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菊紋

2020.09.09 02:07

http://www.harimaya.com/kamon/column/kiku.html  【菊 紋】 より

菊は牡丹のように艶やかな姿ではないが、その香りと姿には、品格があって清々しさを感じさせる。菊はキクと呼ばれるが、昔はククリ花とも呼ばれた。これは花の形が絞ってくくる 「しぼり染め」の文様に似ているからで、纐纈染をククリ染と呼ぶ言葉に残っている。

菊の花 菊はもともと日本在来のものではなく、中国渡来の植物で、仁徳天皇のころに伝わったという。はじめは薬用であったという。中国の南陽の甘谷には、菊が群生していて、その沢の水を飲むと百歳の長寿を保つという伝説があった。また、陰暦九月は菊月といわれ、九月九日の重陽の節句には菊祭りを行って幸せを願った。そして、平安時代から鎌倉時代にかけて衣服の文様に好んで用いられるようになり、 それが、やがて家の紋章としても用いられるようになったのである。

 菊紋は、皇室の紋章として知られる。皇室の紋は、古来「日月」であったが、菊紋が皇室の紋章として用いられるようになったのは、鎌倉初期の後鳥羽上皇がことのほか菊好きだったことによる。承久の乱の首謀者として知られる上皇は、菊の花を文様として車・調度、さらに衣装などに用いられた。先例を重んじる公家社会において後代の天皇方がもそれを踏襲されたことから、菊花も日月紋とともに皇室の紋章として認識されるようになった。 おそらく、鎌倉中期には定着したものと考えられている。

菊紋は種類も使用する家も多い。公家では広幡・水無瀬・七条・桜井氏らが用い、武家では足利尊氏が後醍醐天皇から恩賞として菊紋を下賜され用いるようになったといわれる。楠木正成も菊紋を下賜されたが、畏れ多いとして下半分を水に流した「菊水紋」にしたという。 楠木一族の和田氏なども菊水紋を用い、後裔にあたる徳川旗本の甲斐庄氏も菊水紋を用いている。

 『見聞諸家紋』を見ると、設楽氏が「三つ盛菊」、楠木・和田氏が「菊水」、逸見氏が「籬架(マセ)菊」、大芋氏が「二つ雁に菊水」、妹尾氏が「輪違いに菊」、宇津木・中村氏が「亀甲の内に菊」、若槻氏が「菊」、横越氏が「丸の内に合せ割菊」、大河戸氏が「並び菊」とかなりの武家が用いていることが知られる。 なかでも宇津木.中村氏の場合、後南朝から神璽を奉還したことで菊紋を賜ったことが記されている。 『応仁後記』には、三河の住人大河内正綱が三河・遠江の在地諸勢力をまとめて「菊一揆」を結成したことが書かれている。集団の合じるしが「十六弁の菊」であったことからそう呼ばれた。 大河内氏の家紋は「臥蝶(浮線蝶)」であったが、以後、中に菊を取り入れた。

■ 見聞諸家紋にみえる梶紋

三つ盛菊  丸の内に合せ割菊  輪違いの内に菊

 その他、菊紋を用いる武家は、足利将軍家の一族であった喜連川・吉良・最上の諸氏、戦国大名では、毛利・波多野・上杉氏らが知られる。徳川大名では、毛利・木下・伊達・牧野・京極・宗の諸氏が用い、さらに里見・荒川・篠原・松下・夏目などの旗本諸家も菊紋であった。夏目氏のものは「井桁に菊」と称され、屋敷の門にその紋がつけられていたことから、その界隈は菊井町と呼ばれるようになった。 また、譜代大名である青山氏は、菊と葉を組み合わせた「青山菊」と呼ばれるものを使用していた。

