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アヅマの古都宇都宮

2020.09.06 14:12

http://takuyakayukawa.blogspot.com/2009/03/TOCHIGI001.html 【アヅマの古都宇都宮】より

どーもみなさま、城マニアのおかゆです。本日で大関東城郭周遊紀十日目、栃木編へと入ります。この城めぐりも残すところあと3日となりました。10日間の長きに渡る旅行は、思えば僕の旅行の中では初めてです。軽くホームシックを感じながらも笑、次なる目的地である栃木県を目指しました。水戸では先輩が餞別に納豆せんべいを手渡してくれました。

朝8:30、水戸駅より水戸線に揺られること1時間と20分ほどで中継地の小山に入りました。ここ小山はすでに栃木県にあたります。小山からは宇都宮線でおよそ30分ぐらいで栃木の都、宇都宮へ辿り着きます。

栃木も未踏の地です。車窓に田園風景を流しながら、納得せんべいをバリバリ食べています。納得せんべいを食べ終わるころに宇都宮へと着きました。2時間の電車移動も段々と慣れてまいりました。宇都宮駅前は昼前の穏やかな時間です。ひとまずは本日泊まる宿に立ち寄って荷物を置き行きたいと思います。それでは例によって、本日のお城に向かう前にこの地の歴史から振り返りましょう。

関東地方最大の面積を誇り、関東最北の地に位置する栃木県はその昔群馬県と合わせて「毛野(けの)」と呼ばれた肥沃な大地が広がる一帯を成していました。近畿のヤマト王朝より辺境にある毛野は「毛人」と呼ばれた蝦夷をはじめとする先住民が住んでいた地域とされます。その毛野は次第に分割され、西を「上毛野(かみつけの)」東を「下毛野(しもつけの)」としそれぞれを統治する豪族に「国造(くにのみやつこ)」という役人を置かれ分割統治されてゆきます。天武天皇十三年(684)のころ、はるか昔のお話です。

大宝元年(701)には下毛野は「下毛野国」となり、「下野国(しもつけのくに)」として令制国家となりました。同じく国家となった「上野(こうづけ)国」には豪族陵墓が多く見られるのに対して、下野国は黒曜石を用いた石器が多く発掘されています。これは栃木北部の高原山(たかはらやま)で算出される黒曜石由来の石器であり、下野の地域が黒曜石の一大産地となっていたためです。この高原山産黒曜石器は遠く長野や静岡までも発掘されるほど広く流布されています。ちなみに黒曜石とは火山岩の一種でありカラス質の宝石にあたります。

下野のほぼ中央にあたるのが「宇都宮」です。現在栃木県の県庁所在地である宇都宮市が栃木の中心にあるように、下野の時代においても中心にありました。仁徳天皇四十一年(353)の古代より由緒のある「二荒山(ふたあらやま)神社」が鎮座して以来、宇都宮は二荒山の門前町として発展した経緯があり、これまで回った関東のどの都市にもない圧倒的な歴史があります。二荒山神社に関してはまたのちほど詳しくご説明します。宇都宮の「宇」は、「卯」つまり「兎(うさぎ)」とされ十二支による東の方角を現し、宇の方にある都を示しているとされています。江戸や鎌倉よりも古い時代に都とされた場所、それが宇都宮なのです。

二荒山神社の神職は、永承六年(1051)に勃発した前九年の役を鎮圧した功績により、都から派遣された藤原宗円(そうえん)公が受け持ち、三代目朝綱(ともつな)公より姓を「宇都宮氏」として勢力を誇りました。下野は奥羽(東北)と坂東(関東)の国境をなす軍事的重要地であり、奥州をにらむ好地を宇都宮氏が支配していたことは後々大きな意味をもちます。鎌倉時代の文治五年(1189)源頼朝公が各地の御家人を率いて奥州に攻め入った「奥州合戦」では、朝綱公は大将軍頼朝公より「関東一の弓取り」と讃えられ下野統治の地位を確固たるものとしました。

