私の中の「日中関係史」
スペシャル「私の日中関係」
黄 文葦
70年代末から80年代中期まで、中国の改革開放がスタートした時期に日本の映画・ドラマ・音楽が中国に輸入された。その時に多くの中国人が初めて日本文化に接触する機会を得た。日本の指揮家・小澤征爾も中国を訪問し、彼の不思議な風采および交響曲が大勢の中国人を魅了した。 高倉健、山口百恵など日本の役者が中国で大人気となった。中国人が日本のスターに夢中になっただけでなく、日本の映画・ドラマの映る資本主義の生活ぶりに非常に憧れていた。「精神文明と物質文明と共に発展せよ」とは政府のスローガンだったが、あの時代の中国人にとって、「精神」でも「物質」でも、日本は良い手本である。
80年代初頭、商船会社に勤めていた父が、毎年2、3回日本の横浜など港へ出かけた。ある日、父が三洋の白黒テレビを持って帰った。そのテレビは子供だった私にとって、魔法のようなものだった。その時代、中国ではテレビはぜいたく品だったのだ。その後、さらに父は日立のステレオテープレコーダーを買った。日本のレコーダーで台湾のテレサテンの歌を聴くのは、当時最高のぜいたくであったと言える。
もう1つ、当時の学校の地理の先生が授業中に世界地図の中の日本を指して冗談半分で「ここは小日本だ」と言っていたことが心に残っているエピソードだ。さらに「日本は小さな国だが、すごい国だ。科学技術のレベルは中国よりかなり高い。私は日本のカメラを愛用しているよ」と教えてくれた。
「80年代の日中の友好的な感情が今日まで続くことができたらいいな」と、今になっても私は時々そう思う。残念ながらその後は、国の間の利益の争いや政治的な原因で国民の感情が操られているようであった。
1990年代以後、中国では役人腐敗・社会格差など問題が深刻になっていた。同時に、各地で「愛国教育基地」が続々設立された。愛国主義教育は反日教育ではないけれども、抗日戦争記念館は重要な愛国教育基地の1つである。抗日映画・ドラマがどんどん放送されていた。90年代中期以後、中国人は日本に対する感情が冷ややかになって、多少敵対視していた。
90年代中期、故郷のある新聞に「日本人と結婚してはいけない」というタイトルの文章が掲載されたことを私は克明に覚えている。1人の女性作家が書いたもので、文章の趣旨とは「日本人は歴史認識さえはっきり示していない。歴史を否認する日本人がたくさんいる。人間としてよくない。だから、日本人と結婚してはいけない」というものだ。今思うと、それは失笑ものの内容だったのが、その時代には通用する考え方だ。
21世紀の初頭、ちょうど中国経済が高度成長にあたる時期、日中関係は海上の波のように変化が激しかった。「政冷経熱」という言葉が日中両国の実態で生まれた。日中間で経済交流が活発化するにつれて、人の流れも加速してきた。その時期、中国人の対日感情が最も複雑になっていて、インターネットの普及によって大都市では若者を中心に日本のファッション・ポピュラーカルチャーにますます関心を示す一方、国民感情が政治に影響されやすい傾向が顕著だった。
日本製品は信頼するが、歴史と政治問題では日本を懐疑し、経済力は日本を追い抜いたことからもたらされた高揚感など、これらの複雑な感情を抱いたまま、中国人が日本旅行を始めた。2010年代に入ってから、日本のマスコミで「中国富裕層」という言葉がしばしば使われ、「爆買い」も流行語になった。
知人の中に確かな「中国富裕層」の人物がいる。彼は90年代から年に2、3回仕事や旅行のために日本へ来る。「90年代に初めて日本に来た時、銀座がまるでフェアリーランドのような存在であった。十数年後、再び銀座をみたら、普通だった。上海より古いし、中国がすでに日本を追いついた、という感じだね。時代が変わったね」と語っている。彼の話から、裕福になった中国人の晴れ晴れとした気持ちや意気揚揚とした様子が垣間見えた。
現在、日本人と中国人の間には、まだ感情や情報面でへだたりがあることは否定できないものの、この数年間、旅を通して中国人が日本を認識しようとしている。外国に対し、政府のスポークスマンが怒っても、国民が怒る必要はない。自分の目で世界を見て、自分の心で物事を判断する。それこそ本当の意味で人生が豊かになると私は思う。
余談だが、父が90年代初頭以後、仕事の異動で日本へ来られなくなった。父の記憶の中の日本は80年代のままだ。すなわち中国人にとって最も憧れの「日本」であるに違いない。「札幌のゆりかもめがきれい」「横浜の人がやさしい」…。時代が変わっても、父がいつもこういうふうに日本を回想している。もし、80歳の父が再び日本に来たら、どういう印象を受けるだろうか。