岩倉の 狂女恋せよ ほととぎす - 蕪村の句と座敷童 -
http://nozawanote.g1.xrea.com/03episode/episode81.html 【エピソード 『岩倉の 狂女恋せよ ほととぎす - 蕪村の句と座敷童 -』】 より
岩倉の 狂女恋せよ ほととぎす
与謝蕪村の句である。受験日本史では、蕪村のキーワードは「絵画的な句」と「十便十宜図」に代表される文人画である。授業では生徒に「絵画的」というイメージを持たせるために
菜の花や月は東に日は西に
春の海終日(ひねもす)のたりのたり哉
を用いて説明してきた。しかしここでは少し離れて、この「岩倉の 狂女恋せよ ほととぎす」という句を考えてみたい。
岩倉とは京都市左京区の北部、鞍馬や貴船の南に位置している。ほととぎすと言えばすぐに思い浮かぶのは、正岡子規が結核で喀血した自分と、「鳴いて血を吐くホトトギス」とを重ね合わせて、自らの号を子規(ほととぎす)にしたという話である。
血を吐くまで鳴くと言われたホトトギスの声と、恋に身を焦がす女性の思いを重ね合わせた幻想的な句だが、ではなぜ場所が岩倉なのか。そして狂女なのか。そこには平安時代からの伝承がある。
後三条天皇の皇女佳子が、精神障害をおった。「髪乱し、衣裂き、帳に隠れてもの言わず」という状態であったのを、霊告によって大雲寺に籠もらせた。そして「岩倉の滝」にう たれ、「閼伽井の水」(あかいの水)を飲んだことで平癒したというものである。
それが噂になって、奇跡を願い岩倉詣でをする貴族が増えたという。知的障害を持つ子女の場合もあったであろう。しかし、すぐに効果が現れるものではない。付近の民家を借りて長期滞在させていたのが、見きれなくなり、やがて養子縁組して、一生を預けたこともあったという。縁組した庶民にとっては、支配者身分による保護がメリットであった。
これが次第に有名になっていき、江戸時代には四軒以上の「茶屋」(障害者とその家族のために寝床と食事を提供する宿泊施設) があったことが確認されている。地域も受け入れて、明治初期にはその収容能力の限界を超えるほどの患者を抱えることになった。岩倉はヨーロッパでも「日本のゲール」(ゲールはベルギーにある精神病治療で有名な街)と紹介されている。
子どもの障害に悩み、救いを求める親の心は、時代、身分を越えて同じなのだと痛感させられる。
最近では、学校でも人権教育の一環として、障害者に対する問題も取り上げられる。そして「健常者も障害者も同じ人間なのだから、差別してはならないし、差別しません。」という結論を導き出して終わることが多いのではないか。そのことを批判するつもりは毛頭ない。ただ、知っておいて欲しいのは、障害者とその家族が直面している現実である。一つ例を挙げる。
ぼくと同じ街で生活している一人の障害者とその家族の話である。その子(あえて子と書く)は、知的障害があり多動であった。そしてプールが大好きだった。夏になると母親に連れられて毎日のようにプールへ行ってはしゃいでいた。だが当然のことながら障害児も成長する。やがて、小さかった彼の体格は大人と変わらなくなった。しかし、多動は治らない。プールには小さな子どももたくさん来ている。そこを大人の体格の者が走り回ることは、他の利用者にとっては危険極まりないことである。彼と母親は、行く先々のプールで使用を禁止され、ついに市内で利用できる所は一つもなくなった。
今、母親は夏になると、夕方プールが大好きな息子を自動車に乗せ、高速道路を使って、終了前で人気(ひとけ)のなくなった山間の小さなプールへ行っている。しかし、もしもそこでも利用を禁止されたら、もう母親が子どもを楽しませてやれる場所はなくなってしまう。
ぼくは、市内のプールの対応を非難しているのではない。公共施設は他の利用者に迷惑をかけないことが大原則である。ノーマライゼーションとは、健常者と障害者の間に差をつくらないことであり、許されないことは健常者も障害者も同じである。プール側の措置はやむを得ないと思う。
ぼくがこのページを見ている君たちに望むのは、こうした現実を知ろうとする「こころ」である。今でなくていい。受験が終わって少し気持ちに余裕ができた時や、ちょっと暇ができて「さて何をしようかな、」とか思う時でよい。
今、共生社会という言葉が盛んに使われている。何だか新しい考えのように思われている。しかし、昔の日本には今言う「共生社会」という概念を越える思想があったのだ。なぜなら、本当に「座敷童」がいたのだから。
その正体は「障害児=座敷童」という思想である。
「この子が障害を持って生まれてきたのは、この家やムラに降りかかるはずだった災いを一身に引き受けて身代わりになってくれたためだと考えた。だから家やムラをあげて大切にした。それが座敷童だ。」
あるいは
「障害のある子どもを育てるために、家族が団結して一生懸命働けば、生活は豊かになるし家庭も円満になる。そこから障害児=座敷童となった。」
というものである。「福子の思想」(ふくごのしそう)という。これには異論も出されている。だが少なくとも江戸時代の日本に、「福子」という概念が存在したことは確かである。
共生社会への一つの道は、日本人が心の中に「座敷童」を取り戻すことではないかと、ぼくは考えている。