南北朝時代の元弘元年(1331)楠木正成(くすのきまさしげ)公の引き起こした「元弘の乱」には九代目公綱(きんつな)公が参戦し、その武勇から「坂東一の弓取り」と讃えられました。その後の室町時代には下野のみならず上野(群馬)や越後(新潟)をも統治する多国守護職となり『千葉城』の千葉氏や『水戸城』の佐竹氏など名族と名を並べる「関東八屋形(かんとうはちやかた)」に列するまでに成長し、関東での宇都宮氏の支配体制を盤石にしました。

古代の神職より武官として発展した宇都宮氏が本拠としたのが二荒山神社が鎮座する明神山を南端とする市北西の山塊より南方の平地、三方に開け田川・釜川が入り交じる扇状地帯です。平安時代この地にお屋敷を構えたのがかの藤原宗円公であるとか、はたまた奥州藤原氏の秀郷(ひでさと)公であるとか定かではありませんがこの居館は時代とともに城塞化され宇都宮の本拠地となります。その屋敷の名は「宇都宮城」と呼ばれました。

宇都宮駅の西面には、東北新幹線や在来東北本線と並走するように田川が南北に流れています。駅前から県道1号を西へ歩くと、その田川に出ます。くねくねと蛇行する田川が宇都宮城の天然のお堀を兼ねていました。さきほど宿の受付さんに宇都宮城のことをさらっと聞いてみましたが、、、

「宇都宮の城?むかしスケェト場があったところかえ?このまいの川渡ったらいまっと歩ってたらすぐだんべ」

ガッツリ栃木弁で吹きそうになりましたがw ニュアンスで大体伝わりました。さて、宇都宮城に入る前にその後の宇都宮氏の歴史についてお話ししましょう。下野守護職となった宇都宮氏は次第に肥大化し、嫡流と庶流へ分離してゆきます。嫡流の宇都宮氏が下野宇都宮を本拠としたことから下野宇都宮氏、庶流は豊前や伊予へと流れてゆきますが、下野内部でも嫡庶の隔たりがうまれやがて一族の確執へとつながります。家中の分裂はやがて一族の崩壊を引き起こします。

永正九年(1512)十七代目成綱(なりつな)公が、重臣芳賀高勝(はがたかかつ)公を殺害したことに端を発した芳賀氏の反乱である「宇都宮錯乱」が宇都宮城にて引き起こります。成綱公は一旦はこの内乱を鎮圧しますが、内部の綻びは戦国の動乱も相乗してゆき、終いには宇都宮氏の求心力は弱まり本拠宇都宮城すらも家臣に乗っ取られてしまいます。二十二代目国綱(くにつな)公は逃げるように山奥の下野多気へと移り宇都宮城は当主を失います。天正十八年(1590)西から大軍で攻め込んで北条氏を滅ぼした関白豊臣秀吉公が入りました。この年の宇都宮仕置により一旦は宇都宮城に戻ることを許された宇都宮氏ですが、関白秀吉公により突如改易処分を受け二度と宇都宮に戻ることはありませんでした。ここまでが中世宇都宮城の歴史です。

ホテルから田川を渡ってほどなくしたら、公園の中にお堀が見え、白亜の櫓が見えてきます。これが宇都宮城です。一昨年の平成十九年(2007)に再建された出来立てホヤホヤの復元櫓である「清明台櫓(せいめいだいやぐら)」です。いよいよお城ですが、その前に宇都宮氏のその後の宇都宮城の歴史についてお聞きください。

関ヶ原の合戦以後、慶長六年(1601)美濃加納より奥平家昌(おくだいらいえまさ)公が、続く元和五年(1619)に本田正純(まさずみ)公が城主として宇都宮入りし、宇都宮城を大改修してゆきます。徳川家老の入城により宇都宮城は梯郭式と輪郭式を組み合わせた巧みな縄張に加え、宇都宮市中の町割り普請し流通経済を発展させ、奥州と日光へと街道や宿所を整備し大規模な改修を重ねました。

