#平松邦夫 #内田樹 「教育=ビジネス」 勘違い
20110202 平松邦夫×内田樹
「『教育はビジネス』という勘違いがクレーマー親を生む」
「教育は誰のためにあるのか」とことん語ろう 第1回
「現代ビジネス - 平松邦夫元大阪市長、内田樹教授」様より
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現代思想から政治、教育、武道やマンガ論まで、現代を代表する論客であり、1月に21年間勤めた大学での「最終講義」を終えたばかりの内田樹・神戸女学院大学教授。実は昨年6月から大阪市の市長特別顧問という役職を務めている。その内田氏が、平松邦夫大阪市長と、「教育のあり方、果たすべき役割について」というテーマで語り合った。
『おせっかい教育論』という座談本の共著もある2人のトークセッションは自在に広がり、大阪から考える、刺激と示唆に満ちた教育論となった。司会は、現代ビジネス編集長の瀬尾傑。
瀬尾: 教育というと、最近新聞で気になる記事がありました。ある小学校で親御さんが学校から訴えられたという報道です。
学校の中で子どもにトラブルがあり、これに対して問題解決を親御さんが要求したんですが、これがなかなかうまくいかない、と。それで何度も何度も先生に要求をするうちに、先生のほうが精神的に参ってしまった。学校側としては常識はずれの要求で、先生も休職に追い込まれ、業務にも支障をきたす状況ということで、結果的にクレーマーとして訴える騒ぎになった、というのです。
事件の中身については、まだよく分からないこともあります。ただ学校の現場はこれほど追い詰められているのか、と。親と教師が、ともにこんな緊張関係といいますか、萎縮するような状況でやってるのだということをあらためて思い知らされた。内田先生はこの件についてどういうふうにお思いになられますか。
クレーマーはなぜ学校に食ってかかってくるのか
内田: 僕は初等教育・中等教育の現場はよく知らないんですけれども、自分自身が大学の教師で、一昨年まで教務部長をやってたんで、親の側からのクレームがどんなものかは現場で経験してます。端的に言うと、そういうこと言って来る人たちっていうのは心理的に非常に未成熟な方なんですよね。
自己利益の追求にはきわめて熱心なんだけれど、公共性についての配慮がない。さまざまなロジックを駆使するんだけれども、長い目で考えて、教育現場を改善して、質のよい教育環境を形成していこうという発想が欠如している。
ほんとうに教育をよくしようと思うなら、教師も学生・生徒も保護者も周辺の地域社会もすべて含めて、全体として教育活動を支援していくことが必要なわけです。どういうふうにしていい教育環境を整えて、子どもたちの成長を支援するか、それについてみんなで知恵を出し合い、支え合っていくことが原則だと思います。
学校と親が利害の対立する緊張関係にあり、それによって教育がよくなって、子どもたちがニコニコ笑って勉強をするということはあり得ないわけですよ。どういうふうにしたら学校の教育環境が気持ちのよい、のびのびと風通しのよいものになるかをまず考えなきゃいけない。
でも、クレーマーにはそういった発想が全然ない。学校制度の瑕疵をあげつらうことにのみ熱心で、いきなり対立的な関係を作ろうとする。
それは医療の場合もほとんど一緒ですけども、システムと個人の間に非常に緊張感があり、システムの側にもっぱら非があり、自分たちが得るべき利益が失われているとまず考える。そして、大声で自分たちの逸失利益を奪還しようとする。そういう発想で学校や病院に食ってかかってくるんです。
「学校を批判すればシステムがよくなる」なんてあり得ない
対応していて窮するのは、彼らが「子ども」なんだからです。たしかに歳は取ってますよ。40、50歳の人なんですけれどもね。話にならないんですよ。自分の意見は正しいという頭で一杯になっていて、いくら道理を説いて聞かせても感情的になるばかりで。
結局はこっちが子どもをなだめるように、相手のヒステリーを治めるみたいな感じになる。向こうの言いなりに次々と譲歩していくのか、頭ごなしに「バカヤロー」と一喝するのか、どっちであっても、少しも建設的な結果にならないんで、これには本当にうんざりしたんですが…。
やっぱりメディアの責任は大きいですね。クレーマー親を作ったのは、マスメディアの影響が非常に大きい。長いこと…もう20年ぐらい前から、学校で問題が起こるたびにマスメディアは基本的に子どもと親の側に立って、学校を批判するという構えで一貫してきた。どんなことが起こっても、まず学校を批判するというスタンスでしたからね。
