Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

けがれなき神の家族

「キリストの聖なる潔白の道」DI39

2020.09.12 07:51

「キリストの聖なる潔白の道」DI39

The Way of Christ’s Divine Innocence, Spring 2019

[p.1]

1989年4月16日 (i)、聖ラファエル教会

パトリシャ:主よ、幼子のような聖なる潔白の道とは何ですか。

イエス:わたしの子よ、小さな子どもには何が必要で、彼らは何を望んでいますか。

イエス:わたしが教えてあげましょう。小さな子どもは、自分の父母の近くにいる必要があります。わたし自身の母によってわたしが母となり、聖ヨゼフによってわたしが父として護ってあげましょう。これが主の潔白の子どもであるあなたの唯一の家族、すなわち聖家族です。

小さな子どもには愛が必要です。あなたの掟は愛です。あなたの手本はわたしの幼少期です。それは潔白(罪がなく純真無垢)で、わたしの養父聖ヨセフと、わたしの母と、わたしの天の御父の御旨に従順です。

あなたへのわたしの愛は、犠牲的愛です。わたしへのあなたの誓願は、犠牲の誓願です。貧しく無力な罪人たちのために、あなたの犠牲的愛をわたしの犠牲的愛と一致させるようにわたしが導くためです。

今の時代とは、あなた方が自分の無力さを、十字架上のわたしの無力さに重ね合わせるならば、この一致のうちに力が生まれ、国々や暗闇の力を打ち砕き、潔白の光が世を照らし、平和が訪れることを、わたしが主の潔白の小さな子どもたちに示そうとしている時代です。この平和は、わたしだけがあたえることのできる平和です!

小さな子どもには、安全と愛が必要です。わたしがあなた方の安全となりましょう。わたしの安全のうちには、互いの安全があります!霊的にも物理的にも、お互いの必要のために心をつくしなさい。そうすることで、あなたはわたしの面倒を見ているのです。

小さな子どもたちは、どんな風ですか。

彼らは潔白(純真無垢、イノセント)です。ひんぱんに告解をしなさい。彼らはだいたいお腹をすかせています。いのちのパンに飢えています。わたしはいのちのパンである(ご聖体)。

本当に小さな子どもたちは悪を理解しませんし、見もしません。彼らは人を疑わず、信頼に満ちています。彼らは両親を信じ、わたしに信頼しています。わたしを信じる者は永遠のいのちを得るでしょう。真理のうちに生きなさい。わたしは真理でありいのちである!

小さな子どもたちはつまずきころびますが、素早く起き上がり、涙の粒は幸せと笑いに変わります。自分が小さな者であることを喜びなさい。「あなた方は小さな子どものようにならなければ、天の御国に入ることはできません。」

小さな赤ん坊は、心配したり気をもんだりしません。母の腕に抱かれて安心しています。あなた方も、このようになってください。わたしの母に、あなた方の世話をさせてください。必要なことはすべて、わたしの母に面倒を見てもらいなさい。

小さな子どもたちは、喜びでいっぱい、聖なる喜びでいっぱいです。そして、従順です。わたしの十戒と、教会の教えと、教皇と、法的長上に従順にしたがいます!この者たちは、わたしの権威を着ているからです。

子どもたちは、秩序と安定が好きです。この秩序(訳注:主の潔白会の霊性を通してあらためて示されている、神の定めた秩序)は、安定した生き方を示すものであるはずです。幼子のような聖なる潔白の道では、修道生活的なリズムに従って一日を過ごします。

子どもたちは、愛によって丈夫に育ちます。「わたしがあなた方を愛したように、互いに愛しあいなさい」!

幼子たちは、両親のそばにいなければ、おびえてしまいます。いつもわたしのそばにいなさい。わたしの幼少期と同様に、あなた方を護り、聖母が世話をし、育ててくださる聖家族から決して離れてはなりません。

幼子たちはしばしば黙っており、話すよりも観察していることが多いものです。わたしの沈黙、聖ヨセフの沈黙、そして、あなた方の天の御母の沈黙に学びなさい。わたしの恵みを、あなた方の心の沈黙のなかで宝としなさい!

赤ん坊は良き両親を敬愛(adore)します。あなた方がしてくれる、聖体におけるわたしの現存の永久礼拝(Perpetual Adoration)を百倍にして報いてあげましょう!(*下記の注をご参照ください。)

イエス:子どもたちは、良いもの、正しいものを宝として大切にします。主の潔白の子どもたちは、聖なる良き司祭を宝として大切にします。あなた方の司祭たちを大切にして気遣い、また、すべての司祭を大切にしてお世話をしなさい。

これが、幼子のような神の潔白の道です!


