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人生エラー

世界五分前仮説と五分後の世界への仮定

2020.09.10 05:35

n回目になる希死念慮語りに繋がりそうな話だ。

死にたがりかつ死に損ないの人間の生態観察とでも思ってほしい。


そもそも、世界五分前仮説とは。

インターネット上のこんな僻地にある駄文ブログを読んでいるほどの住民ならおそらくご存知だろう。

哲学の懐疑主義における、「この世界は過去の記憶など全て含めて五分前に想像されたものである」という仮説のことだ。

私は、この仮説をたまに残酷だなぁと思う。

恐ろしいな、とも。


そもそも懐疑主義とは、前提や当然を疑い深く掘り下げて考えるというものだと捉えている。(不安なので後で調べ直す。)

私の認識の正否はともかく、前提を疑うとはつまり名前のないものを疑うことと近似であろう。

認識と存在はえてして結び付きの強いものだ。

しかし、「懐疑」によって根幹の認識を一度覆す。「ないもの」とする。この時点で既に存在は否定されたようなものだ。

そうなると、私たちはどうしても名前のないものを深くまで考えるという事態に晒される。

名前のないもの。つけられないもの。例えば概念。

触れられない。音も立てない。見た目もない。何も言葉に起こすための情報がない。


名付けとは即ち認識、アイデンティファイである。

自分の持つ言葉で、対象を手の届くものとして枠にはめ、それと認識する作業。

それが出来ないような「なにか」に、私たちはたった五分で全てを作られた。

この仮説はどうやっても否定ができないのがネックとなる。

つまり、確固たる未知。

だから怖い。

ひととは、基本的に未知を排除したがる生き物だ。

未知を研究し、既知にする。

未知であるから、迫害して認識の及ばないところへ追いやる。

それは、人間の辿ってきた歴史だ。

しかしこの仮説はそれすらただ記憶や記録として作られたばかりのものだと言う。

その残酷さたるや。

つまりは、戦争や犯罪、虐待やいじめなどの「嘆かれるもの」すら、被害者であった、もしくはある記憶、事実さえ、作り出されたもの。

きっとそれが事実なら、「なんで私なの」と思わざるを得ないだろう。

誰が、何のために、どうして、どうやって。そんな疑問も全て作られたもの。

己の不幸は、作られたもの。何かしらの作為の有無は関係なく。


つまり、天は人の上にも人の下にも人を作った。

知性とは何よりも平等に分配されるものではなかった。

そして、このことを仮説として看破(?)している事実すら作為。

プログラムされたメタ発言は、果たして私たち自身の意思と言えるだろうか。

しかし私たちはそれを証明できない。

第三者が外部にいることを。


では、世界が五分後になくなるという仮定の話はどうだろう。仮想としてもいい。

これはあからさまに「ない」ことだとわかる。証明だってできる。

だって、私達の命がいかに短かろうと、五分くらいなら待てるから。

そして、これを論じる際は自分の持つ既知を組み合わせるだけでいいから。

「全てなくなってしまえば」が叶う。

そして、過去なんて全てフラットになる。今も、未来も。


どうだろうか。


この仮定は、先述の仮説よりも随分優しく、易しいと思えないだろうか。

「不平等」という認識だった世界が全て平等に置き換わる瞬間の話なのだから。

既知を未知として疑うのではなく、既知の組み合わせで「未知」という前提・名目の既知を作るだけなのだから。

こちらの方が幾分か手が届くだろう。



懐疑主義だか認識論だかわからない話をしてしまった。

もはやまとまりの無さはお家芸の域である。

「ブログにしてほしい」と言ってくれたフォロワー、これで良かっただろうか。

感想とかがあればぜひ教えてほしい。喜ぶので。