学校というのは批判すればするほど、システムとして良質なものに改善されていくと信じて、とにかく容赦なく学校を批判すれば、いずれシステムは改善される、と。そういうあり得ないことを刷り込んでいったのはメディアの責任です。教育の荒廃には報道の責任が非常に大きいと僕は思いますね。
学校はカルチャーショックを受けるための場所だ
平松: 大阪市長特別顧問になっていただいた最初の記者会見で、内田先生は「メディアと行政が教育に口出しすべきではない」と並み居る記者の前でおっしゃった。その時、私は心の中で拍手をしてたんですよ。
やっぱり行政、特に自治体が担当する教育というのは、初等教育、幼稚園も含めて、社会の一員となるための素地をしっかりと育てなければならない。幼稚園に入る前からそれを身に付けている子もいるし、そうじゃない子もいる。いろいろなカルチャーショックがある中で、どうしたら世の中を乗り切っていけるかという知恵を授ける場所だと思うんです。
なのに今は、学力テストの点数だけで、それも算数と国語、2つの科目だけで判断するという形になり、「点数至上主義の再来か」みたいに言われている。(教育行政を担当する)われわれとしても当然国の方針にのっとってテストを受けようと言うわけですけれど、受けた結果をね、じゃあわれわれなりに利用する、その方向を探そうよっていうのを教育委員会で言ってきました。
ナカノシマ大学でわいわい4人で話し合ったことが本になった『おせっかい教育論』(内田樹、鷲田清一、釈徹宗各氏との共著)の中でもそんな話をしましたが、街や社会を構成している一員として、赤の他人であったとしても、新たに入って来る未来の資産となるべき子どもたちをどうしつけるか。
内田先生にしても鷲田先生にしても、釈さんにしても、押さえつけてまで、しっかり教える部分を大切にしておられるのに、今のお話を聞いていると、内田先生のいらっしゃるあの素晴らしい女子大学ですら、教務部長を務めてみると、そういう(クレーマー親がいる)現状がある、と。
どこかで日本人の価値観、人間の価値観みたいなものが倒錯しちゃった部分があるような気がします。それがメディアの責任だと言われると、私も20年前といえばメディアにいたので、そうなんかなあと思う部分、それから、行政の責任者になって新たに感じる部分もあります。
だから、今大切だと思うのは、しっかりした地域社会をどう作り上げるのかということです。
そう言うと、行政はまた「お金を出すからこれやって」という形につい走りがちなんですが、そうではありません。主体性や担い手を地域社会に還元しながら、手助けできるところを手助けする。「走り出した人の邪魔をしない」という行政と地域社会の関係が実現すればよいのになあ、と思います。
教育は自己利益ではなく、共同体を支えるためにある。
内田: 市長が今おっしゃった、教育の根本目的は何かということなんですけどね。僕や市長の立場と、一般の世論の間には大きなすれ違いがある。
教育を受ける側の人が、教育を受けることによって自己利益を増大していく、高い知識や技術を身につけ、学歴を得て、結果的に社会的地位と収入、威信を獲得していく、そのためのプロセスとして教育はあると考える人がほとんどで、そこからクレーマーが生まれてくるわけです。
そうじゃなくて、教育というのはもともと共同体の責務なんですよ。われわれが子どもたちを教育しなければいけない。成熟した市民を一定数、継続的に供給していくことは社会の存続のために不可避の義務なんです。とにかくちゃんとした、真っ当な市民を一定数作り出す。われわれ自身が生き抜いていくため、社会が生きていくために、きちんとした教育をしなきゃいけない、それが教育の最優先の目的なんです。
一番大きなボタンの掛け違いは、教育を受ける者は自己利益のためにやっているんだっていう考え方をすることです。まるで商品を買うように、お金を出して「教育という商品」を買おうとする。そこで得られる学歴や資格や免状や技術で、自分自身を飾っていこうとする。そういうことだと多くの人は考えがちなんですけども、それは倒錯した考えだと僕は思うんです。
市長が「地域」とおっしゃったように、自分たちの共同体を形成する年若いメンバーたちを育て、支援し、激励してちゃんとした市民に育て上げること。自分たちが老いて死んで去って行った後に、「この共同体を次は君たちが支えてね」と伝えること。この支え手を育成していくという集団的な営みに教育の目的はあるんですけどね。この根本のことを繰り返し思い出してほしい。
