしが言ったことは全て、司教達、教皇から小教区司祭にまで当てはまります。全ての司祭、全ての一般信徒、全ての修道者は、わたしが生きたところではなく「わたしが生きているところに来て、見」なければなりません!

あなたは、新しい千年紀(ミレニウム)を啓示の、より深い説明をもって始めるのです。聖霊のこの大いなる賜物を無視するならば、あなたは置いていかれるでしょう。聖霊は力をもって動いているからです。来なさい!ナザレの暖かな家庭に来なさい!あなた方の「はい」を聞かせてください!あなた方が神から与えられた、神の潔白の秩序に従った役割を受け取りなさい。この母性的胎内(カトリック教会と聖母マリアの母性的心遣いの中)で、形づくられなさい!処女(おとめ)なる花嫁である彼女から生まれなさい!馬屋に来て謙遜を学びなさい。ヘロデのような悪があなた方のうちにある神なるわたしの潔白を殺そうとするとき、あなたの神の優しい保護を感じなさい。

故郷を追われて異郷の地にやむなく行かなければならないときには、思い出してください。復活以来、ナザレの聖なる家庭は、普遍のナザレになったことを。そして、あなたはいつも家族のもとにいるのであり、わたしがいつもあなたと共にいて、聖母も聖ヨセフも一緒にいてくださることを、思い出してください。深く深呼吸をしてごらんなさい。聖三位一体の、気持ちを浮き立たせる空気を吸い込んでごらんなさい。「神よ、あなたの息を吹きかけてください」、「わたしの主の使命にわたしを送り出してください」と言ってごらんなさい。

忘れないでください。わたしの家庭は、あなたの地上の家庭です。それはまことの聖域です。あなたがここでの巡礼の旅を終え、選ばれた者達と共に喜んで神の顔を仰ぎ見、ようやく最後にあなたの天の家でわたしたちが共に喜ぶ日まで!


[p.8]

2019年5月1日(i)

マリア:聖家族の修練は生きた、実践のための修練であり、全ての人がこれに参加するように呼ばれています。

パトリシャ:今日、牧場でわたしはなんだか憂鬱な気分でしたが、チャペルの窓の外のベルの吊り金具にとまっている巣立ったばかりのツバメに目がゆきました。ツバメはとても明るく陽気でした。翼を片方ずつ伸ばす様子は、この飛ぶための道具の美しさを楽しんでいるかのようでした。この子はとても美しく、喉に赤い羽根があるのがチラリと見えました。

イエス:わたしがどれほど、この小さな生き物の新しいいのちの面倒を見ているか、そして、この子ツバメがその存在の美しさの中でどれほど明るく輝き、喜んでいるか分かりますか。わたしがこの小さな生き物の面倒をこれほどまでに見ているならば、更にどれほどあなたの面倒を見ることでしょう。落ち込んではいけません。わたしに信頼して、わたしのあなたに対する愛の中で喜びなさい。


[p.9]

2019年5月31日、聖マリアのご訪問の祝日、聖家族の修練

パトリシャ:今日わたしが、マリア様からのカテキズム的教えも含めた以前のメッセージを読んでいると、聖母は女子修練長としての権威をもってお出でになりました。マリア様は偉大な神学者であり、わたし達を直接、御子のもとに導いてくださいます。わたし達は積極的かつ謙虚に、自分の信仰を純粋に、忠実に深めたいという望みをもった生徒として、イエス・マリア・ヨセフ様方の監督、ご指導のもとに入らなければなりません。わたしたちは、聖家族の御助けが、はかり知れないほど貴重であることに気づくでしょう。聖家族はわたし達を、神から来てカトリック教会が教えている真理を追い求める、わくわくする旅に連れて行かれたいのです。

聖家族のメンバーが教えてくださる全ては、わたし達の聖化と幸福のためであり、聖家族はそれだけを望んでおられます。そして、わたし達が父なる神と、子なる神と、聖霊なる神に栄光を帰することを望んでおられます。わたし達が聖家族のもとで、また、自分の保護の聖人と好きな聖人のお取り次ぎによって、謙虚かつ勤勉にカトリックのキリスト教信仰を学ぶならば、神から来る真理によって心も知性も照らされて、喜びを体験することができるでしょう。


祈り

親愛なる主よ、親愛なる神の御母と聖ヨゼフ、わたしをあなた方の生徒として受け入れ、聖体大学*で勤勉にカトリックの信仰を学べるように助けをおあたえください。わたしの学びと、神からいただいた仕事(召命)においてお導きください。人類の善のため、また、教会を建てるために働くわたしの人生のすべてが、神に栄光を帰すものとなりますように