*注:永久聖体礼拝といっても、教会で長い時間を過ごせない一般信徒にとっては、霊的姿勢としての永久聖体礼拝になります。もちろん、一週間のうちには少し時間をとって、ご聖体の御前で過ごしながら、わたしたちのカトリック信仰の知識を深めることはできるでしょう。わたしたちの主は、これを聖体大学と呼んでおられます。永久聖体礼拝については、わたしにとって以下の祈りが大変役立っています。


「わたしの主よ、起きているときも、眠っているときも、わたしはご聖体にましますあなたを、わたしの心臓の鼓動の一つひとつで、礼拝いたします。」(文字の強調は訳者による。)


わたしたちは、主に寄り添われながら、世俗的学びをすることもできます。神がわたしたちにあたえてくださった数々の賜物に感謝しつつ、神の栄光のため、教会を強めるため、そして、人類の善のために、その学びをすればよいのです。このような意向をもって学ぶならば、神があなたの学びに助けをあたえてくださることがわかるでしょう。そして、あなたの様々な課題に、素晴らしい洞察があたえられることでしょう。


[p.4]

1994年7月21日、ナザレの家、告解とミサの後で

パトリシャ:主よ、家に帰るのはよいものですね。

イエス:聖家族の修練の中にいるあなたは、この地上でいつも自分の家にいることを覚えておきなさい。あなたのまことの家は、わたしの中にあります。そして、あなたの霊魂はわたしのうちに憩うまで、落ちつくことはできません。「家とは、あなたの心のあるところです。」愛する人よ、あなたの心はどこにありますか。

パトリシャ:主よ、わたしはあなたのおられるところにいたいだけです。「神よ、わたしの心を清め、わたしの霊を強めてください。」わたしの神よ、あなたがわたしの心の家になってくださいますように。わたしは、分裂した心は望みません。主よ、自分の心が分裂しているとき、わたしは悲しくみじめです。

イエス:聖家族の中では、聖三位一体の一致の力が働いています。聖三位一体は、決して分裂することができません。あなたの心、知性、霊、行動、意向、あなたの全存在が、聖三位一体を中心とすべきであり、この分かつことのできない聖三位一体の一致のうちから流れ出るものでなければなりません。ここ、三位一体の中央に、汚されていないエデンの園があります。楽園は失われてはいません。

パトリシャ:主よ、なんと素晴らしい神秘でしょう。もし、あなたがお望みならば、そして、厚かましいとお思いにならなければ、御父とその愛をわたしに明かしてくださいませんでしょうか。わたしは御父の愛に充分お応えしたいのです。福音にはこうあります。御子が示そうと思う者に対して、御父がどういう方であるかが示される。わたしはこの偉大な神秘を前にして、謙虚に身をかがめます。

イエス:あなたは望みましたから、それを受けるでしょう!わたしを見た者は、御父を見たのである。

パトリシャ:主よ、神である三位の御方は、どのようにして一体となっているのでしょうか。

イエス:神の愛!

パトリシャ:主よ、もしかするとわたしはこんな畏るべき神秘について、質問すべきではないかもしれませんね。

イエス:求めなさい!わたしの父とわたしは一つであり、「神の国の神秘を、単純な子どもたちにあらわしたいと思っているのです」。わたしの父はそれを喜ばれます。求めなさい!

パトリシャ:主よ、あなたは三位なる神を人類にあらわしてくださいました。この啓示の目的は何ですか。

イエス:すべての人を引きよせて、神の一致、神の愛の一致、神の潔白の一致のなかで生かすためです。

パトリシャ:この偉大な神秘を、充分に書きつくすことはできません。主よ、そうですよね。

イエス:愛する人よ、その通りです。しかし、おぼろげながらも示された者たちが、それを他の者たちと分かち合おうとするのは正しいことです。恐れずに、その努力をしてみなさい。神の栄光の前に、自分には限界があることを、あなたは分かっています。聖家族と、三位一体と、人類の救いとのつながりが分かりますか。すべての男性、すべての女性、すべての司祭が召されている、生き方の完全な秩序が分かりますか。

パトリシャ:主よ、心の目では見ることができます。でも、このような神秘を、どうしたら書き記すことができるでしょうか。これは本当に広く深いものですから。本当に人類は、神が自分たちのために準備してくださっているものを理解することはできません。

イエス:この聖三位一体の一致の外に踏み出す者はみな、ものごとの自然なあり方として、腐敗に傾きます。楽園の清らかな庭における、この神の愛の一致の外にあっては、何も完全にはなり得ないからです。

パトリシャ:この世にあってさえ、楽園があるとおっしゃっているのですか。主よ、楽園は失われておらず、損なわれてもいなくて、わたしたちの手の届くところにあるということでしょうか。

イエス:神が創ったものを、人間に壊すことができますか。不従順によって園から追い出されたのは、男と女です。しかし、園は残っています。神は一人で歩くことを望んでおらず、恵みと愛と望みによって、園に戻った者たちもいます。見よ、神の御国はあなたたちのうちにある。

パトリシャ:主よ、告解と聖体拝領の後に、あなたのご聖体の現存の御前にひざまずくとき、わたしはエデンの園にいるのでしょうか。

イエス:その通り。しかし、なんともすぐに自らの長子相続権を売り渡す者がいることか!(創25:27)

パトリシャ:それでは、罪が残っているあいだ、わたしたちは追い出されているということでしょうか

イエス:エデンの園の楽園に、罪が残ることはできません。原初の潔白には、まったく罪がありません。原罪と神の命令への不従順は、霊魂を汚します。あなた方は神の目に、潔白な小羊のようでなければなりません。

パトリシャ:主よ、告解と聖体拝領の後に、なぜわたしは新しいエデンの園にいるような気持ちになるのでしょうか。

イエス:恵みです!告解の秘跡の後には、恵みが流れます。そして、潔白が返しあたえられます!禁断の木の実ではなく、天の食物(聖体拝領)に与ったのです。あなたは、贖(あがな)いの秘跡であるミサの聖なるいけにえに与ったのです。あなたは望み、成聖を求めました。あなたが選んだこの道は、楽園へと向かっています。聖なるご夫妻(訳注:聖ヨゼフと聖マリア)は、既婚未婚の男女、そして司祭が、この世においてさえ、新しいエデンの園で生き、動き、存在することを、大いに助けることができます。