瀬尾: まさに今起きていることは、教育を受ける側がサービスを買っているということですね。教育という商品を買っている消費者の立場からクレームを言っているという、そんな事態ですよね。
内田: メディアの論調は一貫して「教育とはビジネスだ」ということですよね。学校は教育商品サービスを提供し、消費者である保護者や子どもたちがそれを買っていくんだ、と。適正な価格で質の高い教育商品を提供している学校が選択されて生き残り、そうでないところは滅びていく、と。
市場の淘汰に委ねていれば、教育はどんどんよくなるという市場原理主義的な考え方で教育が語られてきたのがこの20年です。その結果がこうなったわけですからね。この発想そのものを変えなければダメなんです。
先生の権限や裁量が狭められ過ぎている。
平松: 私が最初に内田先生の本を読んだのが『下流志向』なんです。そこでは、現場のことをずいぶんお書きになっていて。えっ、今の学生ってそんなに「自分」や自己主張が強すぎて、自己利益の追求みたいなことばっかり言ってるのかと驚いたんですね。自分の学生時代はそうでなかったのかどうかというのはもう忘れてますけど…。
一方で、今は行政のトップになって、特に義務教育の責任者になるわけじゃないですか、一応。もちろん教育委員会もありますけど。義務教育というのはさっき言ったように、押さえつけてでも「この社会をどうあなたたちは背負っていくのですか」という基本の入口を教えないといけない。ところが、そうあるべき部分が何もかも点数至上主義になっていく怖さを感じています。
大阪市においても、平成23年度から10年間の計画を立てなきゃいけないということで、担当は担当でいろいろ苦労して教育振興基本計画をというのを作っているんです。教育基本法の17条2項で、「地方公共団体は国の計画を参酌し、それぞれの地域に応じた教育施策に関する基本計画を定めるよう努める」とされている。ここでどこをしっかり読むかというと、私は「それぞれの地域に応じた」っていう部分に重きを置きたいんです。
義務教育の入口においては、みんな同じような段階で入ってくるはずだけど、地域といってもいろいろあるんですよね。ただ大阪や関西っていう地域性を考えると、コミュニケーション能力や、あるいは温かさとか広さとか、余裕やゆとりとかいう部分は、まだまだある地域なんだと思ってるんです。だから、そういう地域特性をぜひ現場に生かして欲しい。そういうふうに言い続けているんです。
それから、さっき瀬尾さんがおっしゃった、クレーマーに近い者への対峙のしかた。対決するんじゃなく、クッションになる対応って絶対あるはずなんです。ところが、先生が持っている権限とか、与えられている裁量の範囲みたいなものが極めて狭められているんじゃないかという気がする。しっかりバックアップする人間が組織にいるのかどうかも含めてね。
「とりあえず自分の思うようにやってください」という体制があれば、何か文句を言ってこられたクレーマーに対してもすっと受けられる。いくら強い玉を放られても、ミットの出し方によっては痛いですけど、それを柔らかく受け止めると相手の勢いはその時点である程度は弱まるはずなんですね。そういった対応をしている先生をしっかりと後ろで支える、「大丈夫、俺が見てる」というような体制を作らないと、なかなかうまくいかないんじゃないかと。
内田: そうですね。問題なのは、教師たち自身が「自分たちは教育商品を売って、消費者に買ってもらっている売り手なんだ」というふうに市場原理の教育観を少なからず内面化していることなんです。商品を提供する側とそれを買う消費者という図式で考えれば、当然ながら、「お客様は神様」だということになる。
「神様」である子どもや親たちから教育方法や教育技術や教育理念についてクレーム付けられるということは、飲食店で「なんだこれは! こんなもの食えんぞ」「すいません」っていう関係と同じになって、先生の方がまず「すいません」から話に入っちゃうんです。
消費者が売り物にご不満を抱いてらっしゃる、というふうに考えたら、どんな言いがかりであろうと、とりあえずは頭下げなきゃいけない…そういう発想が教師自身に内面化しちゃってるんですね。実際それが正しいってみんな思ってるんですよ。教育現場で。僕はそれに反対なんです。
