国造りは、筑波山から始まる
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【思金神社公式ブログ — 古代を訪ねて(ホツマツタヱ7)】 より
古代を訪ねて(ホツマツタヱ7)
現代に繋がる「ヤマト」の国造りは、まこと筑波山から始まると言ってよいだろう。一般的に日本人は九州の方から大和に来て国を造ったように言われているが私たちの教わったのは、日本人は関東から九州まで行きその後神武天皇の時に大和に都を造った。其の頃の人々は自分の足で日本中を自由に歩き回っていたようだ。しかし大和と関東は離れているためやがて大和政権の力が及ばなくなりそれを鎮めるために特別の東征が行われたように成った。しかしこれらの事柄は言い伝えとして語り継がれている事であって文献的なものはない。何処の古神社についても共通して言える事であって史料として残っているものは西暦700年代神仏習合の行われたころからのものである。
昔両神(むかしふたがみ)
筑波にて 御巡り問えば 女神には 成りなり定らぬ
女元あり 男神の成りて 余る物 合わせて御子を
生まんとて みちの合(まぐはい) なして子を 妊(うむ)みて生める
名はヒルコ
両親とはイサナギ・イザナミの二神を云うイザナギは諱をタカヒト(実名)といい父アワナギは淡海 ソサノの国(現在紀伊地方)を治めていた。またイザナミは名をイサコと云い日高見の国のくにの統率者タカミスビの5代目豊受の神(トヨケノカミ)の長女であった。二人は筑波の宮で結婚し最初の子ヒルコを生んだ。ヒルコは昼子姫または若姫・下照姫といい、こののちイサナギ・イサナミの両神は西国に行き淡路島・四国・九州・隠岐・佐渡・大島・とめぐり国作りされた。一応国造りを終え、此国を治め君を生もうと日に祈り輝く様な男の子を設けた。日の神天照大神である。この場所はハラミの宮富士山の麓である・天照大神の名はウヒルギ諱はワカヒトと云う。両神は再び国を巡り筑波に行って第三子、月読命を設ける最後にソサの国で素戔嗚を生み、ソサの国で生まれたのでソサノオと名付けられた。筑波山神社の拝殿には祭神として次のように大きく書かれた札が捧げられている。
天照大神・月読命・素戔嗚命・蛭子命
この4柱がイザナギ・イザナミの4人御子であることは「ホツマタヱ」の記述の通りであるが、「古事記」「日本書紀」に蛭子命は載ってはいない。
蛭子命はヒルコ姫のことであって天照大神の姉君であるが記紀にはヒルコ姫と天照大神にすり替かへてしまっているこの事は「書記」作為的に書き変えられた。最も重要な点であり「書記」に記された天照大神の名前こそこの作為の証拠の一つであろう。天照大神の名を「書記」では大日霞(下に女を書く) 貴(オオヒルメムチ)と記す「ホツマツタヱ」にある天照大神の名はウヒルキ、漢字をあてると「大日霞貴」である。「書記」の「ヒルメ」は巫女を意味する言葉であることは間違いない、しかし「貴」は「木」であって男子を意味する言葉であって一つの名前な中に女性と男性を意味する文字を入れたということは「書記」の記述者の明らかな誤りによる作為である。因みに秋田県鹿角市に天照大神を祀つた「大ひるめ貴神社」と云う名のある。これは古い伝承が今日まで伝えられているのである。しかしこの神社でも「ウヒルギ」と呼ぶべきものを「書記」の通り「ウオヒルメムチ」と呼んでいる。まさに無知と云うべきである。
http://michihiraki-japan.info/2018/04/01/tukubasan/ 【筑波山神社@茨城県つくば市】 より
筑波山本体をご神体としている筑波山神社。約3000年の歴史を有する古社です。御祭神を伊弉諾尊(イザナギ)と伊弉冊尊(イザナミ)です。筑波山には男体山と女体山とあり、男体山を伊弉諾尊を、女体山を伊弉冊尊を祭っています。摂社には天照大神・月読尊・須佐之男尊・蛭子尊が祀られています。この4名はイザナギ、イザナミのお子ですね。筑波は、物部系の一族「筑波命(つくばのみこと)」がこの地の国造りを命じられたことから、筑波一族が代々神社に奉仕してきたとされています。また、日本武尊が東征の帰途に立ち寄ったと言い伝えられています。