もともと宇都宮城は古豪宇都宮氏の居城として関東に名を馳せた名城でした。『忍城』と並び「関東七名城」のひとつにも数えられる宇都宮城は、関東に輝く老舗のお城として地理的重要性と戦国期を耐えた実績を備えて、泰平の江戸時代でも価値の大きなお城でありました。それは宇都宮の北に新しく創建された日光のお社により大きな付加価値がつけられます。

宇都宮より北西に位置する日光にはあるお社が建立されます。「日光東照宮」――これは元和三年(1617)に徳川家康公の一周忌に際し造営された家康公をお祀りする神社です。江戸幕府初代将軍家康公は、死後朝廷より「東照大権現」の神号を得て神となります。宇都宮城はこの日光東照宮への参詣道(日光御成街道)の道中にあり、江戸より発した日光社参の御公儀(ごこうぎ)行列の一行がご宿泊なされる大切なお城にあたりました。

宇都宮城大改修にあたった本田正純公は将軍家御宿城としての機能も拡張し、本丸には「御成御殿(おなりごてん)」という将軍専用のお屋敷を建てました。むしろ本丸という城の主郭は江戸の将軍家のためのものにあてられ、城主となった正純公は将軍家のためにわざわざ本丸主郭に巨大な宿所を莫大な予算で普請作事させられたのです。しかし結局正純公は宇都宮城の整備をさせるだけさせられてから元和八年(1622)「釣天井事件」という虚偽の疑惑によって粛清させられてしまう哀しい城主となりました。釣天井事件とは、御成御殿の天井を昇降制御して将軍ごと押しつぶしてしまうカラクリを密かに設置した疑いを正純公がかけられ出羽横手(現、秋田県横手市)に流罪となってしまう事件のことを指します。もちろん御成御殿にはそんなスパイ映画にでてくるような暗殺装置なんて存在しません。都合よく失脚させられた、江戸時代によくある出来事のひとつだったのです。

さきほど見えた宇都宮城清明台より土塁に沿って歩くと、土塁がぶち抜かれトンネルとなった一角があります。そのトンネルより土塁の中に入ると、「宇都宮城ものしり館」と呼ばれる資料館があり、その中に在りし日の宇都宮城本丸のミニチュアが展示されています。御成御殿や清明台などの城郭建築が丁寧に再現され、宇都宮城の規模を鳥瞰できます。中にはボランティアガイドのオジサンがコテコテの栃木弁で案内していますので、いかに宇都宮市がこの宇都宮城復元に本気かが伝わりました。

釣天井事件以降の宇都宮城の歴史は正直面白くありません。幕府譜代のお固い大名が入れ替わりで城主となり、日光参詣の将軍が各年で参拝するために御成御殿入りする程度の出来事を繰り返すだけで近代に突入します。当然宿泊メインのお城に攻防機能は申し分程度しか備わっておりません。時代をへて慶応四年(1869)に来たる幕末の戊辰戦争における「宇都宮城の戦い」ではわずか1日で落城するほど、城郭の守備機能が低下していました。落城ともに城内は出火し宇都宮城はその姿を消しました。宇都宮市中3,000戸を超える町家のうち6割を超える2,000戸が消失する規模の出火に加え、宇都宮の由来ともなった二荒山神社も消失し宇都宮はその千年の歴史に幕を降ろすことになります。

その後は軍駐屯地となり戦災も受けました。終戦後現代に近づく中で都市化が進むにつれて宇都宮城は忘れさられつつありました。昭和三十三年(1958)城跡に「御本丸公園」を整備しスケート場などの娯楽施設が整備され、市民の憩いの場となりました。ここまでは全国津々浦々に転在する城跡公園の歩みですが、平成の世になり御本丸公園の発掘調査を皮切りににわかに宇都宮城再興の動きが始まりました。

