日本三古碑の一つ「多胡碑」に行って来ました
https://blog.goo.ne.jp/dappe-hm/e/9a593609f2858defbf1e9c25450b7ee4 【日本三古碑の一つ「多胡碑」に行って来ました・・・古墳も見れました】 より
先日群馬・高崎吉井にある「日本三古碑」の一つ「多胡碑」に行って来ました
「日本三古碑」というまとめ方が生じたのは、明治時代に入ってからと考えられていますが、その経緯は不明なようです
古来古墳時代より鉄剣や石などに文字を刻み、墓の墓誌や死者の副葬品、あるいは特定の出来事を記録する記念碑などに多種多様の金石文が作られました
「金石文(きんせきぶん)」とは、金属や石などに記された文字資料のことで、紙、布などに筆で書かれた文字に対し、刀剣、銅鏡、青銅器、仏像、石碑、墓碑などに刻出・鋳出・象嵌などの方法で表された文字を指します
当時の出来事を鮮明に伝える「金石文」は石に刻まれた即ち碑文、銘文の中で幾つか見つけられます
したがって碑文・銘文は一定の様式を持ち、また、さまざまな技巧がこらされ、書体を含め書道史のうえで重要な意味を持っています
これら「金石文」の中で、「日本三古碑」は書道史上で最も重要とされた栃木・大田原市の「那須国造碑」、宮城・多賀城市の「多賀城碑」、そして高崎市の「多胡碑」の三つを呼びます
これらの三古碑が書道史上で重要とされるという事は、当時の貴人、高僧などの高い教養をもった人物によって刻まれているのは当然として、尚且つある程度の長文が刻まれ、風化、破損が少ないという事で選ばれたものと考えられています
三古碑は、いずれも飛鳥時代~奈良時代にかけての8世紀前後のもので、必然的に文献史学・歴史考古学的にも極めて重要な位置づけとなっていると云えます
「多胡碑}は、1954年(昭和29年)、国の特別史跡に指定され、1996年(平成8年)市立の記念館が併設されました
現在「多胡碑」はガラス張りの覆堂内に保存され、併設された多胡碑記念館と近くの古墳を公園化した吉井いしぶみ公園は整備され近隣市民の憩いの場所となっています
覆堂の中には、「多胡碑」が保存されています
ガラス越しからでも肉眼ではっきりと碑文が読めそうなほど、非常に良い状態で保存されているように見えました
毎年3月9日近辺の休日に「多胡碑まつり」が開催され、この日は覆堂の扉が開かれ一般公開されるのだそうです
訪れたこの日は平日であったせいか訪れる観光客も少なく、静かな古碑見学でした
「多胡碑」は、和銅4年(711年)3月9日に多胡郡が設置された事を記念するために建碑されたものです
碑には、弁官局からの命令が刻まれており、穂積親王(天武天皇皇子)、藤原不比等などの当時の高官の名も伺える記述もあります・・・続日本紀に記載される多胡郡が設置された公の事跡を記念した碑であることを示しています
「多胡碑」は碑身、笠石、台石からなり、材質は安山岩、碑身は、高さ125cm*幅60cmの角柱で、面には6行80文字の楷書が丸底彫り(薬研彫りとされてきたが、近年丸底彫りであることが判明した)で刻まれています
頭部の笠石は高さ25cm*、軒幅88cmの方形造りです
台石には、「國」の字が刻まれていると言われるが、コンクリートにより補修されているため、現在確認できないようです
材質は、近隣で産出される牛伏砂岩(地元では天引き石、多胡石と呼びます)です 「多胡碑」に刻まれた内容は、看板によると、以下のように書かれています
『弁官局からの命令である
上野国の片岡郡・緑野郡・甘良郡の三郡の中から三百戸を分けて新しい郡を作り、羊に支配を任せる
郡の名前は多胡郡とせよ
これは和銅4年3月9日甲寅に宣べられた』
左中弁・正五位下多治比真人。
太政官・二品穂積親王、左太臣・正二位石上尊、右太臣・正二位藤原尊
参考: 日本三古碑の選別は考古学的に古い順によるものではないことを上記しましたが、多胡碑周囲にはこれらより古い碑が近くに点在しています
この辺一帯は吉井いしぶみの里公園として整備されています
多胡碑に関連した展示施設として多胡碑記念館が創られています
公園内の芝生広場に古墳が2基あります
群馬県は知らざる古墳王国で、その数1万2千基以上とも云われています
石垣で園内を巡れますが、「多胡碑」に記述された文字が組み石に大きく彫り込まれていました
これは後から彫り込んだものと思いますが、多胡碑を別角度で偲べます
「和銅4年」はよくわかりますが、「給羊」の字の特に未は古くから注目されていたのだそうです
その「羊」の字は方角説、人名説など長い間論争されてきたそうですが、現在では人名説が有力とされています
人名説の中でも「羊」氏を渡来人であるする見解が多く、多胡も多くの胡人(中国北方の一族)がいたを意味するものではないかとの見解もある上、近隣には高麗神社も存在し、この説が有力と考えられているそうです
今度高麗神社を探してみようと思っています