わたしたち聖家族と共に、聖三位一体の一致のなかで、あなた方の修練(訳注:生涯をかけて生きる「聖家族における修練」)に生き、仕えなさい。ここでは、「御父はまことにお喜び」です。ここでは、神の聖なる潔白の、善にして聖なる秩序のうちにあって、御父から一人ひとりにあたえられた権限を、あなた方は生き、行使するよう努めるのです。これはわたしの秩序(My Order)です。すなわち、全カトリック教会の正しい秩序、神の民の正しい秩序、全人類の正しい秩序、全被造物の正しい秩序です。新しい天と新しい地が、いと高き御方の栄光をあらわすまで。


[p.8]

2007年6月19日、松の木にて

パトリシャ:愛する主よ、わたしたちはなんの成果もあげていないと思えるようなことが時折あります。

イエス:あなたは素晴らしい成果をあげているではありませんか!

パトリシャ:主よ、わたしは時間を無駄には過ごしたくないのです。

イエス:ミサに行くのは、時間の無駄ですか。聖務日課を唱えるのは、時間の無駄ですか。あなたの信仰の学びは、時間の無駄ですか。事務所や本部で仕事をするのは、時間の無駄ですか。初金曜日の「つぐないの行進」は、時間の無駄ですか。

パトリシャ:主よ、わたしたちはあなたの素晴らしい「主の潔白の道」をあらゆるところに広めたいのです。

イエス:「わたしは、もうあなた方を奴隷とは呼びません」。わたしはあなた方を、わたしの聖なる潔白の友と呼びます!あなた方が今、植えて、生かし続けようとしているものは、育ってゆき、世界中で、十字架につけられた潔白のうちに勝利するわたしの聖なる潔白として、大いなる収穫をあげることでしょう。わたしが収穫を増やしてあげますから、自信をもってわたしに信頼しなさい!状況は以前と変わっていません。多くの者がわたしのもとを去り、11人だけしか残りませんでしたが、その後、人数は大いに増えました。わたしの祝福をあたえましょう。


[p.9]

1999年2月16日、告解の後で

パトリシャ:わたしは2位の天使がご聖櫃の上にいる絵を見ていました。一人は花を、もう一人は果実をもっていました。

イエス:ある霊魂は(人生において)花を捧げますが、実りはありません。また、ある霊魂はまったく花を咲かせませんが、実りがあります。そして、花も実りもない霊魂がある一方、花も実りも両方ある霊魂もあるのです。

[p.9]

2017年5月18日(i)、ベトレヘム牧場にて

イエス:聖なる者(holy)になりたいか、穴(holes)だらけになりたいか、皆に聞いてごらんなさい!

パトリシャ:わたしたちが穴だらけの衣を着るならば、見栄えも着心地も良くありませんし、体温が保てず、身体を保護することもできません。わたしたちが自らの信仰をおろそかにして、信仰の理解を増すための努力をまったくしないのであれば、わたしたちの信仰の知識は穴だらけになり、偽(いつわ)りの教えや誤った意見から、身を守ってはくれません。

イエス:聖なる者になるには、努力が必要です。食事の支度をしたり、休暇を過ごしたり、生活費を稼いだり、身支度を整えたりするために努力が必要なのと同じことです。これらすべてにおいて、それ相応のきちんとした努力をするチャンスが与えられている一方、このようなことも含めてあらゆる仕事において、てきとうでいい加減なやり方をすることもできます。あなた方には、それを選ぶ自由が与えれています。あり合わせの材料をいい加減に組み合わせて手早く食事の用意をすることもできますが、結果は、誰も食べたがらないようなお粗末なものとなるでしょう。バカンス旅行の準備をまったくしなければ、結果はバカンスなし、あるいは惨憺(さんたん)たるバカンスとなるでしょう。準備なしには、パスポートを忘れる、旅費が足りない、旅行用の衣服がない、ということになりかねないからです。事前の準備や気配りなしに衣服を身につけるならば、汚れていてアイロンもかけていない服を着ることにもなりかねません。そうすると、一晩中、寝ているあいだ着ていた服をそのまま着ているのではないかと思われるかもしれません。あなた方は神の似姿につくられた、人としての尊厳をもった存在です。

成聖への準備なしに、天国での場所はあり得ません。あなたが小羊の婚姻の衣である、潔白の白い衣を着ていないからです。(マタイ22:11、黙示録19:9)。あなたは、一・聖・公なるカトリック信仰の知識に通じ、神への愛と隣人への愛を実践していますか。


[p.10]

1997年7月4日、初金曜日

パトリシャ:マリア様が、天使たちと小さな子ども達と一緒においでになりました。マリア様は一人の子どもと手をつないでいます。

マリア:わたしの子ども達、わたしの願いに応えてくれてありがとう。あなた方の願いはイエスの聖心へ持っていきました。悪魔の数々の攻撃におびえることはありません。イエスの聖心のうちにいれば、あなた方は確実に守られています。この安全な場所から、誰があなた方を連れ出すことができるというのでしょう。

