Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

13th hour garden

ふたたびの千代田 (一)

2016.07.11 07:51

「・・・本当にごめんなさいね。雪也さんも、私も、どうしても明日は都合がつかなくて」

貴子姫は、受話器の向こうで心から申し訳なさそうに言った。

「いや、いいよ、そんな気にしなくても。どうせ、来週には学校で顔を合わせるんだし」

半年近く暮らした香落渓を引き払って東京へ向かう前日、狭霧のところに貴子姫から電話があった。東京駅まで出迎えに行くつもりが、急に都合が悪くなったということだった。

狭霧が赤目の瀧上高校から、再び千代田の三葉学園に戻る決心をしたのは、ひと月ほど前の3月のことだった。戻ると決めたのはいいが、甲賀の里の長老達の許可がなかなか下りず、長柄を何度も里へ使いにやり、最終的に狭霧自身が里へ出向き、様々な条件を呑まされた末にやっと千代田へ戻ることを許されたときには、春休みもほぼ終わりかけていた。里との交渉と並行しながら、東京での仮住まいを探し、小鉄が見つけた、三葉学園からも、坂口の家からも程よい距離のアパートに引っ越すことに決めて、入居契約を終えたのが約1週間前。既に新学期は始まっていた。

「学校でなんて水臭いことを言わないで。土曜日には引っ越しのお祝いに雪也さんと一緒にお訪ねするわ。・・・矢島さんと篠北さんが一緒に行けないのは残念だけれど」

「矢島と篠北か。また、何か厄介事に巻き込まれているんだって?」

矢島と篠北は、新学期早々、新たな依頼のため関東でもかなり辺鄙な場所にある学校へ転校していったという話だった。

「ええ、そうなの。詳しいことは、土曜日にお会いしたときにでもお話するわ。・・・また、お力をお借りすることもあるかもしれないし」

そう言いながらも、貴子姫の口調はそれほど深刻なものではなかった。少なくとも、葵や白虎拳の連中を相手にしていたときのような、張り詰めたような緊張感はなかった。

そうだな、と狭霧は応じ、ふと気になって、

「そういや、雪也は?今、そこにいるのか?」

「いいえ。今日は、各雲斎くんと何か話があるらしくて、早々に帰宅したわ。各雲斎くんは、明日、お引越しのお手伝いに行くのでしょう?」

「いや。ヤツからは、ここ1週間ほど連絡はないけど」

「え、そうなの?おかしいわね、今日、明日欠席すると学校側に断っていたと思ったけれど」

貴子姫は訝しそうに言った。

正直なところ、狭霧もその点に関しては少し気になっていた。三葉へ戻ると小鉄に告げてから、里との交渉から東京での借り住まい探しまで、かなりの部分小鉄の助けを借りていた。特に、長老への説得にあたっては、小鉄が色々動いていたことを、狭霧は当の長老自身の言葉から察していた。もっとも、小鉄は己のそうした行動を一言も狭霧に知らせてはいなかったが。

そして、いよいよ引っ越しまでカウントダウンという段階になったら、今度は小鉄から全く音沙汰がなくなったのだ。

小鉄は一体、何を考えているのか・・・

「剣望くん?どうかなさったの?」

急に黙り込んだ狭霧に、貴子姫が不思議そうに聞いた。我に返った狭霧は慌てて何でもないと答えた。

その後、三葉への復帰に必要な手続きを確認して、貴子姫との電話を終えた狭霧だったが、小鉄の件は心に引っかかったままだった。

― そうだ、それに、そもそも俺はなんだって三葉に戻ることを決めたんだろう?決めたのは、そう、あの夜の後で・・・

3月のあの日、皆からやたら電話が掛かってきたその夜に、白木蓮の花が満開の庭に小鉄は現れた。連絡もなく突然訪ねてきた割に大したことを話すでもなく、すぐに帰っていった。その後、何度か小鉄とは電話で連絡を取っているが、小鉄があのときのことを言い出すことはなく、狭霧も何となく口にしそびれていた。

