Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

筑波山

2020.09.08 03:13

https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=1243  【筑波山】より

八溝やみぞ山地南端に位置。紫し峰ともよばれる。北は現真壁まかべ郡真壁町、南は筑波町、東は新治にいはり郡八郷やさと町。男体なんたい峰(西峰)と女体によたい峰(東峰)からなる双耳峰で、標高は八七五・九メートル(東峰)。山頂付近を御幸みゆきヶ原といい、東のつつじヶ丘を経て東南の風返かざがえし峠・不動ふどう峠へ続く。筑波男神・筑波女神の鎮座地として信仰を集め(筑波町の→筑波山神社)、その山容は古くから関東の名山として尊崇され、富士山と好対照の山として眺められてきた。山頂からは関東平野を一望にする。花崗岩と斑糲岩が古生層を突破って出現した山で、造山の歴史は富士・日光より古く、太古には関東唯一の存在であった。山中よりの水系は男女みなの川などがあり、日本蟇蛙・衝羽根などの動植物が生棲している。

「常陸国風土記」に「風俗の諺に、筑波岳に黒雲挂かかり、衣袖漬ころもでひたちの国といふは是なり」とあるほか、筑波郡の項に

それ筑波岳は、高く雲に秀で、最頂は西の峯崢しく〓く、雄の神と謂ひて登臨らしめず。唯、東の峯は四方磐石にして、昇り降りは〓しく屹てるも、其の側に泉流れて冬も夏も絶えず。坂より東の諸国の男女、春の花の開くる時、秋の葉の黄づる節、相携ひ駢〓り、飲食を齎賚もちきて、騎にも歩にも登臨り、遊楽しみ栖遅あそぶ。其の唱にいはく、

筑波嶺に 逢はむと いひし子は 誰が言聞けば 神嶺 あすばけむ。

筑波嶺に 廬りて 妻なしに 我が寝む夜ろは 早やも 明けぬかも。

詠へる歌甚多くして載車のするに勝へず。俗の諺にいはく、筑波峯の会に娉つまどひの財を得ざれば、児女とせずといへり。

などの記事がみえ、筑波山〓歌(歌垣)の様子が伝えられる。「古事記」景行天皇段の日本武尊東征譚に

新治 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる

とうたひたまひき。爾に其の御火焼みひたきの老人、御歌に続ぎて歌曰ひしく、

かがなべて 夜には九夜 日には十日を

とあり、「日本書紀」にも同様の記事がみられるが、この片歌問答が連歌の起源とされていたため、連歌は「筑波の道」とよばれた。「万葉集」巻三には

  筑波岳に登りて、丹比真人国人の作る歌一首并に短歌

鶏が鳴く 東の国に 高山は 多にあれども 朋神の 貴き山の 並み立ちの 見が欲し山と 神代より 人の言ひ継ぎ 国見する 筑羽の山を 冬ごもり 時じき時と 見ずて行かば まして恋しみ 雪消する 山道すらを なづみぞわが来る

  反歌

筑羽嶺を外のみ見つつありかねて雪消の道をなづみ来るかも

とあり、筑波山は国見の山とも考えられていた。また

  筑波嶺に登りて〓歌会をする日に作る歌一首短歌を并せたり

鷲の住む 筑波の山の 裳羽服津の その津の上に 率ひて 未通女壮士の 行き集ひ かがふ〓歌に 人妻に 吾も交はらむ あが妻に 他も言問へ この山を 領うしはく神の 昔より 禁めぬ行事ぞ 今日のみは めぐしもな見そ 言も咎むな〓歌は東の俗語にかがひと曰ふ

  反歌

男の神に雲立ちのぼり時雨ふり濡れ通るともわれ帰らめや

  右の件の歌は、高橋連虫麿の歌集の中に出づ。 (巻九)

筑波嶺の新桑繭の衣はあれど君が御衣みけししあやに着欲しも  (巻一四)

など多くの歌が詠まれ、「古今集」「後撰集」「拾遺集」「詞花集」「新古今集」「源氏物語」にも筑波山が取上げられる。また山麓の水田地帯も「万葉集」巻九に

筑波山に登る歌一首短歌を并せたり

草枕 旅の憂へを 慰もる 事もあるかと 筑波嶺に 登りて見れば 尾花ちる 師付しづくの田居に 雁がねも 寒く来鳴きぬ 新治の 鳥羽の淡海も 秋風に 白波立ちぬ 筑波嶺の よけくを見れば 長きけに 思ひ積み来し 憂へは息みぬ

  反歌

筑波嶺の裾廻すそみの田井に秋田刈る妹がり遣らむ黄葉手折らな

とあるほか、「新拾遺集」にも「筑波嶺のすそわの田居」の歌がみえる。

古代の筑波山は山岳宗教の場でもあった(筑波町の→中禅寺跡)が、平将門の乱では将門勢と良兼勢の争いにも登場し、「将門記」に「十九日ヲ以テ、常陸国真壁郡ニ発向ス。乃チ彼(良兼)ノ介ノ服織ノ宿ヨリ始メテ、与力ノ伴類ノ舎宅、員ノ如ク掃ヒ焼ク。一両日ノ間ニ件ノ敵ヲ追ヒ尋ヌルニ、皆高キ山ニ隠レテ、有リナガラ相ハズ。逗留ノ程ニ、筑波山ニ有リト聞ク」とある。