*聖体大学(Eucharistic University)とは、カトリック教会に安置されているご聖体における主の現存の御前で、自分の信仰やその他のふさわしい科目を学ぶことです。


[p.12]

2010年6月20日、無原罪の聖母教会

パトリシャ:わたしは、ある知り合いの女性がミサの後、教会で祈っているのを見ました。わたしは彼女をよく見かけます。彼女のお子さんのうち何人かは信仰から離れていますが、お子さん達はいつも彼女の祈りのうちにあります。イエス様は、この女性が自分の子ども達を祈りによって、天国に向かって背負っているところを見せてくださいました。彼女の年齢は90代です。霊的に示された彼女の姿は、子ども達の無関心の重荷で腰が曲がっていましたが、彼女はあきらめませんでした。この女性の祈りは応えられるでしょうし、また、応えられつつあります。主は、福音の中で「求めよ、そうすればあたえられるであろう」(マタイ7:7)とおっしゃいました。この祈り深い女性はまさにそれを実践しており、自分の祈りに喜ばしい応えがあたえられることを信じています。わたし達は、神の愛と慈しみが、自分自身と自分の祈っている人たちに向けられていることに信頼すべきです。


[p.15]

1994年5月27日、ポーランド系の聖マリア修道女会、

ヴィア・カポディストリア(訳注:ローマの通りの名前)、ご聖体顕示

パトリシャ:主よ、あなたは『愛の歌』でいつも、練習すれば完全になる、と仰せられますが、物事や出来事はすばやく起こり、あなたがお教えになるすべてをわたしは実践できないようです。

イエス:本気のテニスプレーヤーは、何度もボールを逃しても、あきらめません。自分が相手にとって手ごわい敵になるまで、練習を繰り返します。傲慢が、二流のレベルであきらめさせます。世界チャンピオンになる者たちは、ゲームをよく学び、ルールにのっとってプレーし、ミスをよく観察し、同じワナにおちいらないよう更に緊張感をもってあたります。霊的生活でも同じことです。ネットの向こうの対戦相手は悪魔です。敵はあらゆる罪のボールをあなたの霊魂と体に向かって投げ込んできます。彼はあなたに、これは都合の良いゲーム展開(friendly game, 友好的なゲーム)だと思い違いをさせることさえあるでしょう。悪魔は誰の友(friend)でもありません。悪魔が勝ち取る霊魂にとってさえ、悪魔は友ではありません。そうです。ゲームは長く続き、しかも早いのです。悪魔はルール違反をして誤魔化すことさえありますが、それを何とも思いません。悪魔はあなたを打ちたたいているとさえ感じられることもあれば、あなたが勝っていると信じこませて、傲慢に導くこともあります。忘れないでください。悪魔は引き分けや勝利では満足しないのです。彼が望むのは、全滅(annihilation)と所有(possession)です。そして、勇敢な霊魂を最も嫌います。逆説的ですが、謙虚な霊魂(上手ではないプレーヤー)が、自分の失敗や無能力も成功も、同じ心の平安のうちにわたしに捧げるとき、邪悪な者を激怒させます。これが悪魔を出し抜きます。全世界にとっては、このような霊魂は最もみじめな者と思えますので、悪魔は皆の前でその霊魂をばかにします。そのような霊魂はわたしに向かって叫び、他の人の目には愚かしいと思える自分の姿を受け入れます。悪魔はそのような霊魂を危険であり、他の弱く無力な者たちの悪い手本だと思います。悪魔は、自分の失敗や苦しみに頼る霊魂とトーナメントを行い、二セット先取(せんしゅ)されて負けたくはないのです。このように未経験なプレーヤー達が悪魔を倒し、厚かましくも他の弱虫たちもそこに並んで、次から次へと喜んで試合に参加するのですから、悪魔の方が愚かに見えてしまいます。


[p.16]

2015年8月19日

イエス:わたしは存在する者であるという真理の証しとなりなさい。わたしは主の潔白であるという真理の証しとなりなさい!


[p.19]

1994年11月6日、ナザレの家、主の祈り「天におられるわたしたちの父よ」の指導

聖ルカ11:2

朗読:「父よ、御名が聖とされますように。」(ルカ11:2)

    (Father, hallowed be thy name.)

