ゴーゴリ著『鼻』
新しい生活様式のなかで
わたしがマスクの柄に困惑するわけ
217時限目◎本
堀間ロクなな
「ウィズ・コロナ」のもとで新しい生活様式が標榜され、いまや他人と接触する場所ではマスクをつけるのが常識となった。もともとわたしは寒暖差アレルギーの気があり、かねて季節の移り変わりにはマスクをつけてきたから苦にならないのだけれど、ひとつだけ困惑することがある。世間のマスクが当たり前の白いものならともかく、最近はヴァリエーションに富んで、妙にカラフルだったり、花柄や水玉模様だったりすると、もういけない、恥ずかしさのあまり目のやり場に困るのだ。そんなデリカシーを、馬鹿馬鹿しい、と知人は笑い飛ばすが、わたしの言い分はこうだ。
ロシア文学史上、最も奇矯な文豪のゴーゴリに『鼻』(1836年)という作品がある。ペテルブルグのある朝、理髪師が朝食を取っていると、焼きたてのパンのなかから人間の鼻が出てくる。その鼻の持ち主、八等官コワリョーフは鏡を見て顔面の中央がのっぺりと平らになっていることに気づくなり、さっそくその探索に乗り出して、奇しくも箱馬車から自分の鼻が礼服姿で降りてきたのを目にする。こちらから丁重な物腰で話しかけると、相手はけんもほろろの態度で……。といった具合に、あらすじを説明するのにもアタマが混乱してくるような支離滅裂さなのだ。これが意味するところは、一体?
ナボコフの著作『ニコライ・ゴーゴリ』(1944年)にはこんな記述がある。「彼の大きな鋭い鼻はすこぶる長く、よく動いたから、若い頃はこの先端と下唇をくっつけて食屍鬼のような顰め面をするのが得意であった(彼には百面相の才があった)。この鼻は彼の外的身体部分のうちもっとも鋭利にして本質的なものであった。(中略)この鼻意識は遂に短篇『鼻』を生むにいたった。これぞかの器官に捧げられた正真正銘の頌歌である」(青山太郎訳)――。この引用個所の行間にも滲み出ているとおり、主人公コワリョーフの鼻とは、ピノキオの鼻と同様にペニスを表していよう。だから、かれは自分の鼻の情報を求める新聞広告を出そうとして、受付係が難色を示すとこう言い募るのだ。
「ぼくの身にもなってみてくれたまえ。(中略)毎週木曜日には、五等官夫人のチェフトゥイリョーワだとか、上長官夫人のポドトーチナ、パラゲーヤ・グリゴーリエヴナのところへ行くことにしているし、その娘さんは非常にきれいな人で、またたいへんりっぱな知合いももっているわけだからね、察してくれたまえ、ぼくの現在の立場を、……ぼくはもうあの人たちのところへ顔だしもできやしないよ」(横田瑞穂訳)
つまり、コワリョーフはこの事態を、みずからを取り巻く女性たちとの関係で捉えているのであり、そのあげく「このことの張本人こそ自分に娘を押しつけようとしている、あの上長官夫人のポドトーチナにちがいない」と確信して、次第によっては裁判に訴えることも辞さないとの手紙まで送る。当然ながら、先方からはあっけらかんと「身に覚えがない」との返信。やみくもに繰り返される男の愚かしいひとり芝居。
そう、ここに描かれた鼻の喪失とはインポテンツの隠喩だ。古今東西、およそ男という男にとっての悪夢をめぐる周章狼狽の物語なのだ。いざと言うときにかぎって思うにまかせない絶望、やり場のない憤怒。ところが、そのときが過ぎてみればあっさり回復して、もとに戻ったと知ったからにはふたたび性懲りもなく、なにごともなかったように「鼻もまた、まったく以前と変わることなく、ちゃんと顔へ収まって、もうわきへ逃げだそうという気配などすこしも見せなかった。そしてそれからのちのコワリョーフ少佐は、いつ見ても上機嫌で、にこにこしていて、美しい婦人とみたら、もうなんの躊躇もなくその尻を追いかけてゆき(後略)」――。
かくして、わたしはゴーゴリの『鼻』を知ってしまった以上、もはや世間で見かける夥しいマスクのふくらみに無頓着ではいられない。あれやこれやの形状をした鼻、鼻、鼻、鼻、鼻……を包むものがまっさらな白地ならともかく、そこに派手な色使いがあったり、花柄や水玉模様があったりしたときには、あたかも秘めやかな下着を見せつけられるような思いがして正視に堪えないのである。馬鹿馬鹿しいだろうか?