わたしの母性的祝福をあたえましょう+。

パトリシャ:お母様、この小さな子ども達は一体誰ですか。

マリア:自分の潔白(innocence)が守られ、育てられる必要のある子ども達です。聖家族の修練は、どのようにすればそれができるかを教えてくれます。あなた方は、他の人を助けることができるようになる以前に、まず、自分のうちにある聖なる潔白という神のいのちを育み守ることを学ぶ必要があります。多くの者は、この再教育プログラムをする気が全くなく、何時間も何日も何年も、何か気晴らしのために過ごし、自らの信仰を深めるためにはほんの少しの時間しかとっていません。しかし、これが本当に多くの悪の根源となっているのです。純真無垢さ(innocence)と無知(ignorance)の行き着く先は、十字架につけられた潔白(crucified innocence)です。しかし、年を重ねて深められていく信仰の堅固な知識は、わたしの勧めに忠実に従う者達のいのちのうちで、輝きます。それは教会の教えです。しかし、数多くの者が、カトリック信仰について、とがめられるべき無知のうちにとどまっています。

教会は堅固な岩の上に建てられています。教会は正統な教義を説いていますが、あまりにも多くの霊魂が、神の掟や教会の賢明な掟に従おうとしない者達の「流れる砂」のような意見「の上に家を建て」ています。神はあなた方の幸せと聖化を望んでいますが、あまりにも多くの者が自らの全エネルギーを、聖なるカトリック教会に関する正統な知識の習得以外のことに用いています。

神と教会の掟に従うことを拒む子ども達は、じきに誤謬、無関心、より深い苦しみにおちいり、果ては神の恵みへの感受性を全く失ってしまいます。わたしの子ども達、怠惰な子どものようになってはいけません。ご聖体に現存されるイエスの御足元で、勤勉に学びなさい。信仰の学びがもたらす平安と喜びを発見してください。

もし今晩、あなた方の霊魂が審判のために神の御前に立たなければならないとするならば、御子の次のような問いにどのように答えますか。「わたしの子よ、わたしはあなたに、諸秘跡と聖なるカトリック信仰の素晴らしさをあたえるために死にました。あなたはこの賜物に感謝して、信仰をよく学び、神と信仰と教会への知識と愛を日々深めてきましたか。」わたしの子ども達、あなた方はどう答えますか。

信仰が、真理の正統な知識の上に建てられているならば、あなた方の信仰は決して揺らぐことはありません。あなた方は、あたえることによって受けるのです。あなた方の主であるキリストによって建てられた唯一の真実なる信仰の素晴らしさを見い出すために、ふさわしい勤勉さをもってあたりなさい。そうすればあなた方は百倍の報いを受け、祝福につぐ祝福を受けるでしょう。

わたしの母性的祝福をあたえましょう+。

2001年1月3日

パトリシャ:わたしは、幼子たちの手足を切り落としたアフリカの人々のことを考えていました。中には、一歳半の小さな子どももいました。

イエス:掟は心に刻まれており、啓示によって明らかに示されています。あなた方自身の健康と幸福のために、「あなたがわたしを愛するならば、わたしの掟を守りなさい」。掟を守らないとき、普遍的にも個人的にも人類は苦しむのです。人の不正と隣人愛の欠如は、最終的には勝利しません。

神の愛が、贖(あがな)うために来ました。わたしは、あなた方への愛のために、自分を十字架に渡すことで、あらゆる罪とあらゆる死を打ち破りました。人類の罪はあまりにも大きいため、完全で無限の愛によってしか贖うことができません。あなた方の神のみしか、そのような不正を贖うことはできなかったのです。

このような残虐行為や、潔白(innocence)に対する数々の罪は、犠牲者に対するよりも、加害者の方に、より破壊的にはね返って来ます。無実(innocent)な犠牲者は全て、彼らの神である無実(innocent)な「犠牲者なる神」の愛のふところに抱かれています。

人はこのようなことを、地獄の境(さかい)で行っています。わたしはこのような苦しみの全てを、十字架上で開かれたわたしの腕に集めます。そして、時代を超えて、わたしの腕は、わたしの子ども達の苦しみを、カトリック教会で捧げられるミサの一にして聖なる犠牲(いけにえ)において待っています。ここ、わたしの腕の中、あなた方の神なる救い主の腕の中で、無実な者(innocent)は、罪を犯した者をゆるすことができるようになり、罪びとを故郷に呼びもどすための恵みが流れ出るのです。

最終的に、全てはあなた方の神の愛のうちに集め上げられます。あなたがわたしを愛しているなら、わたしの掟を守りなさい。そのはじめは、「神を愛し、自分自身のように隣人を愛すること」です。

神と隣人をまことに愛する者は、幼子たちの腕を切り落としたりはしません。自分自身の手を切り落としはしないからです。神と隣人を愛する者は、自分の目の前にいる人が子どもであろうと男性であろうと女性であろうと、その人のうちに神の姿を見るはずです。神と隣人を愛する者は、神と自分自身を愛するように、目の前の人を愛し、手に劔を持つよりは、潔白のうちに死ぬことを望むはずです。潔白な者の手足を切り落とし、どんなかたちでも霊的に傷つける者たちは、自分自身の手足を切り落とし、霊的にも物理的にも自らのいのちを切断するのです。彼らのすることが、彼らなのです。

パトリシャ:主よ、肉体的あるいは精神的に傷つけられたかわいそうな子どもやかわいそうな人は、一生その暴力の影響を背負って生きてゆかなければなりません。

イエス:彼らが天で受ける報いは大きなものとなるでしょう。恵みによって、そして、十字架上で広げたわたしの腕に抱かれて、その者たちは、このゆるしがたいと思える罪をゆるすことができるようになるでしょう。なぜならば、本当に多くの犯罪者が、自分自身に対しても、その犠牲者に対しても、自分が何をしているか分からないからです。彼らは自分たちがつくった、愛のない世界に住んでいます。彼らは、自分の劔で、自らを神から切り離しています。潔白(な者)(innocence)だけが、そのような罪びとたちに手を差し伸べることができます。罪びとの犠牲者である潔白(な者)が、神であるわたしの潔白のうちにあって、罪びとに手を差し伸べるのです。