平成元年(1989)より定期的な発掘がなされ、発掘資料を展示する「清明館」が設置され御本丸公園は徐々に城であったころの姿を取り戻しました。7年前の平成十四年(2002)その名を「宇都宮城址公園」と改称し、一昨年の平成二十一年(2007)に公園内に本丸の西側半分を復元した宇都宮城がお目見えしました。さて、それでは復元された土塁と櫓へと登りましょう。

宇都宮城ものしり館の脇にはエレベーターが設置され、階段を使わずとも土塁の上にあがることができます。これは土塁風に造られた鉄筋コンクリートの空間であり、土塁の内部は災害避難スペースや防災用品備蓄倉庫となっています。これが21世紀の新しいお城の形です。それもそのはずで、宇都宮城本丸の土塁は高さ14mもあり、本丸半分とはいえ復元された土塁は南北に230mもあります。土塁傾斜はおよそ45°ありますので、これを単純計算しても96,000㎥の土砂が必要となります。そんな膨大な土の量をコストをかけて確保するよりかは、形だけでも復元し浮いた中身を有効活用するほうが未来的でしょうね。

RC構造の土塁に対して、復元された2つの櫓は総木造復元の伝統建築工法がなされています。2重2層の2つの櫓は栃木県産の桧や杉、松をふんだんに用いて築かれ、櫓を支える石垣は日光石、漆喰は宇都宮藁と佐野石灰を使用しています。瓦はなんと美濃瓦(岐阜県産)です。こんなところで地元の匠の技に出会えるとは!ウキウキで櫓の中に入ると、櫓の2階には上がれないようにバリケードがありました。。。これは宇都宮城櫓のように、博物館・資料館等にあたる公共施設における階段の勾配限界46°を越えてしまっていることにあり、結果ハシゴ扱いとなり常用使用できなくなってしまっていることにあります。史実に忠実に再現したら現代の法律にひかかってしまう、まさに八方塞がりな城です。ちょっと櫓内でガッカリしていたらボランティアガイドさんに話しかけられました。

「この土塁残念かえ?したっけが復元した土塁の上に復元した櫓は建てられねぇ制約があるんだんべ」

「え?じゃあこのコンクリート土塁は、櫓を復元するために仕方なかったということでしょうか?」

「そうだんべ。防災公園としての二次使用もこめてやっと県や市から予算おりたみてぇだべ」

相変わらずガッツリ栃木弁にはビックリしますがw、どうやらこの宇都宮城址公園という文化事業と防災施設の二面性は、法律と資金とを兼ね合い生まれた特殊なお城ということになります。一口に史跡の復元とはいえ、多くの復元城郭において弊害となる建築基準法に足元をすくわれてしまった宇都宮城――一昔前はお城自体が消えかけていたことを思えば、関東都市部の中心にあって比較的運の良いお城かもしれません。

しかしながら、お堀ごしに見る宇都宮城は見事な再現率です。この構図だけ見れば、櫓を支える土塁がコンクリート造りとは思えないほどしっかりと造られています。それもそのはず、コンクリート土塁の表面には「ジオファイバー工法」と呼ばれる土構造が覆い、植生基材吹付工により自然に近い法面保護がなされています。往時の宇都宮城はこのような姿だったのでしょうか。

宇都宮城に別れを告げ、城の前を走る本丸西通りを北へ向けて歩きます。いちょう通りやオリオン通りを超えると、そこは宇都宮の市街地に入ります。政令指定都市未満の中核都市としては100万人規模を誇る宇都宮市は、なんと国内最大の規模だそうです。同じく中核都市である地元岐阜市よりも栄えている印象があります。「餃子」の街の印象がありますが、「カクテル」や「ジャズ」といったハイセンスなコンセプトを打ち出し地域活性化につとめています。

オリオン通りの商店街を抜け、直角に交わるバンバ通りを歩くと宇都宮パルコやうつのみや表参道スクエアの先に大きな朱色の鳥居が見えます。宇都宮の中心、標高135mの明神山に鎮座する「二荒山神社」です。下野一宮として威勢を誇示した古社です。創建1200年ほどを越えてもなお宇都宮の中心にあるこの社は都市に浮かび立つ楼閣のような不思議な趣があります。それはまさに関東の古都の威厳を、切り取って現代に伝えているかのように荘厳に見えました。