(「聖とされた(hollowed)」の定義:神聖な。大いなる尊敬と畏敬の念をもって宗教的利用のためにとっておかれる。)

イエス:父なる神の御名を聖とするとき、あなたは自分の生活の中で御父のご意志(御旨)のために聖なる場所を用意するのです。その聖なる場所に御父の御国(王国)は来ます。

マリア:あなたがイエスの御名を深い畏敬の念をもって用いるならば、父が子のうちにおられ、子が父のうちにおられるため、また、イエスが来られたのはただ御父の御旨を行うためだけであるがゆえに、あなたの中で、畏敬の念をもった従順が日々成長することでしょう。これは十戒の一つ「あなたの父…を敬いなさい」と密接に関係しています。

イエス:あなたが天の御母を敬うとき、聖母はあなたが母なる教会をさらに大いに完全に敬うことができるよう訓練してくださるでしょう。母なる教会は毎日あなたに聖体という日ごとの糧を与え、また、善にして堅固なる教義と信仰という日ごとの糧をあなたに与えています。教会は、告解の秘跡によって司祭が父と子と聖霊の名によってあなたを赦(ゆる)すとき、あなたに対するわたしのあわれみを示します。これは、あなたに対して負債のある人(=罪をおかしている人)をあなたがゆるすための助けとなります。告解の秘跡によって、あなたは誘惑に抵抗できるよう強められます。


ローマ・ミサ典礼書の総則

275[=234] 礼は、その人自身に対して、あるいはその人を表すしるしに対して畏敬と栄誉が示されることを意味している。礼には二種類ある。すなわち、頭を下げるだけの一礼(頭の礼)と、深く頭を下げる礼(体の礼)である。

 前者は、父と子と聖霊の名が同時に唱えられるとき、またイエス、おとめマリア、および、そのミサで祝う聖人の名前に対して行う。

 後者、すなわち深い礼は次の場合に行う。祭壇に対して、また、「主の福音をふさわしく…」(ムンダ・コル・メウム、Munda cor meum..., 全能の神よ、わたしの心を清め…訳注1)と「神よ、悔い改めるわたしたちを…」(イン・スピリトゥ・フミリターティス、In spiritu humilitatis..., 主なる神よ、わたしたちはあなたが受け入れてくださいますよう願います…訳注2)の祈りのとき、ニケア・コンスタンチノープル信条の中の「御からだを受け…」(エトゥ・インカルナトゥス・エストゥ、Et incarnatus est..., 聖霊のおん力によって…人となられました訳注3)のことばのとき、ローマ典文において「全能の神よ、つつしんで…」(スプリチェス・テ・ロガムス、Supplices te rogamus, 全能の神よあなたの天使が…と、わたしたちは祈ります訳注4)のことばを唱えるときに行う。同じ礼は、助祭が、福音を告げ知らせる前に祝福を願うときに行う。

 なお、司祭は、聖別(聖変化)にあたって主のことばを唱えるとき、少し頭を下げる。

ローマ・ミサ典礼書の総則 訳注5 (訳者:カトリック中央協議会の訳を参照しながら英文を翻訳しました。)


[p.20]

訳注1:司祭が福音書を朗読する前に沈黙で唱えることば。日本の典礼書では「主の福音をふさわしく告げるため、身も心も清めてくださいますように」。

訳注2:司祭がカリスを供えるために奉持した後、コルポラーレの上に置いたときにへりくだって心を捧げる沈黙の祈り。日本の典礼書では「神よ、悔い改めるわたしたちを、きょう、御心にかなういけにえとして受け入れてください」。

訳注3:ニケア・コンスタンチノープル信条の日本語公式訳では、「聖霊によって、おとめマリアよりからだを受け、人となられました」。

訳注4:第一奉献文の中の聖変化後の祈りの中で「全能の神よ、つつしんでお願いいたします。あなたの栄光に輝く祭壇に、このささげものを、御使いに運ばせ、いま、祭壇で御子の神聖なからだと血にともに結ばれるわたしたちが」という部分。

訳注5:英語の原文には「ローマ・ミサ典礼書の総則(1966年1月27日)」とありますが、いわゆる新「総則」の誤りと思われます。

 一般に言われているローマ・ミサ典礼書の新「総則」とは、教皇庁典礼秘跡省が2000年3月20日付で公布し、2年後の2002年3月に出版した『ローマ・ミサ典礼書』のラテン語規範版第3版の冒頭に掲載された「ローマ・ミサ典礼書の総則」(Institutio generalis Missalis Romani)を指します。この新「総則」は『ローマ・ミサ典礼書』のラテン語規範版の変更に合わせて増補・改定されたものです。

 新「総則」は日本では「ローマ・ミサ典礼書の総則(暫定版)」として発行されています(カトリック中央協議会のウェブサイトにPDF版があります)。


著作権:パトリシャ・デ・メネツィズ(試訳)2020年2月7日(金)