 このように菊紋は皇室から下賜された武家、将軍足利家より賜った武家などが用いており、徳川家康も後陽成天皇から 菊紋賜与の御沙汰があったが辞退している。家康にしてみれば、足利家をはじめ多くの武家が賜った菊紋に魅力も価値も 感じなかったということであろう。以後、菊紋の下賜は行われなくなった。江戸時代は徳川家の葵紋が絶対的な 権威をもち、菊紋は役者の紋や町家の商標などにまで濫用されるなど、まったく権威を失っていた。 菊紋の権威が復活するのは明治以降のことで、天皇権が絶対化していくとともに、皇室のシンボルとして菊紋も 絶大な権威をもつ紋章となった。 なかでも「十六菊」は皇室専用の紋章として、宮家はもとより皇室以外で用いることを禁じられるにいたった。 そして、そのルールは終戦まで固く守られたのである。

菊紋 菊花は皇室ゆかりの神社で神紋に用いられている。たとえば、神武天皇が東征の軍を発した故地とされる高千穂神社も「菊花紋」である。また、同神社から遠くないところに鎮座する天岩戸神社は、古事記などに記されている天照大神の神話の地であり「菊花紋」が神社の境内のいたるところに据えられている。 一方、菊紋を寺の紋に用いる寺院も多いが、これも皇室との関係から用いるようになったものだ。

 ところで、明治維新の功臣である西郷隆盛も菊花紋を賜った。それは明治天皇自らが考案されたもので、「抱き菊の葉に菊」紋であり、天皇を左右から補佐せよといものであった。隆盛は恐懼して退下し、 家人を集め、そのいわくを話し「この紋は、一代のもの」と戒めたという。だから、子孫の家には伝わっていない。


https://ameblo.jp/donarikojiki/entry-12506949820.html 【下野國一宮の社紋】  より

五月晴れのある日、出張で宇都宮へ。仕事場への途中、いつも見上げるのが二荒山神社です。同行の方が行ったことがないとおっしゃるので、寄り道してご案内すると・・・

お宮参りのご家族がおられました。おめでとうございます!

社殿はさすが一之宮の貫禄。ここに注目の 大物主 が祀られているのです。

宇都宮二荒山神社 (うつのみやふたあらやまじんじゃ、-ふたらやまじんじゃ)

栃木県宇都宮市にある神社。

式内社 (名神大社) 論社、下野国一宮。

旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。

神紋は 「三つ巴 (菊に三つ巴)」。

正式名称は二荒山神社であるが、日光の二荒山神社(ふたらさんじんじゃ)との区別のために鎮座地名を冠して「宇都宮二荒山神社」と呼ばれる。古くは宇都宮大明神などとも呼ばれた。現在は通称として「二荒さん」とも呼ばれる。

宇都宮市の中心部、明神山(臼ヶ峰、標高約135m) 山頂に鎮座する。

東国を鎮めたとする豊城入彦命を祭神として古くより崇敬され、宇都宮は当社の門前町として発展してきた。また、社家から武家となった宇都宮氏が知られる。社殿は創建以来何度も火災に遭っており、現在の社殿は戊辰戦争による焼失後の明治10年(1877年)の再建。

文化財として、国認定の重要美術品である三十八間星兜、鉄製狛犬などを有している。

祭神

主祭神 豊城入彦命 (とよきいりひこのみこと)

第10代 崇神天皇の第一皇子で、天皇の命で東国を鎮めたとされる。毛野国(のちの下野国・上野国)の開祖とされる。

相殿 大物主命 - 崇神天皇が都とした磯城瑞籬宮 (奈良県桜井市金屋) の北に鎮座する、三輪山(大神神社) の神

事代主命 - 大物主命の子

主祭神については、時代によって彦狭嶋王、御諸別王(彦狭嶋王の子)、事代主命、健御名方命、日光三所神など諸説ある。

江戸期には日光山大明神と称されたこともあり、天保14(1843)年には 大己貴命、事代主命、健御名方命 が祭神であった。

歴史

社伝では、仁徳天皇41年に毛野国が下野国と上野国に分けられた際、下野国国造に任じられた奈良別王(ならわけのきみ)が曽祖父・豊城入彦命をこの地域の氏神として祀ったのに始まると伝える。ただし、それ以前に 豊城入彦命 によって 三輪山 から勧請された大物主命が祀られていたとも伝えられている。