「ニーズ」や「数値化」なんかで教育の成果は測れない。
平松: ただ、先生、ちょっと異論いいですか。公立の場合はいいんですが、私学になると「売り物」がいるわけですよね。あるいは何か特化したもの。そういった教育の「質」を要求するほど、高度なクレーマーはいないということですか。
内田: 教育の質に関してですか? ないです。質に関するクレームなんて聞いたことないです。文句つけて来るのは成績と単位だけです(笑)。
平松: 私学っていうのは当然公立よりも授業料が高くて、それに高い金払ってるんだから、もうちょっときちんと教育しろよっていう部分じゃないんですね。
内田: かつてないですね。僕の知る限りでは。
平松: 同じクレームなら、まだそういった内容の方がいいわけですか。
内田: それはね。いや、教育の質について議論に来られたら、こちらも十分に反論する用意があるんですけれど、あいにくそんなの来たことないです。子どもが受けている教育の質なんて興味はないんです。だいたいそんなことは学校に来て実際に授業を受けないと分からないですから。親に分かるのは数値だけなんですよ。だから自分の子どもの点数が低いとか、単位が取れなかった、卒業できないとか、そういうことでしか反応しない。
瀬尾: 実は去年の年末に「現代ビジネス」で田原総一郎さんとソフトバンクの孫(正義)社長との対談があったんですね。電子教科書が大きなテーマだったんですけど、その時に会場で150人ぐらい先生が集まっておられて、少し意見を聞いたんです。
その中で、ひとつショックというか、驚いたのは、ある先生が「私たちは教育現場でニーズに応えようと思って子どもを教育している」というようなことをおっしゃったんですね。
「ニーズ」という発想で教育が行われてることに少し驚いたんです。
内田: それはもう、まさに世論全体がそういう言葉遣いでしか教育を語りませんからね。大学でもそうですよ。
私学の場合だと、やって来るコンサルとか、予備校とかの人たちは、「お客様のニーズにどう応えるか」という話ばかりする。僕は「そんなもんねえよ」っていうんですけどね(笑)。
一同: (笑)
内田: とにかく、「ニーズ」っていう発想を教育に持ち込んだらいかんですよ。
教育の目標は「卒業した後に幸せな人生を送れること」
瀬尾: 新聞なんかでもよく話題になるのがPISA(国際学習到達度調査)でしたっけ、世界の教育ランキング。日本が下がったから日本の教育をなんとかしなくちゃいけないみたいな、そういう論調がよくありますよね。
内田: あんなもので測れるものじゃないですからね。さっきも言ったとおり、公教育の基本的な責務というのは、成熟した市民を育成することなわけで、市民の条件の一部として学力というものもあるかもしれないけど、それはごく一部なわけであって、そんなもので一喜一憂するっていうのはおかしいんですよ。
そうじゃなくて、教育の成否は「日本社会の成員たちが最近はみんな立派になってきたね」っていうことで量るしかないんです。でも、そういうアウトカムは数値じゃ測れない。
瀬尾: やっぱりランキングで測るのおかしいんですよね。
内田: ナンセンスですよ、本当に。
瀬尾: まさに「ニーズ」という発想ですよね。
内田: とにかくよくないのは数値化ですよね。教育のアウトカムを数値化することに僕はずっと反対してきているんです。そんなの、できっこないですよ。「市民的成熟」なんて、どうやって数値化するんですか。たまに「内田さんはどういう目標を掲げて学生を育てようとしているのですか」って訊かれるんですけど、僕は「卒業した後に幸せな人生を送れること」と答えています。でも、それに尽きるわけでしょう。
幸福な人生とか、一人ひとりの卒業生の幸福度なんて、数値的に測りようがない。だから、訊かれても困るわけですよね。「あなたの教育は成功してるんですか」って訊かれてもエビデンスなんかないから。まあ、卒業してからもよく遊びに来るし、結婚式に呼んでくれたり、いろいろ報告してくれるし、総じて楽しそうに暮らしてるみたいだから、僕の教育もそこそこうまくいってるんじゃないですかねっていうことしか言えないわけで。「あなたの教育の成功を数値的に証明しろ」なんて言われても無理ですよ。
平松: 内田先生に私の特別顧問になってもらったことを大阪市教育委員会の教職員がすごく喜んでるという話が、私のところにも聞こえてくるんですけれども(笑)。
内田: すごく困ってるんじゃないかな(笑)
この対談は2011年1月26日に行われました。