けれど、あの日を境に、三葉に戻ることは狭霧にとってごく自然な成り行きになっていた。あの夜にあった電話には貴子姫からのものもあって、三葉の在籍名簿に自分の名前が残されていることを知らされたのだが、そのせいだったのだろうか。そのような気もするし、少し違うような気もする。

「狭霧さま、部屋の掃除はあらかた終わりましたが・・・」

そう言いながら、長柄が狭霧のいる居間に顔を出した。狭霧は考え事を中断し、

「ああ、ご苦労さん。さてと、後は今日の晩メシをどうするかだな」

台所道具を含めて、荷物は既に東京に送ってあった。残してあるのは、着替えや洗面道具といった身の回りのものだけだった。

「ご夕飯のことでしたら・・・」

長柄が返事をしかけたところ、再び電話が鳴った。今度は長柄が受話器を取り、自分宛てだったのかそのまま会話を続けた。

「・・・あ、はい。ええ、勿論そのつもりですが・・・え?明日?ですが、しかし・・・はい、分かりました。そのようにいたします。はい、では明日」

受話器を置いたあと戸惑った表情をして考え込んでいる長柄に狭霧が聞いた。

「甲賀の里からか?」

「はい・・・実は、長老殿から、明日、里へ来るように申しつかりました」

「明日?何だってそんな急に・・・長老がお前に何の用だって?」

「さあ、それが、電話では話せないと仰られるばかりで。・・・狭霧さま、申し訳ありませんが、明日は先に東京へ行っていただけますか?私は甲賀へ寄りまして、長老殿の用事が済み次第、すぐに追ってまいりますので」

「ああ、それは構わないけど・・・」

そう返事をしながら、狭霧は釈然としない思いだった。

第一、護衛を兼ねた世話係として長柄を東京へ伴うのは、長老が狭霧に提示した条件の一つだからだ。それが、引っ越しの当日に長柄を甲賀へ呼びつけるとは、長老はどういうつもりなんだろう?

小鉄といい、長老といい、何だかすっきりしないものを狭霧は感じたが、かといってわざわざ電話して問いただすほどのことでもない気もした。

長老の件は長柄が東京へ来たら分かることだし、小鉄にしろ、どのみち向こうへ行けば否応なく会うわけだからな。そう自分を納得させると、狭霧はそれ以上この件について考えることをやめた。



翌日の東京駅。ボストンバック一つを手に、新幹線のホームに降り立った狭霧は、人込みを避けながら東京駅に接続する地下鉄の一つを目指した。自分のアパートへは真っ直ぐ向かわず、最初に坂口を訪ねるつもりだった。

坂口とそこで住み込みで働いている一乃介へは、今日が引っ越しの日だと知らせていなかった。まず、二人のところへ顔を出しておこうと思ったのだ。

地下鉄の駅を降り、坂口モーターズの近くまで来ると、作業所で働く二人の姿が見えた。

「お、何だ、三太。ひょっとして、今日が引っ越しだったんか」

坂口が先に気付いて顔を上げ、狭霧が手にしたバッグに眼をやりつつ言った。

「うん、今東京駅から来たとこ。真っ先に、おっさんとこに顔出しとこうと思って」

二人の声を聞いた一乃介が潜り込んで修理していた自動車の下から現れた。立ち上がり、服についた土埃を払いつつ狭霧に言った。

「よく来たな、三太。言ってくれれば、引っ越しの手伝いに行ったのに」

一乃介の言葉に狭霧は慌てて手を振った。

「いいよ、二人とも仕事があるんだし。第一、そう大した荷物もないしね」

坂口も、首に掛けたタオルで汗を拭きつつ、

「立ち話もなんだ。上がって茶でも飲んでけ。おい、一、ちょっと休憩するぞ。」

と言って、さっさと家の中に入っていった。

「わかったよ、おやっさん。三太。先におやっさんと一緒に行っててくれ。俺もすぐ行くから」

「構わないでよ、一乃介さん。お客じゃないんだし」

遠慮する狭霧に、一乃介は片目を瞑ってみせると、

「おやっさんも、俺も、そろそろ休みが欲しかったんだ。ま、ちょっと付き合ってやってくれ」

そう言って破顔した。