このような訳でわたしは、神なるわたしの潔白を、次の祈りをもってあなた方と分かち合うのです。「ああ主の潔白、十字架につけられたわたしたちの潔白のうちに勝利してください」。神の愛は、人類すべてを、救いの計画に組み込む方法を見いだしました。最後まで悔い改めないことと、自由意志による拒絶のみが、道をふさぎます。痛悔が扉を開きます。愛は、あなた方に歓迎の挨拶を述べます。


[p.15]

2000年5月5日、松の木にて、初金曜日

パトリシャ:聖家族がここにいらっしゃいます。マリア様が幼子イエス様と手をつないでいらっしゃいます。イエス様は3歳くらいです。聖ヨゼフがイエス様の右側におられます。

パトリシャ:愛するお母様、わたしたちの願いをすべて、あなたにお渡しします。

マリア:その願いをここに置きなさい。

パトリシャ:霊的な意味で、マリア様はご自分の御心をわたしたちに開いてくださいました。

マリア:この場所を、偉大な聖地としてください!ここで祈りなさい!幼子たちと、人の罪の潔白な犠牲者たちすべてを思い出すために、赤と白の花を持って来なさい。わが御子の神聖なる潔白に光栄を帰して、この丘の上に偉大な教会を建ててください!

幼子イエス:産まれる前に殺された数多くの幼子たちを思い出してください。聖家族の修練を学びなさい。聖体大学で学びなさい。この場所のことを、あらゆるところで知らせてください。つぐないの行進をして、この聖なる場所で祈る者には、大きな恵みを約束します。恐れることはありません。わたしの祝福をあたえましょう+。

聖ヨゼフ:キリストの聖なる潔白の道を学びなさい。自分の中と人の中にある潔白を守りなさい!


[p.16]

1997年7月2日、ナザレの家、神学の学び

イエス:学びの時に、聖霊への祈りを忘れないようにしなさい。聖霊に導かれなければ、行先を見失ってしまいます!


聖 霊 へ の 祈 り

[文語体]

聖霊、来り給え。信者の心に充ち給え。主の愛熱の火を我らに燃えしめ給え。主よ、聖霊を遣わし給え、しかしてよろずの物は造られん。地の面は新たにならん。祈願 聖霊の光をもって信者の心を照らし給いし天主、同じく聖霊をもって我らに正しきことを悟らしめ、その御慰めによりて常に喜ぶを得しめ給え。

我らの主、キリストによりて願い奉る。アーメン。

[口語体]

聖霊よ、わたしたちの心に来てください。信じる人の心を満たし、あなたの愛の火を燃やしてください。神よ、あなたの愛の息吹きを送って、すべてを造り、地の面を新たにしてください。祈りましょう。神よ、あなたは聖霊の光によって、信じる人々の心を照らしてくださいました。聖霊のうちにあって、わたしたちが正しいことを愛し、その慰めによって、よろこびに満たされますように。主キリストによって。

アーメン。

口語体は「カトリック祈祷書 祈りの友」

(カルメル修道会発行Nihil Obstat 1980 Imprimatur 京都司教区)より


パトリシャ:わたしは神の存在について学んでいました。G.K.チェスタートンは、「理性によっては、ある一定のところまでしか到達できない。すべてを理性のみによって理解することはできない。」と言っています。

イエス:あなたは三位一体と格闘することはできません。三位一体を仕留めることはできないのです!

パトリシャ:主よ、あなたの存在の様々な証明方法について読んでいると、頭が痛くなりますし、情けなくなってきます。わたしは、ただあなたが存在することを知っています。

イエス:どうしてわたしが存在すると分かるのですか。

パトリシャ:わたしはあなたが面倒をみてくださっていることも、神のお計らいがあることも、体験してきましたから。

イエス:どのようにしてですか。

パトリシャ:わたしは、あなたがどれほどわたしのことを気にかけてくださっているか、見てきました。そして、わたしが恐れていた時にはわたしをなぐさめ、わたしの罪を告解で赦してくださいました。わたしはあなたの愛を体験し、あなたの行いとわたしの人生におけるその影響を見てきました。

主よ、わたしは創造の中にあなたを見、体験しています。わたしはデザイナーです。あらゆるところに秩序と素晴らしいデザインを見出しています。造られたものの秩序の中には、本当に多くの美と完全さがあります。このすべてが偶然であるはずがありません。創造主なる神がいるはずです。

イエス:あなたは体験を通して、わたしの中に安全な避難所を見出したのですね。

パトリシャ:主よ、その通りです。


[p.18]

1997年11月14日、ナザレの家

パトリシャ:わたしたちがクレドを歌っていると、わたしはたくさんのカトリック教会を見せられました。収容人員いっぱいいっぱいの人が集まり、信仰や聖書を学び、また、仕事に関する科目も学んでいました。それから主は、立ってクレドをラテン語で、深い畏敬と愛をもって歌っている人たちを見せてくださいました。彼らの学びのすべては、神の栄光と、人類の善益と、キリストの教会の建設のためでした。イエス様は仰せられました。