地元では、当社に参拝すれば下野国にある全ての神社の御利益を受けられるとされ、人々の信仰を集めた。

当初の鎮座地は現在地から大通りを隔てた南側にある荒尾崎 (現 摂社下之宮が鎮座) であったが、承和5(838)年に現在地の臼ヶ峰(明神山) に遷座した。

「二荒山神社」 を名乗る神社は関東地方を中心に数多くあるが、中でも当社と日光の二荒山神社の2社が古社として知られている。平安時代中期の 『延喜式神名帳』 には名神大社として 「下野国河内郡 二荒山神社」 の記載があるが、その帰属を巡って日光社との間で議論がある (「二荒山神社」を参照)。

その後神階は正一位まで進み、下野国一宮となったとされる (ただし日光社も一宮を称する)。

豊城入彦命は武徳にも優れ、藤原秀郷、源 頼義、源 義家、源 頼朝、徳川家康など著名な武将らも戦勝祈願し、種々の寄進や社殿の改築をしたと伝えられている。平 将門の乱にあっては、藤原秀郷 がこの神社で授かった 霊剣をもって将門を討ったと 言われる。

また 『平家物語』 によると、屋島の戦いにあって那須与一 は平家船上の扇の的を射る際に 「日光権現、宇都宮、那須の温泉大明神」 と祈ったという。

また、宇都宮氏の初代当主であり、宇都宮城を築いたとされる摂関家藤原北家 道兼流 藤原宗円が、当社の宮司を務めたという説もある。宇都宮氏 は、藤原宗円が、この地の豪族で当時の当社の座主であった下毛野氏ないし中原氏と姻戚関係となり土着したのが始まりであり、当時の毛野川 (当時の鬼怒川) 流域一帯を支配し、平安時代末期から約500年間に亘り関東地方の治安維持に寄与した名家である。庶流に常陸国守護 小田氏や武茂氏がおり、また毛野川東岸および小貝川流域一帯を支配した 紀清両党 とも姻戚関係にあった。

「宇都宮」 という地名は当社に由来するものとされる。ただし、一宮 (いちのみや) の訛りという説、遷座したことから 「移しの宮」 の転という説、「二荒山の神の現宮 (うつつのみや)」という説、豊城入彦命が東国の総監として此処に住し国がよく治まったことから 「宇津くしき宮」 と呼ばれそれが「うつのみや」 に転じたという説など諸説ある。

明応9(1498)年に17代当主 宇都宮成綱 によって建て替えられる。

→ Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E9%83%BD%E5%AE%AE%E4%BA%8C%E8%8D%92%E5%B1%B1%E7%A5%9E%E7%A4%BE

社紋が興味深い、菊花紋と三つ巴の合体!

菊花紋は鎌倉初期の後鳥羽院から始まる新しいもの。

本来は三つ巴が社紋で、御祭神も 大己貴命、事代主命、健御名方命 親子かその一族だったはず。

この地域がヤマト政権下に入った時に、夢判断で垂仁天皇に敗れて東国を治めるように命じられたという 豊城入彦命 を祀るようになり、菊花紋はさらに後、もしかすると再建時の明治10年に加えられたのではないでしょうか。

その痕跡として、社殿奥の宝物庫には菊なし三つ巴の紋がガッシリ。

おもしろいのが、まるで社殿を守るかのようにスサノオが名を変えて3社で祀られていること。

→ 宇都宮二荒山神社 公式サイト http://www.futaarayamakaikan.jp/about/#about4

主祭神の豊城入彦命が、道を挟んだ下之宮という境外摂社に置いてけぼりになっているのも、奇妙ですね。

元々の社地はこっちだったというのですが・・・。

社殿横に、小さなお社。

やけに艶っぽい名前・・・

三穂津姫 (みほつひめ)

日本神話に登場する神である。高皇産霊尊の娘 で、大物主神 あるいは 大国主神 の后 。

『日本書紀』 の葦原中国平定の場面の第二の一書にのみ登場する。

大己貴神 (大国主) が国譲りを決め、幽界に隠れた後、高皇産霊尊が大物主神 (大国主の奇魂・和魂) に対し 「もしお前が国津神を妻とするなら、まだお前は心を許していないのだろう。私の娘の三穂津姫を妻とし、八十万神を率いて永遠に皇孫のためにお護りせよ」 と詔した。

