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富士の高嶺から見渡せば

南シナ海「九段線」に法的根拠はない⑩

2016.07.10 15:28

これまで縷々述べてきたように、「シナ世界」(19世紀末以前には「中国」という国名・地名は存在せず、こう呼ぶしかない)の人々は、「南シナ海」にもっとも遅れてやってきた人々であり、とりわけスプラトリー諸島に関していえば、1988年になってようやく、足がかりを何とか確保できたに過ぎず、まったくの新参者だった。南シナ海を古くから支配し、交易や漁業の経済活動を営んできたのは、たとえば古代であれば「南の島の住民」ヌサンタオの人々であり、明や清の時代であれば、「倭寇」(倭人だけでなくシナ沿岸の民も含まれた)と呼ばれた海賊たちであり、大航海時代以降は、スペインやポルトガル、のちにはオランダや英国の船も加わり、東西貿易を担った人たちだった。さらには日本が近代化を達成しアジアの盟主となった20世紀前半には、南シナ海全域を支配し、実質的に日本の「内海」とした時代もあった。

つまりは、何度も繰り返すが、「南シナ海は古来より中国の領土・領海であった」などという歴史的事実や確固たる証拠はどこにもなく、むしろそうした主張を否定し、それと相反する事実を記録した彼ら自身の漢籍・古文書、それに西洋人が残した海図や航海記録の類のほうが数多(あまた)残されているというのが実態なのである。

「九段線」や「U字型ライン」が、彼らの主張する「領土・領海」の境界を示すというのであれば、その拠って来る根拠を示せばいいのに、九段線が何を意味するものなのか、ASEANの関係国や国際社会が説明を求めても、納得できる説明や根拠を示したことはかつて一度もなかった。いや、説明したくても初めから根拠などなかったから説明できないのである。

南シナ海の地図上にこの線を引いたのは、中国(中華人民共和国)ではないからである。台湾の銘傳大学の兪劍鴻(Peter Kien-Hong Yu)教授の研究によれば、U字型ラインは当初1914年に非公式に中華民国の地図に描かれ、1947年12月に中華民国の公式地図に歴史的水域(historic waters)の範囲を示すために描かれたのがその始まりだという。そして、兪教授は、地図の作者がそれを描いた時点で、国際法や海洋法の完全な知識があったかどうかは不明だとしている(Peter Kien-Hong Yu, “Chinese (Broken) U-shaped Line” )。つまり、U字型ラインを最初に思いついた人物は、深く考えもせずに遊び気分か、ハッタリで線引きしたに過ぎないのかもしれない。しかし、中国が仮にこの九段線やU字ラインを引っ込めようと思っても、全人代での承認手続きが必要となり、今となっては不可能だといわれる。

<南シナ海問題をめぐる会議外交の経緯>

南シナ海を囲む関係当事国をはじめ、ASEAN諸国、シーレーンを共有する日米豪などインド太平洋諸国は、二国間会議や国際会議の場で、そのつど中国側に説明を求め、中国側の行動やその意図に懸念を表明してきた。

以下は、佐藤孝一氏の論考『中国と「辺疆」:海洋国境― 南シナ海の地図上のU 字線をめぐる問題』(北海道大学スラブ研究センター『境界研究』No.1,2010年)を参考に、ASEANを中心にした会議外交の経過を振り返ってみたい。

1988年3月、中国はジョンソン礁(赤瓜礁)を死守していたベトナム兵に対して砲撃を加え、約80名を死傷させ、実質的なスプラトリー諸島の占拠に乗り出した。この事件は、それまでスプラトリー諸島に手を出したことがなかった中国海軍が、南進の意図をはっきり示した事件であり、また冷戦の終焉で米軍のフィリピンからの撤退が取沙汰され始めた時期と重なり、ASEAN諸国に大きな懸念を呼び起すこととなった。ASEAN側は、外交的手段を通じて平和的解決の道を探るべく、「南シナ海紛争ワークショップ」を1990年1月に開催した。非公式な会議外交の始まりで、これ以後、毎年開催されることになり、紛争当事者とASEAN諸国の官僚・学者・軍人が個人の資格で参加し、中国・台湾も1991年から参加している。