イエス:それぞれの学校や大学にはその霊性を示す賛歌や校歌がありますが、聖体大学の霊性を示す賛歌は、歌われているクレドです。あなた方の学びのすべては、ここから発します。このクレドを信じ、生きるためです。


[p.18]

2016年12月8日、聖マリアの無原罪の御宿りの祭日、ベトレヘム牧場

パトリシャ:わたしたちは、今の世の混沌として混乱した感覚について話していました。これまで常に自然であり正しいと考えられてきたこと、例えば、役割や性別、結婚などについての一致した考え方など、様々なことについて、話し合っていました。主の潔白のメッセージでイエス様は、ご自分がはじめに定められた物事についての神的秩序に、わたしたちを連れ戻そうとしてくださっています。誰かが、イエス様はわたしたちを最初の原理 first principle* に連れ戻そうとしておられる、と言いました。

イエス:そして、それは決して終わることのない原理です。

[*辞書によると、原理 principleとは、思考体系や、倫理基準、道徳的・倫理的意思決定の模範、基本的動作のあり方や、何かの第一原因などにおいて必要とされる、根底にある重要な法あるいは想定。規則ruleとは、行いを統制する原理、態度や行いを導くためにすえられた権威ある原理。]

パトリシャ:神は、すべての物の第一原理 First Principle であり、わたしたちに事物の神的秩序 Divine Order を与えてくださいました。善きお方である神がわたしたちにくださった最初の原理原則から、わたしたちが離れるならば、わたしたちはセーフティライン(安全の境界線)を超えて、悪の原理原則の領域に入ります。善と真理の力が片方にあり、悪と偽りの力がもう片方にあります。善の支配権と力は、神と諸聖人、諸天使、そしてわたしたちを真理のうちに支えるすべてにあります。

罪と悪が、不従順によって世に入りました。悪魔とその天使たちは、神にこう言いました。「わたしは仕えない」。わたしたちの最初の両親であるアダムとエヴァは、あの不従順の霊に聞き従い、神の指示に従わなかったのです。わたしたちは、自らのうちにこの不従順がいまだにあることを知っています。わたしたちはいとも簡単に誘惑に屈し、神と神の教会の掟を破ります。わたしたちにも分かっていることですが、これが、自分自身にも家族にも社会にも、苦しみをもたらしています。これがわたしたちを神と、その真理と、事物の神的秩序から引き離します。

知的プライドと意図的無知によって、このセーフティライン(安全の境界線)を行ったり来たりしている人がいることを、イエス様は見せてくださいました。「何でも行ける」と言っている者たちは、じきに、「すべては行ってしまう」ことが分かるであろうとイエス様はおっしゃいました。すべて良いものは行ってしまい、邪悪なものがすべて残ります。人々がまことの犠牲者で、傷ついていたとしても、その人々には、まだ自由意志があります。完全に潔白な、人となられた神、そして、わたしたちの罪を赦すために十字架につけられて、わたしたちのために死なれた主キリストの御傷だけが、ご自分の神聖なる潔白をもって、わたしたちをいやし、わたしたちに潔白を返し与えることがおできになるのです。

事物の神的秩序 Divine Order of things を拒絶するならば、その先は、混沌と十字架につけられた潔白です。なぜならそれは、神が定められた神的秩序と自然の秩序 natural order に反することだからです。善と悪は、互いに磁石の両極のように反発しあいます。


[p.20]

2005年11月20日、王であるキリストの祭日、寝る前の祈り(終課)、サルヴェレジナ

イエス:わたしの名前はあなた方の額(ひたい)に記されています。このしるしは、この偉大な祭日に、あなた方が、この選ばれた場所(サービトンにある聖域)で天があたえる大いなる恵みを受けに来たことを、あなた方にいつも思い出させるものです。

パトリシャ:オキアラン神父様が、十字架のしるしを3度わたしたちの上にされ、こうおっしゃいました。「王たるキリストがいつもあなた方と共にありますように」。

イエス:これはわたしの愛のしるしです。わたしはまことにあなた方に言う。わたしの名は、あなた方の額(ひたい)に記されている!


[p.21]

2007年6月24日、洗礼者聖ヨハネの祭日

パトリシャ:預言者エレミアの書1:4−10が読まれているとき、主が、産まれる前に殺された幼子たちのことを、わたしに思い出させてくださいました。

朗読:「わたしは、おまえを母の胎内に形づくる前から、お前を知っていた。おまえが母の胎から産まれる前に、わたしはおまえを聖別し、諸国民の預言者とした。」

パトリシャ:わたしはこう言いました。「ああ、主なる神よ…わたしは幼子にすぎません…」

産まれる前に殺された幼子たちを母の胎内で形づくられた神が彼らに、カトリック教会内とすべての国民に対する預言的使命をお与えになりました。神はご自分の言葉を彼らの口に置かれました。神の言葉は真理でありいのちです。神の言葉は諸国と地の果てまで救いをもたらすものです。いのちの主がお与えになった、いのちへの権利という真理です。神はご自分の計画が妨げられるのをお許しになりません。

十字架で死なれた神の御子イエス・キリストによって、神はすべての罪と死を、決定的に打ち負かされました。産まれる前に死に追いやられた幼子たちについて言えば、男女や政府、堕胎クリニックやその他の医療機関の罪によって滅ぼされたかに見えるもの、その状況を神はあがなわれ、幼子たちに教会内で普遍的・使徒的使命をお与えになりました。幼子を死に追いやった人たち皆が、悔い改めて、福音を信じるようになるため、そして、彼らが神とその教会と和解するためです。この幼子たちは、十戒と教会の教えの力強い証人とされました。それは、神が幼子たちにお与えになったいのちへの権利を、普遍的に宣べ伝えるためです。

