筑波山は「男体山」と「女体山」。日光は「男体山」と「女峰山」
https://www.wikiwand.com/ja/%E4%BA%8C%E8%8D%92%E5%B1%B1%E7%A5%9E%E7%A4%BE 【二荒山神社】 より』
二荒山神社(ふたあらやまじんじゃ、ふたらさん-)または二荒神社(ふたあらじんじゃ、ふたら-、にっこう-)は、「二荒」を社名とする神社。
概要
かつての下野国(現在の栃木県)の神である二荒神に関係する神社である。
二荒山神社・二荒神社は、二荒神を祀って建立された神社、または二荒山神社を勧請して建立された神社である。延喜式によると、下野国河内郡には名神大社二荒山神社が鎮座していた。また六国史によると836年(承和3年)に当時従五位上であった二荒神が正五位下を奉授(『続日本後紀』)しており、その後進階を重ね 869年(貞観11年)には正二位に達している(『日本三代実録』)。
「二荒」の語意
かつて、「二荒」の語は「ニコウ」と音読され、「日光」の地名のもととなったが、それ以前は、『延喜式神名帳』の九条家本では「二荒山神社」に「フタラノ」と読みがながあてられていることなどから、「フタアラ」または「フタラ」と読まれていた、とされる[1]。また、奈良時代に勝道が男体山に登頂して「日光山」を開くより前の男体山の呼び名について、山頂の遺跡から古墳時代の遺物も出土しており、勝道以前にも男体山が山岳信仰の対象であったことが認められること、信仰の対象である山の名称が様々に変わるとは考えにくいことなどから、「二荒山」であったとされる[1]。なお、もともとは「フタアラ」だったものが「ア」の脱落によって「フタラ」と読まれるようになった、と考えるのが自然であるとされる[1]。
上代において、「フタ」は名詞・動詞を修飾し、形容詞を修飾することはなく、また、「アラ」は独立して用いられることはなく、名詞を下接、あるいは、形容詞・動詞の語幹の一部となることが多いため、「フタアラヤマ」のもともとの構成は、「フタ・アラヤマ」(二つの荒い山)であると考えるのが自然であるとされる[1]。後に、「フタアラ」が連語であるように意識されて「フタアラの山」あるいは「フタアラの神」などと呼ばれるようになったが、「フタ」はあくまでも「アラヤマ」を修飾していたもので、つまり「二つ」を意味していたとされる[1]。この「二つ」とは、当時、筑波山の男体山・女体山のように、二つの並ぶ山を男女一対とみることが多かったことから、日光における男体山・女峰山のことを指しているとされる[1]。
なお、「アラヤマ」とは、「アラ」が神霊への畏怖の感情をも示すことから、「霊威の強い山」つまり「荒ぶる神霊の鎮まる山」と捉えるのが妥当とされる[1]。
『延喜式神名帳』には、名神大社として「下野国河内郡 二荒山神社」と記載があり、以下の2社が論社とされている。
二荒山神社(宇都宮二荒山神社) (ふたあらやまじんじゃ・ふたらやま-、栃木県宇都宮市馬場通り一丁目)
二荒山神社(日光二荒山神社) (ふたらさんじんじゃ、栃木県日光市山内ほか)
両社とも祭神が異なり名称の由来も異とされるため、全く別の神社とされる。しかしながら、日光社は下毛野氏の氏寺である下野薬師寺の修行僧・勝道上人を開祖とする一方、宇都宮社は宇都宮氏が座主となるまで座主は下毛野氏の姻戚者であったといわれており、両社とも下毛野氏にゆかりの深い神社である。
鎮座地に関して、明治政府が著わした『古事類苑』では、日光社のある日光市は旧下野国都賀郡であり、河内郡鎮座の名神大社は河内郡池辺郷の二荒山神社(宇都宮明神)であるとしている[2]。
社名に関しては、日光社は「二荒山」が男体山の古名であるとし、二荒の読みから「日光」の二文字が当てられるようになったとされている。しかしながら、平野に建つ宇都宮社には「二荒山」の観念が結びつかない[3]。
この論争を巡っては、明治4年に「二荒山神社 下野国」として国幣中社に列していた宇都宮社が、日光社が式内社とみなされたことで明治6年に県社に降格したという経緯がある。その後、明治16年(1883年)に宇都宮社も式内社論社として位置付けられ、あらためて国幣中社の社格に復帰した。
現在は両社とも式内名神大社・下野国一宮を称している。
https://www.shimotsuke.co.jp/articles/-/64156 【日光の三神 日光と宇都宮の関係を考える】吉野 薫 著 より
聖地をめぐる謎の数々
◎なぜ宇都宮と日光、2つの「二荒山神社」が存在するのか
◎なぜ男体山に、女峰山と太郎山の神までも祀られているのか
◎「日光」「二荒」「宇都宮」の名前の由来とは
巷間伝わる常識を疑え――
「延喜式神名帳」(927年)に記載の「河内郡二荒山神社」とは宇都宮、日光どちらのことなのか。男体山・女峰山・太郎山の山岳神がそれぞれ日光山内に勧請されたというのは本当なのか。二荒→日光になったのか。「下野国一の宮」が「宇都宮」になったのなら、なぜ他県に「宇都宮」がないのか。
気鋭の郷土史家が、史料を元にした確かな根拠と大胆な切り口でこれらの真実に迫る、新たなる日光研究書の誕生。
(目次より)
第一章
二つの二荒山神社/日光と宇都宮 二つの二荒山神社の成立/「二荒」の由来を考える/「二荒神」とは農耕神だ/「宇都宮」という名称の由来
第二章
日光滝尾の宗教的考察/山岳神では説明できない日光の神/山岳神を祀る理由が希薄な日光・山内の神社/日本のピラミッド/朝日を崇拝した滝尾古社殿/採鉱精錬の象徴である朝日姫/「二荒」から「日光」へ/「日光」の語源は滝尾の太陽信仰だ
第三章
日光山縁起の世界/日光山信仰体系と日光山縁起/「朝日長者」とは桜本坊だった/神が生まれた上野生岡/神々の戦いのあらすじ/有宇中将・男体権現の日光入山/宇都宮氏と紀氏(益子氏)/男体山に勧請された山内の三神/太郎明神と猿丸の宇都宮遷座/
第四章
朝日の里・小野の里を訪ねて/福島県いわき市入遠野/福島県南会津郡下郷町小野/新潟県東蒲原郡阿賀町実川/仙台市蕃山・磐司岩・山形県山寺