南シナ海「九段線」に法的根拠はない⑪
(承前)
1995年3月、ASEANの外相らは、中国のミスチーフ礁占拠を受けて「行動規範」を起草する試みに着手した。ASEANと中国が「南シナ海における関係国の行動宣言(DOC:Declaration on the Conduct of Parties in the South China Sea)」に署名したのは、それから7年半後の2002年11月だった。この「行動宣言」は、南シナ海をめぐる問題を解決する際の原則を記した法的拘束力を持たない政治宣言で、そこには島礁名も明記されず、条約や行動基準のような強制力も拘束力も備えていない。
(「行動宣言」には次のような文言がある。
「当事国は1982年国連海洋法条約を含む普遍的に承認された国際法の原則に規定されているように、南シナ海における航行の自由とその上空の飛行の自由へのコミットメントとその尊重を再確認する」
「 関係当事国は1982年国連海洋法条約を含む普遍的に承認された国際法の原則に従い、直接関係する主権国家による友好的協議と交渉を通じて、武力の行使や威嚇に頼ることなしに平和的な手段でその領土及び管轄権紛争を解決することに同意する」)
「行動宣言」の実効性を高めるため、2011年7月に開催されたASEAN・中国外相会議では「南シナ海に関する行動宣言ガイドライン」が採択された。この行動宣言に、より具体的な内容を盛り込み、法的拘束力を持たせた「南シナ海に関する行動規範(COC:Code of the Conduct of Parties in the South China Sea)」の策定を目指すことを確認し、中国とASEANは2014年10月までに、策定に向けた公式協議を計3回開催しているが、いまに至るも大きな進展は見られていない。
そもそも中国の南シナ海に対する立場と政策は、この海域の実効支配を固めた1990年代中頃以来大きくは変わっていない。その立場とは、「南シナ海の実効支配を確立している中国にとしては、南沙諸島とその周辺海域で争われるべき主権問題は有していないという立場をとり、関係各国には軍事行動を慎むよう促しつつ、共同開発によって実利を上げて、自国の実効支配を既成事実化していこう」としている。また、「周辺国や第三国に対しては、南シナ海の航行の安全と自由通航を認める以上、不都合はないとし、アメリカには介入の口実を与えない」という考えだという。こうした立場は1995年時点で、当時の銭其琛外相がASEAN外相に表明している内容だという。(平松茂雄『中国の戦略的海洋進出』勁草書房2002年)
実際、「南シナ海行動宣言」もそのガイドラインも、こうした中国の立場に沿った内容であり、結局はそうした立場に何らの変更も迫るものではなく、中国の権益確保に向けた現状維持を追認したに過ぎないと評価されている。(関山健「南シナ海行動宣言」ガイドライン合意の評価と今後の展望 東京財団)http://blogos.com/article/5282/
<緊張を強める中国側の危険行動>
中国による南シナ海の岩礁の埋め立てと軍事拠点化が進む中で、中国の軍艦や公船による異常な行動が増えている。
2009年3月、中国海軍艦艇、国家海洋局の海洋調査船、漁業局の漁業監視船およびトロール漁船が、南シナ海で活動していた米海軍の音響測定艦に接近し、航行を妨害した行為。2013年12月、中国海軍艦艇が南シナ海で活動していた米海軍の巡洋艦の手前を至近距離で横切った事案。2014年8月には、南シナ海上空で米海軍哨戒機に対し、中国戦闘機が異常な接近・妨害を行った事案など。これらは公海における航行の自由や公海上空における飛行の自由の原則に反する事例であり、不測の事態を招きかねない危険な行為と言える。(『平成27年度版防衛白書』)
中国が埋め立て工事を行っている岩礁付近では、付近で操業する漁船に対し、警備船が威嚇射撃や放水を行って排除する事案や、海域の占有をめぐって対峙する漁船同士の衝突、魚網や海底ケーブルの切断、取締り船による追跡や拿捕、発砲事件などが頻繁に起きている。
尖閣諸島を抱える東シナ海においても状況は同じで、2013年1月には、東シナ海を航行していた海自護衛艦に対して中国海軍艦艇から火器管制レーダーが照射され、おなじく中国海軍艦艇から海自護衛艦搭載ヘリコプターに対しても同じく火器管制レーダーが照射されたと疑われる事案が発生。2016年6月9日未明には、中国海軍のフリゲート艦がロシアの艦隊を追跡するかのようにして、尖閣諸島の接続水域に入り、2時間20分あまり渡って航行した。中国海軍の船が接続水域に入るのはこれが初めてで、日本政府は未明にも関わらず駐日中国大使を呼び出し厳重抗議した。続けて15日には中国海軍の情報収集艦が鹿児島県の口永良部島の西側の領海に侵入する事案が発生した。
さらに、こうした中国海軍艦艇の挑戦的な行動に呼応するかのように、中国軍機が、スクランブル(緊急発進)した空自機に対し攻撃動作を仕掛けてきた事案も発生した。
航空自衛隊元空将の織田邦男氏が明らかにしたもので、攻撃動作とは中国機が、後ろから近づいた空自機に対して正面から相対するような動きを見せ、さらに追いかけるような姿勢を見せたことだという。「空自機は、いったんは防御機動でこれを回避したが、このままではドッグファイト(格闘戦)に巻き込まれ、不測の状態が生起しかねないと判断し、ミサイルから逃れるための自己防御装置「フレア」を使用しながら、空域から離脱した」とされ、「空自創設以来初めての、実戦によるドッグファイトだった。上空では毎日のように危険極まりない挑発的行動が続いている」という。(「中国軍、空自機に攻撃動作 空自OB指摘」毎日新聞2016年6月29日)
http://mainichi.jp/articles/20160629/k00/00m/030/138000c
まさに「火薬庫」と言ってもいい、一触即発の危険な行動事例が多数見られるなかで、不測の事態を回避・防止するための取り組みも始まっている。2014年4月、日米中を含む西太平洋シンポジウム(WPNS:Western Pacific Naval Symposium)に参加した各国海軍は、艦艇および航空機が予期せず遭遇した際の行動基準を定めた「洋上で不慮の遭遇をした場合の行動基準(CUES:Code for Unplanned Encounters at Sea)」に合意した。また、同年11月、米中両国は、軍事活動に係る相互通報措置と共に、UNCLOSおよびCUESなどに基づく海空域での衝突回避のための行動原則について合意した。さらに、2015年1月には、日中間で偶発的な衝突を避けるための「日中防衛当局間の海空連絡メカニズム」の実施に向けた協議が行われている。(『平成27年度版防衛白書』)
この「海空連絡メカニズム」では、日中の防衛当局間にホットラインを設置すること、定期協議を行うこと、艦船および航空機同士が連絡に使う無線の周波数については原則合意している。ただ、中国側がこのメカニズムを尖閣諸島の領海と領空でも適用することを主張しているため、運用開始には至っていない。日本の領海と領空でも適応されるとしたら、中国はこれを口実に日本の領海と領空を侵犯することもありえるからだ。(小谷哲男 ・日本国際問題研究所 主任研究員「中国海軍による尖閣接続水域航行 ロシア海軍を識別できていなかったのか、東シナ海での危機管理メカニズムが急務」)