イエス:あなた方が拒絶して滅ぼそうとしたものを、わたしは集めた。全くもって潔白なこの幼子たちは、彼らの十字架につけられた潔白のうちに勝利する神であるわたしの潔白を、証しするであろう。彼らは自分の両親と世に向けて、わたしが罪と死に打ち勝ったことを証しするであろう。その証しが宣言されるにふさわしい場所はわたしの教会であり、教皇と教導権によってである。

ヨハネ1:1−14の一節を注意深く見てごらんなさい。

初めに御言葉があった。御言葉は神とともにあった。御言葉は神であった。御言葉は初めに神とともにあった。すべてのものは、御言葉によってできた。できたもので、御言葉によらずにできたものは、何一つなかった。御言葉の内に命があった。この命は人間の光であった。光は闇の中で輝いている。闇は光に打ち勝たなかった。神から遣わされた人があった。その名はヨハネである。この人は証しのために来た。光について証しをし、彼によってすべての人が信じるようになるためである。彼は光ではなかった。しかし、光について証しをするためにきた。すべての人を照らすまことの光はこの世に来た。御言葉はこの世にあった。この世は御言葉によってできたが、この世は御言葉を認めなかった。御言葉は自分の民の所に来たが、民は受け入れなかった。しかし、御言葉を受け入れた者、その名を信じる者には、神の子となる資格を与えた。彼らは、血によってではなく、肉の意志によってでも、男の意志によってでもなく、神によって生まれた。御言葉は肉となり、われわれの間に住むようになった。われわれはこの方の栄光を見た。父のもとから来た独り子としての栄光である。独り子は恵みと真理に満ちていた。

イエス:この幼子たちの所有権を主張した罪と死の闇は、幼子たちにいのちを与えたわたしの言葉に勝てなかった。幼子たちは、より豊かないのちを得たのですから、全世界に向かってそのいのちと光を証ししなければなりません。わたしはこの小さな子どもたちを、わたしの十字架上の血に浸して洗礼を授けました。彼ら自身の血が、わたしの血とともに流れています。幼子たちは、聖霊によって洗礼を授けられました。

「…霊がある人の上に降って留まるのを見たら、その人こそ聖霊によって洗礼を授ける者である。」

ヨハネ1:33

イエズス:わたしは手を伸ばして、わたしの真理の言葉を幼子たちの口に授けた。

朗読:…「主は手を伸ばしてわたしの口に触れ、わたしに仰せになった、『見よ、わたしの言葉をお前の口に授けた。見よ、わたしは今日、お前を諸国の民と諸王国の上に立てた。根こそぎにし、打ち倒し、破壊し、投げ捨て、あるいは建て、植えるために』…」            エレミヤ1:10

イエス:幼子たちの証しが、教会による彼らの殉教者宣言というかたちで全世界に届くならば、悪と罪の諸王国を根こそぎにし、偽預言者を打ち倒し、邪悪な政府と議員を破壊して投げ捨てます。潔白な幼子を殺すあらゆる方法を考え出し、母性を攻撃し、聖にして潔白な父性を破壊し、国の子どもたちを十字架につける悪魔的科学者と製薬会社を破壊して投げ捨てます。神は存在するという真理を証しする幼子たちのその証しは、神の御国を建てるのに役立ち、また、今は罪と死によって荒廃した土地に、真理と潔白を植えるのに役立ちます。

わたしは幼子たちの岩であり避難所、彼らを救った力強いとりでです。そして子どもたちを迫害した者たちをも救いたいと望んでいます。わたしは幼子たちを邪悪な者の手から解放しました。母の胎にあったときから、わたしは幼子たちの助けでした。わたしとわたしの教会のために、カトリック教会が幼子たちの殉教者宣言をするならば、それはわたしの正義を告げ知らせることになり、また、日々、わたしの救いの助けを宣べ伝えることになります。彼らは「地の果てまでわたしの不思議なわざを宣べ伝える」。(詩篇71、イザヤ49:6参照)

預言者が証しするのは常に、真理と、罪を犯したわたしの民の救いです。幼子たちの預言的証しも同様です。「幼子よ、お前も至高なる神の預言者とよばれ、主の前を歩み、その道を整え、…救いをその民に宣べ伝え」るのです。(ルカ1:68−79、ベネディクトゥス[ザカリアの賛歌])

幼子たちの証しは真理といのち(「わたしは道、真理、いのちである」[ヨハネ14:6])の証言となっています。ヨハネは母の胎内にあったときから、聖霊に満たされていました。わたしはえこひいきしません。産まれる前に攻撃される幼子たちを、わたしが聖霊で満たすことができないと思いますか。

「彼は母の胎内にいる時から聖霊に満たされ、イスラエルの多くの子らを、彼らの神である主のもとに立ち返らせる。彼はエリヤの霊と力をもって主に先立って行き、父の心を子に、不従順な者を徳ある人の知恵に立ち返らせて、主にふさわしい民を、主のために用意する」。(ルカ1:15−17)


[p.25]