イザナギ、イザナミの二柱の神様が結婚し、神々を産み出して国を造ったことから、筑波山神社は縁結び、夫婦和合、家内安全、子授け、子育て等のご神徳と、国土経営をなされたことにより、開拓、国家運営、社運隆昌、職場安全、工事安全、交通安全等のご神徳。また、豊作や大漁などの産業面、そして厄除、方位除、心願、安産、進学等の合格祈願などに祖神達の強いなどのご神徳があるとされています。
※ホツマツタヱでは、この筑波山に伊弉諾尊(イザナギ)と伊弉冊尊(イザナミ)が新婚時代に住まわれていて、長女の蛭子尊(のちにワカ姫)をお産みになられています。
筑波山神社に入る前に赤い橋があります。「御神橋」で、県指定文化財にも指定されています。寛永10年11月(1633)三代将軍家光公寄進されたもので、この橋は決められた特別な日に渡れます。
【橋が渡れる日】・御座替祭(4月1日・11月1日)・年越祭(2月10日11日)
筑波山の神門の左右を守るのは、向かって左「豊木入日子命(とよきいりひこのみこと)※トヨギイリヒコは筑波を治め、民に大変慕われた。」右は「倭建命(やまとたけるのみこと)」です。二人の命について説明書きがされていたので、記載しておきます。豊木入日子命(とよきいりひこのみこと)筑波山に縁り深い古代武人の一人で第十代崇神天皇(すじんてんのう)の皇子である。
豊木入日子命(とよきいりひこのみこと)がある夜、大和国みもろ山に登って東に向いて刀と槍を各8かい振るのを夢でみて、天皇は霊夢の謎を解き給いて豊木入日子命(とよきいりひこのみこと)を東国(木国)に遣わした。
豊木入日子命(とよきいりひこのみこと)は、長くこの地を治められ筑波の里で神去り給うがご遺徳を慕う山西の民により、宇都宮二荒山神社に祀られ、下毛君、上毛君の祖と仰がれた。5世紀ごろ山東の柿岡に栄えた佐自奴公(さじぬのきみ)もまた同族である。
倭建命(やまとたけるのみこと)
筑波山に縁り深い古代武人の一人で第十二代景行天皇(けいこうてんのう)の皇子である。天皇の40年伊勢神宮に詣でて倭姫命(やまとひめのみこと・垂仁天皇の娘・伊勢神宮の皇女・斎宮)より託された三種の神器の一つ、あめのむらくもの剣を奉じて東征に赴き、筑波山に登拝し給わう。東北の高見国より還路甲斐国酒折宮にて「にいばり筑波を過ぎて幾夜か寝つる」と詠み給わいかがり火役の翁が「かかなべて 夜には九の夜日には十日を」と詠い続けた。
世に筑波の道と云い連歌* の始まりである。
*二人以上の人が、和歌の、上(かみ)の句と下(しも)の句とを互いによみ合って、続けて行く形式の歌。
本殿 目に飛び込んでくるのは、全長1.3m、重さ138kgもの大きな鈴。
男体山・拝殿
筑波山神社から男体山(標高870m)あります。御祭神は伊弉諾尊(イザナギ)です。途中までケーブルカーで行けますが、男体山山頂まで自力で登ることになるので、靴はスニーカーをお勧めします。山頂には、拝殿と社務所があるので御朱印が欲しい方はここでもいただけます。ちなみに、本殿の社務所でも、男体山と女体山の御朱印は頂けます。山頂の社務所は15時くらいには閉まってしまうので、間に合わない方は本殿の社務所で頂いておいた方が良いと思います。
女体山・拝殿
筑波山神社から女体山(標高877m)あります。御祭神は伊弉冊尊(イザナミ)です。ケーブルカーで上まで上がってきますと、左へ行く道と右へ行く道があります。左は、男体山。右は、女体山です。女体山へ行く途中に面白い形の岩があるのでご紹介します。
【ガマ石】
カエルのような口をあけている岩があります。この石の名前の由来は、「古来は「雄龍石」といいました。傍らに「雌龍石」もあります。永井兵助が「ガマの油売り口上」を考え出したことでガマ石と呼ばれます。」だそうです。
口の中に石が入るとお金持ちになれる!?と言われているそうで、チャレンジしてみてはいかがでしょうか。
【セキレイ石】
この石の上に鶺鴒(せきれい)が留まり、男女の道を教えたといわれます。このセキレイがイザナギとイザナミに男女の交わりについて教えたそうです。オシエドリ(教鳥)、コイオシエドリ(恋教鳥)などとも呼ばれています。