ー以下、略ー

→ Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E7%A9%82%E6%B4%A5%E5%A7%AB

天孫族への忠誠の証しとして妻になったとされる、姫。

史実なら、人質だったのかもしれないと、ふと思いました。

安産の神様とされていますが、お子様の伝承は見当たりません。

が、阿波説からすると気になる記述が島根の美穂神社に:

三穂津姫命

五穀豊穣・夫婦和合・安産・子孫繁栄・歌舞音曲(音楽)

高天原の高皇産霊命の御姫神で、大国主神の御后神。 高天原から稲穂を持ってお降りになり、人々に食糧として配り広められた神様 で 「五穀豊穣、夫婦和合、安産、子孫繁栄、歌舞音曲(音楽)」 の守護神として篤く信仰されています。

→ 美穂神社 公式サイト http://mihojinja.or.jp/yuisho/

オオゲツヒメを思い出しますね~。

なんといっても忌部が拓いたという、毛野國。

天太玉命を祀る 粟宮こと「安房神社」(小山市)は30km ほど南です。

同行の方が、「ふたらさんって日光だと思っていた」とおっしゃる、日光二荒山神社について。

日光二荒山神社(にっこうふたらさんじんじゃ)

栃木県日光市にある神社。

式内社(名神大社)論社、下野国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。

正式名称は 「二荒山神社」 であるが、宇都宮市の二荒山神社(宇都宮二荒山神社)との区別のために地名を付して「日光二荒山神社」と称される。古くは「日光三社権現」と称された。

ここで祀られる 二荒山大神 というのが、大己貴命、田心姫命、味耜高彦根命 の三柱。

またの名を 迦毛大御神 (かものおおみかみ) であるオオクニヌシの子・アジシキタカヒコネ が登場します。

上賀茂神社のご祭神・賀茂別雷命と同一視される、あの方…。

この方の素性はのらねこ先輩が結論を出しておられますので、ぜひそちらを読み合わせてください:

→ 鳥の一族 7 丹塗矢伝説 https://blogs.yahoo.co.jp/noranekoblues/52947100.html

改めて、阿波説を知らなければまったく解けないのが日本の神々の系譜だと痛感します。

そして、その3日後。

大阪でそばを食べたいという知人を案内して 瓢亭 夕霧そば を食べるまえにごあいさつに寄ったのが、お初天神。

その社紋が・・・

何度も来ていたのに、初めて腑に落ちました。

回転方向は二荒山神社とは逆ですが。

お初天神で知られていますが、本当の社名を知る人は少ないでしょう。

露天神社(つゆのてんじんしゃ) 大阪府大阪市北区曽根崎二丁目にある神社。

通称:お初天神。概ね摂津国西成郡曾根崎村(キタの西半)を氏地とする。

祭神は 大己貴大神、少彦名大神、天照皇大神、豊受姫大神、菅原道真 の五柱の神を祀る。

社伝によれば、この地はかつて曾根崎洲という大阪湾に浮ぶ孤島で、そこに 「住吉住地曾根神」 と祀っていたとされる。

創建は西暦700年頃とされ、「難波八十島祭」 旧跡の一社とされている。

天照皇大神を祭神として祀ることから、かつては難波神明社とも呼ばれ、日本七神明 (東京芝神明宮、京都松原神明宮、京都東山神明宮、大阪難波神明宮、加賀金沢神明宮、信濃安曇神明宮、出羽湯殿山神明宮) の一つにも挙げられた。

社名は、「梅雨のころに神社の前の井戸から水がわき出たため」 ともいうもののほか、菅原道真が太宰府へ左遷される途中、ここで都を偲んで

 露とちる 涙に袖は朽ちにけり 都のことを思い出づれば

との一首を詠んで涙を流したからとも伝えられている。

近松門左衛門のいたころの天神の境内は560余坪の広さがあり、木が鬱蒼と茂っていた。近松は当時、天神を 「影暗く風しんしんたる曽根崎の森」、「天神の森」 と書き記している。