1997年11月15日

パトリシャ:わたしたちのうちの何人かが、ロザリオの苦しみの第1の神秘、ゲッセマネの園での苦悩を唱えていました。

イエス:わたしはすべてのカトリック教会で、聖体のゲッセマネの園の苦悩を過ごしています。わたしは長い時間をたった独りで過ごしています。その一方で、わたしが自らのいのちをもっと豊かに分かち合いたいと切に願っている者たちは、わたしとともに起きて時を過ごすのではなく、眠っています。彼らは1時間でさえ、ここに来て過ごしません。


[p.25]

1997年1月28日

パトリシャ:イエス様は、わたしの注意を、聖務日課の朝の祈りの時の気づきに向けさせられましたが、まず、聖務日課の祈りを終えるようにとわたしたちにおっしゃいました。

イエス:あなた方がここに集まって一緒に聖務日課を唱えることは、わたしにとって大きな喜びであり、誉れです。よく学びなさい。あなた方の信仰を深く学ぶことが御父の御旨であることを、決して疑ってはなりません。わたしがあなた方に言ったことを思い出してください。「無知は幸いではありません。無知は無知であり、過ちに導くものです」。あなた方が信仰の知識を深めないならば、持っている物さえ取り上げられて、よりふさわしい者に与えられてしまうかも知れません。謙遜と愛のうちに信仰を学びなさい!

イエス:わたしの子よ、あなたの願いを。

パトリシャ:わたしは自分の家族とすべての家族が、イエス・マリア・ヨセフの主の潔白の家族の一部になるよう願いました。わたしたちの十字架につけられた潔白のうちに勝利するキリストの聖なる潔白を誉めたたえるために、十字架につけられて勝利した潔白の最初の教会が建てられるように願いました。世界中の多くの聖なる家族、聖なる司祭、聖なる修道者、聖なるブラザー、聖なるシスター、そして聖なる独身者が、主の潔白の聖家族の一員になるよう願いました。「主よ、あなたのブドウ畑に急いで働き手を送ってください。そして、幼子たちの殉教者宣言がなされますように」。

イエス:聞き入れられた!わたしの祝福+。


[p.27]

1996年11月21日(ii)、聖マリアの奉献の祝日

パトリシャ:マリア様がお出でになりました。

マリア:わたしの子どもたち、今日わたしが来たのは、あなた方の苦しみを集めてイエスの御心に持って行くためです。イエスはあなた方の試練のすべてを集めて、十字架の勝利まで導かれます。今日、イエスの勝利はあなた方の勝利となります。わたしは、聖にして母なる教会によって、あなた方のうちにあるイエスの聖なるいのちの母です。あなた方の一人ひとりが、わたしにとってはとても尊いのです。「わたしの苦しみは決して終わらない」と言う人もいます。わたしの子どもたち、時は短く、永遠はとても長いです。あなたの苦しみが決して終わらないように感じられるのは、救い主が頑固な霊魂にたどりつくために、あなた方の寛大な捧げ物が必要だからです。わたしの愛しい子どもたち、知っておいてください。あなた方の苦しみを、十字架上のイエスの苦しみに重ね合わせるならば、すでにこの世であなた方は可能な限り大きな勝利を得ているのです。この勝利には無限の功徳があります。

[パトリシャ:十字架上でキリストが御父に、自らを完全な捧げ物としてお捧げしたため。]

イエス:世界中で数々の霊魂が、恐るべき危機にひんし続けています!わたしにあなた方の苦しみを捧げてください!

マリア:わたしの子よ、わかりますね。すべてをイエスに捧げることで、あなたはすでに勝利した平和の君のかたわらにいるのですよ。ああ、わたしの子どもたち、本当に無力で、それでもイエスにおいてとても力強い。天でどんな報いがあなた方を待っていることでしょう、そして、地上では何という喜びでしょう!イエスの十字架の喜びと、平和と、愛を祈ってください。そうすれば、最も深い苦しみの中にも喜びを見いだし、いつの日か、イエスの十字架の栄光と勝利をあなたは見るでしょう!

多くの、多くの霊魂が、破滅の小道から離れるでしょう。数々の霊魂が煉獄から解放され、あなたとあなたの家族は、大いなる恵みの数々を受けるでしょう。幼子たちの大義(訳注:殉教者宣言)は達せられます。

マリア:わたしの母性的祝福を与えましょう+。


[p.28]

1998年3月25日、お告げの祝日

マリア:見なさい、潔白の王を!

パトリシャ:幼き王様が泣いておられます。

パトリシャ:小さき王様、なぜ泣いておられるのですか。

幼子イエス:わたしは失われた潔白のために泣いています。

パトリシャ:小さき王様、わたしたちに何ができるでしょうか。復活した潔白というあなたのメッセージに耳を傾ける人は、ほとんどいません!

幼子イエス:どれほどの代償を払ったことか…どれほどの!わたしは主の潔白の王である。しかし、わたしの治める国の一部をなすべき潔白は、一体どこにあるのですか。わたしが与えようとしている賜物を本当に理解している者は非常に少ない。ああ、潔白にどれほどの自由があることか!わたしの聖なる潔白の道を歩みなさい!

パトリシャ:小さき王様、あなたの御心は、なんと悲しんでおられることでしょう。おなぐさめできれば良いのですが!

幼子イエス:このメッセージを、あらゆる所に広める努力を新たにしてください。自由のうちに歌うならば、あなた方の歌はより甘美なものとなるでしょう。

パトリシャ:小さき王様、神の謙遜なる王よ、わたしたちを祝福してください+。


著作権:パトリシャ・デ・メネツィズ(試訳)2019年8月2日(初金)