1993年8月の南シナ海紛争ワークショップでは、中国側が提示した地図に例のU字型ラインが描かれていたため、議論になった。中国側は、歴史的権益(historic claims)にこだわっていると説明したが、「それが島を指すのか、海底を指すのか、水域を指すのか、筋の通った回答はなかった」とされる。

中国側の言う歴史的権益が、(海洋法上の)歴史的水域を意味するものだとすると、海洋法の常識(慣行)に照らして異様な解釈になる。つまり海洋法でいう歴史的水域とは、「内海のように地理的に特殊な状況にある水域で、沿岸国が長年にわたる慣習でこれを領域として扱い、有効に管轄権を行使し(つまり継続的かつ歴史的な慣行事実があること)、これに対して諸外国も一般に異議を唱えていない(非抗争性)場合」に、(外国船舶の無害通航を認めない)内水としての地位が与えられるもので、日本の瀬戸内海がその典型だからだ。(山本草二『海洋法』三省堂1992年など参考)

南シナ海の場合、1988年になってようやくスプラトリー諸島に進出した中国が、この海域で継続的、歴史的に有効に管轄権を行使してきたという事実もないし、諸外国が異議を唱えていないという事実もない。中国側の主張には論理的な整合性はなく、海洋法の常識からも外れていることは、こうした国際会議の場で次々に明らかにされ、中国側への疑念は深まるばかりだった。

1994年からアジア太平洋地域の政治安全保障問題を協議するASEAN地域フォーラム(ARF)が開催されるのにあわせ、南シナ海紛争の協議を政府間対話(外相レベル)に格上げする提案があったが、中国は日米などの紛争当事者以外の国も参加する公式の会議の場で南シナ海紛争を討議され、国際問題化することを嫌った。このため1994年7月の第1回ARFに出席した銭其琛外相は、中国とASEANのみで「様々な問題」を討議する高級事務レベル会合を逆に提案した。しかし、1995年2月、中国海軍がベトナム・フィリピンと主権を争っているスプラトリー諸島のミスチーフ礁を新たに占拠し、珊瑚環礁の一部に建造物を構築したことが明らかになると(第1次ミスチーフ礁(美済礁)事件)、状況は一変してしまう。

ASEAN の外相たちは、その直後の3月、シンガポールで会合を開き、南シナ海での中国軍の動きに重大な懸念を表明し、92年のマニラでの「南シナ海宣言」に誠実であることを求める「南シナ海の最近の情勢に関する外相声明」を発表し、ミスチーフ礁での問題の早期解決を訴えた。フィリピン政府関係者によると、中国外交部はフィリピン側から中国海軍のミスチーフ礁占拠について抗議されるまで、自国海軍の行動を知らなかったとされる。フィリピン政府は交渉相手としての中国外交部をどこまで信じてよいのか分からなくなったという。

中国人民解放軍は1995年7月以降、翌年3月まで、台湾海峡で3度のミサイル発射訓練を実施し、台湾を威嚇して李登輝総統の総統選挙当選を阻もうとした。南シナ海でも中国人民解放軍が同じような威嚇行為を行うのではないかというASEAN側の懸念に対し、1996年3月ブルネイを訪問した唐家璇外交部副部長は、中台間の緊張と南シナ海での領有権紛争は別問題で「スプラトリー諸島は多国間問題だが、台湾は国内問題だ」と釈明して、懸念の払拭に努めた。また1996年、台湾沖でのミサイル発射訓練のあと、日米両国が日米安保ガイドラインの見直しを行ったことに対し、中国はこれを台湾問題への介入と理解した。日米との関係が悪化するなかで、中国は国際社会での孤立を避けるため、逆にASEAN側には融和的になっていく。

1996年5月、中国政府は国連海洋法条約に批准したのに合わせ、領海基線に関する声明を公表、パラセル諸島の周辺に200海里排他的経済水域を設定し、将来はスプラトリー諸島の周辺水域にこれを追加するであろうと述べた(『人民日報』1996年5月16日)。このため、ASEAN側、特に中国とナトゥナ諸島の問題を抱えるインドネシアでは「中国脅威論」がかきたてられることとなった。(続く)