太平洋戦争による戦火と、その後の社殿復興のための境内の切り売りが行われた結果、現在の広さとなったものである。

お初天神イメージ 11

元禄16(1703)年に堂島新地天満屋の遊女 「お初」 と内本町平野屋の手代 「徳兵衛」 が 「天神の森(現在の社の裏手)」 にて心中を遂げた。

一月後 近松門左衛門 はこの二人の悲恋を人形浄瑠璃 『曽根崎心中』 として発表したところ、当時の大きな話題となった。事件の神社は一躍有名となり、そのヒロインである 「お初」 の名前から以後今日に至るまで 「お初天神」 と通称されている。

曽根崎心中の中では 「三十三に御身を変へ、色で導き情けで教へ、恋を菩提の橋となし、渡して観世音、誓ひは妙に有難し」 とお妙の名と観音信仰 (明治以前は神仏習合が常態であった) をかけている。

なお 「お初」 は天満屋での呼び名であり、墓所(慰霊碑)に記された久成寺 (大阪市中央区中寺) での戒名は妙力信女であることから 「お妙」 などが推測される。

2004(平成16)年には境内に「お初・徳兵衛」のブロンズ像が建立された。

近年になっても三谷幸喜さんがパロディーで 「其礼成心中(それなりしんじゅう)」なんていう傑作文楽にするほどの、浄瑠璃の名作。

事件後一カ月で作品として発表したとはまた、すごいスピードですね。

気になるのが、この神社の御祭神たち。

おそらく多くの神社から合祀されて にぎやかなことですが・・・

境内末社

金刀比羅宮・水天宮 (祭神:天乃御中主大神、安徳天皇、大物主大神、崇徳天皇、住吉大神、他二柱)

開運稲荷社 (祭神:玉津大神、天信大神、融通大神、磯島大神)

難波神明社 (祭神:天照皇大神・豊受姫大神) 大阪三神明の夕日神明社

→ 露天神社 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%B2%E5%A4%A9%E7%A5%9E%E7%A4%BE

いわゆる御霊信仰の神社でしょうね。

心中ものが似合う、一因です。

天神さんになる前は、金比羅宮だったかもしれませんね。

歩いて行ける天満も京都・北野も、天神さんとくれば社紋は梅ですから。

イメージ 13

末社というか、ショーケースというか、鳥居をくぐってすぐ、ややご不興の様子で酔っ払いたちをにらんでおられるのが、猿田彦神としての金比羅宮の大物主。

イメージ 10

この曽根崎地域の発展のために、大物主のお祀り方を見直されるべきではないかな。

ともあれ、こんな繁華街のど真ん中の神社が宇都宮とつながるとは思いませんでした。

海はひとつ、なんですね。

ぐーたら先輩の調査は進んでいます。

→ ぐーたら気延日記(重箱の隅) 倭の神坐す地(5)

http://goutara.blogspot.jp/2018/05/blog-post_23.html

詳しくは読んでいただくとして、なんといっても押さえておかなくてはならないのは、大国主は個人名ではなく、“肩書” “敬称” であるということ。

スサノオが言い放つ、古事記の有名な一節を引いておられます。

黄泉比良坂に追い至り、遥か遠くに夫妻を望み見て 大穴牟遅神 に曰く。

「汝の持っている生太刀、生弓矢をもって腹違いの兄弟を坂の尾根に追い伏せ、河の瀬に追い払って、貴様は大国主神となれ。」

大国主は「為るもの」 なのです。

「大国主」 はいわゆる役職名であり、「国を司るトップ」 のことを示しているのです。

また、それは一人ではないこと。

「大国主」 と 「倭大国魂」 はきちんと検証すれば、歴代一致 するはずなのです。

もっと言えば 「大物主」 も一致するはずなのです。

例えば、讃岐の金毘羅宮 に祀られている 「大物主」 は 「航海の神」 であるので多分四代目であろうとか。


http://tabinosora1220.blog.fc2.com/blog-entry-49.html  【宇都宮二荒山神社】より