筑波山神社・中禅ちゆうぜん寺を中心にして筑波山周辺は栄え、多くの文人墨客や一般の登山者を迎えたが、幕末・維新に重大な変化が訪れた。元治元年(一八六四)三月には藤田小四郎らを中心とする水戸藩尊攘派の天狗党による筑波山挙兵があり、同志は一千人を超え、中禅寺周辺に集まった。一時は下野太平山へ移陣したが、再び筑波山へ戻り、周辺各地で軍資金を調達した。この間の推移を、筑波山の住人であった塚本勇吉はその日記に克明に記述している。昭和四四年(一九六九)水郷筑波すいごうつくば国定公園が発足し、観光化が急速に進められ、ケーブルカー、ロープウェー、有料道路(筑波スカイライン、パープルライン)などの整備によって四季を通じて登山・観光客が訪れている。


https://www.onedayhik.com/php/ymrec.php?recid=19910324_01 【筑波山~万葉集にも詠われた古い歴史の山~】  より

筑波山は「西の富士、東の筑波」と言われ万葉の昔から親しまれた山です。1,000mに満たない山ながら、鹿児島県の開聞岳とともに深田久弥氏の日本百名山の一つに数えられています。関東平野の北の外れに立つ独立峰だけあって山頂からの展望は素晴らしく、また植物の宝庫としても知られ、自生植物は800種あまり。ツクバの名を冠した植物も少なくないと言います。

高萩行きの普通電車で土浦の駅へ。以前は筑波まで関東鉄道が運行していましたが、現在はバス路線になったようです。土浦駅から凡そ1時間。筑波駅のバス停は昔の鉄道のホームを改修した寂れた雰囲気の広場です。めざす登山口のある筑波山神社は、ここからバスに乗り換えるようですが、約30分以上の待ち時間があります。仕方なく筑波山神社まで車道沿いに歩くことにしました。

たどり着いた筑波山神社の前にはたくさんの土産物屋が軒を並べていました。ここ筑波は「前足が四本、後ろ足が六本」の四六のガマで有名なガマ油軟膏の発祥の地。たくさんのガマの置物が置いてあります。急な階段を登ると筑波山神社の本殿。社殿の正面には関東随一という大きな鈴が掛かっていました。本殿に参拝した後、暗い杉林の中の登山道を登り始めます。ケーブルカーに沿って登っていく坂道はかなり急な登りです。

中ノ茶屋からしばらく登ると、登山道は左手の沢に下って行きます。この沢は「筑波峰の峰よりおつる男女川、恋ぞつもりて淵となりぬる」と百人一首にも歌われている男女川(みなのがわ)の源流となる沢です。

更に潅木林の中を登っていくと、やがて御幸ヶ原の喧噪が近付いてきます。たどり着いた広場はケーブルカーの山頂駅と土産物屋の建ち並ぶところ。たくさんの親子連れが思い思いにお弁当を広げていました。我々はひとまず男体山の山頂へと向かうことにします。石段が続く急坂をひと登りした山頂には男体祠が祭られていました。春霞のせいか、山頂からの展望は淡い霞みの中に溶け込んでいました。

男体山からの展望を楽しんだあと、御幸ヶ原に戻り昼食としました。

ここから女体山へはパラボラアンテナの建ち並ぶ広い尾根道を登って行きます。途中、大きな口をあけたガマ石。その口に小石を投げ入れると願い事が叶うと言われています。たどり着いた女体山の大きな岩場の上には女体祠が祭ってありました。

女体山~屏風岩~筑波山神社

女体山で展望を楽しんだのち、女体祠の裏手から筑波山神社へ下ることにします。山頂直下の下り坂はなかなか急な下りです。北斜面のためか、日陰にはわずかに残雪も残っていました。そろそろ2時近くになるにもかかわらず、まだまだたくさんの家族連れが、急な登りに喘ぎながら山頂を目指しています。急な岩場を少し下った広場が屏風岩。振り返ると女体山山頂の岩場がそびえ立つように迫っていました。

北斗岩、母の胎内潜りなどの巨岩、奇岩に目を奪われながら登山道を下ると弁慶七戻石。大きな岩が今にも崩れ落ちそうに積み重なっています。ここから左に下るとロープウェイのつつじヶ丘駅、右に下ると筑波山神社に下る道です。我々は右手の道を筑波山神社へと下ることにします。道はやがて静かな潅木林の中を下っていく心地よい下りとなります。そろそろ花の時期を終わるツバキが赤い花を付けていました。やがて車の喧噪が近づくと、今朝登り始めた筑波山神社の社殿は目の前です。