諸説ありますが本来は「いちのみや」であった場所の名が、下野の訛りによって「うつのみや」と発音された地名由来もあります。「一宮」とはその地域にあって一番社格の高い神社を指す名称であります。つまり宇都宮は古くより二荒山神社の権威の中心にあったことを証明しています。なんと崇神天皇四十八年(紀元前50年)という驚きの年代です!(伝承も含まれていますので不確かですか)ヤマトタケル以前にこの地がアヅマの中で拓けた都であったことを示しているとみてもいいでしょう。その後承和五年(838)より臼ヶ峰とよばれた現在の明神山に社殿が移され、以降宇都宮市民の信仰を厚く受けてきました。主祭神は豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)、第十代帝崇神(すじん)天皇陛下の皇子で、毛野国をはじめて統治した人物とされています。つまり関東で最初に開拓された土地こそが、豊城入受命が赴いたここ宇都宮ということになるでしょう。まだ関東がアヅマと呼ばれる遥か昔のお話です。

かつては源平合戦で活躍した那須与一(なすのよいち)公・源頼朝公など名立たる武将から戦勝祈願されたこの神社は当時は「宇都宮大明神」と呼ばれていました。土地柄何度も焼失と再建を繰り返した歴史もあり、現在みられる二荒山神社の社殿は、宇都宮の戦いで焼け落ちた社殿を新政府がおよそ120年前の明治十年(1877)に再建したものです。明治以後は「二荒山神社」の名称が定着し現代にいたります。

ちなみに二荒山神社の名がつく神社は有名なものでほかに日光にある「二荒山神社(ふたらさんじんじゃ)」がありますが、こちらの宇都宮の神社は「二荒山神社(ふたあらやまじんじゃ)」と呼びます。不思議なことにその両二荒山神社が一宮を称しているので、下野国内には一宮が2つあることになります。どちらが本当の「一宮」なのかは研究者が判断することですが、僕は地理的に見ればこちら宇都宮の二荒山神社が一宮にあたると思います。いずれ日光の二荒山神社も訪れてその答え合わせをしたく思います。

小高い神社の石段より眼下を見渡せば、朱鳥居の先に門前町として栄えた宇都宮の発展が見ます。歴史をみて歩くことでこれまで単なる北関東の中核都市ぐらいにしか見ていなかった宇都宮の起源が見えたような気がして、この景色がとても魅力的に見えました。この石段の先のバンバ通りの南に進めばさきほどの宇都宮城へと通じています。一度は枯れていた宇都宮の歴史がここに蘇りつつあります。晴れやかな爽快感を感じて二荒山神社の石段を下りました。

帰りは県道64号線に沿って歩き、道沿いにあった中華料理屋で炒飯と餃子をいただきました。ここへ来てようやく旅らしくご当地グルメです。今回はちゃんと食べ物写メを撮ってみました。1階がラーメン屋ですが、2階が園芸屋というダブルワークなお店でなかなか面白かったです。ご主人に店舗2階に案内してもらいましたが、盆栽が夕暮れでシルエットしか分かりませんでした笑

クネクネと蛇行する田川が夕闇に暮れるころにようやくホテルへ到着しました。本日でこの城旅も10日目、旅の疲労がグッと身にしみるころです。ホテルの1階には下駄履き店舗にコインランドリーがあり、長旅の服を選択しながら煙草に火をつけました。規則的にクルクル回る洋服を眺めながら、紫煙を味わっていると段々と眠たくなってきました。本日で北関東の城は終わり、明日より一気に南へ下り神奈川入りします。まだこの旅で訪れていない関東第2のハイセンスな都市と、かつて関八州の王国として盛栄したお城が待っています。気づけばランドリーでうとうとしていました。明日に備えてゆっくりベッドで休息してきます。それではまた明日お会いしましょう!