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Angler's lullaby

アカシックレコード

2020.09.28 09:00

最近、とあるブログで素敵なおとぎ話のような記事を読んだ。


それはいわゆる「アカシックレコード」というものに関連するもの。


「アカシックレコード」って最近まで知らなかったんだけど、「アカシック」の語源はサンスクリッド語の「アーカーシャ」というもので、それは日本語でいう森羅万象みたいなもの。とてもザックリとまとめると「大自然と神々」、みたいな感じでしょうか。


そして「アカシックレコード」はウィキペディアによると、


「元始からのすべての事象、想念、感情が記録されているという世界記憶の概念で、アーカーシャあるいはアストラル光に過去のあらゆる出来事の痕跡が永久に刻まれているという考えに基づいている。宇宙誕生以来のすべての存在について、あらゆる情報がたくわえられているという記録層を意味することが多い。」


だそうです。要するに、現在・過去・未来が記録されている場所?があって、そこにアクセスすれば全てを知ることが出来る、と。


まぁ、この手の話しは大抵中途半端なオカルトさんたちが利用して良からぬことを考えたり、ボンヤリしたアタマで情緒的にしか物事を判断出来ない人たちの現実逃避ツールになりがちなんだけど、この考え方自体がそれほど奇妙なものだとは思わない。私たち日本人が日頃普通に口にする「神様仏様」と同じだと思う。


そして、僕が読んだそのブログのお話しは要点をまとめるとこんな感じ。


・人類以外の全ての生物はアカシックレコードが見えていて、これに沿って生きている。


・人類だけが未来を予知できない。逆にだからこそ夢や希望を持つことが出来る。


・夢や希望を持てるという驚異的な能力を持つ人類にあらゆる生命が憧れ、人類を尊敬している。


確かに、未来が全部見えてて、人生がその通りにしか進まないのなら、頑張るなんていう考え方自体存在しないだろう。だって、生まれた時点でもう全部決まっちゃってるんだから。


でも客観的に見てみると、これってもしかしてもしかしたらあるかもしれない。


よく、地球誕生から現在までの46億年を1年365日に例えて~なんて話しがあるけど、調べてみると恐竜の時代が大体12月中旬で、人類の祖先が誕生して現在に至る、いわゆる人類史は全て大晦日、12月31日の中の出来事だそう。特に20世紀から現在までをこれに例えてみると12月31日11時59分59秒。地球の歴史で考えると1秒。たった1秒にも満たないわずかな時間で人間社会はここまで急激に発達した。


こんなこと、未来が見えていないからこそ出来たのかもしれない。そして人類以外の生物はそうじゃないからこそ、人類と比べればはるかにゆったりとその命を繋いできた。そんなことも考えたりする。


そして、「あらゆる生命が人類に憧れ、尊敬している。」というくだり。


ここはそのブログの記事をそのまま抜粋して転載させていただきます。とてもいいお話しだと思うから。


要するに、人間は何かを食べて生きなければならないのですが、その関係についてです。私は実は1年半くらい前に、あること(説明は難しいのですが「大阪ショック」という事件がありました)を契機として「肉が食べられなくなる」ということを経験したことがあり、その影響はしばらく続いて、1年くらいだったか、肉を食べない(食べられない)生活が続きました。


しかし、何をどのように食べても、食べなくても、それが「食べることへの何らかの意味となるのだろうか」ということは感じていました。ベジタリアンでもビーガンでも、結局何かを食べる。


そして、人間が自然を痛めつけて、環境を悪くしてきたことは書くまでもないことだと思います。


それらへの解決への道のひとつとして、あることに気付いたのです。


それは、上に書いた「他の動物たちが憧れる夢を持つことのできる人類」と関係していますが、結論を書いてしまうと、


・あらゆる生命が人類に憧れ、人類を尊敬している


ということです。


なぜ、この考えが解決へのひとつの道となるかというと、たとえば、「あなたをものすごく尊敬しています」という人があなたの身近にいたとします。


あなたはその人を軽々しく扱うでしょうか。


普通なら、自分を死ぬほど尊敬してくれている人がいるなら、その人のことを大事にしようと思うのではないでしょうか。


私たちは今まで、特にこの数十年は、食べものを食い散らかしてきました。


あなたの目の前に一匹のイワシがいる。


そして、あなたはそのイワシがあなたをものすごく尊敬していることを知る。


この場合、同じ食べるにしても、これまでの食べる対象とは違った考え方になるのではないでしょうか。


そして、これは昔から「お米を一粒も残さないように食べなさい」と言われてきくた日本人なら、比較的わかりやすいのではないでしょうか。


「お米を一粒も残さないように食べなさい」という部分はもちろんその通りですが、そのあとに、「このお米はあなたを死ぬほど尊敬しているのだから」と。本当に、絶対に、残すことなどできない。


よく、私たちは「食べ物に感謝しなさい」と言われることがありましたが、意味なく感謝しろと言われてもできなかったわけですが、それらが「私たちを尊敬している」と考えると、感謝という意味もわかります。


植物もあらゆる多細胞生物も、そして、もしかすると、鉱物たちも、すべての生命存在が人類を死ぬほど尊敬している。そして、地球は生きている。


なので、地球も私たち人類を死ぬほど尊敬しているはずです。


私たちは私たち人類を尊敬しているものばかりの中で生きることができていたのだということに、これまで気付いていなかったのです。


<引用元>


もちろん、こんな荒唐無稽(こうとうむけい)なお話し、ウソかホントかなんて分かりません。


でも、信じていることは真実(のようなものは)喜ぶ、楽しむ、感謝する、心を開く、といったポジティブな感情の中にあって、悲しむ、恐れる、憎む、心を閉ざす、といったネガティブな中にはそれなりのものしかないということ。


そして、このお話しは読んだ後、少し優しい気持ちになれた。絵本にすると良いものになりそうだと思いました。


さて、今季もとうとう山女魚禁漁間近。


最後は色んな事情で久しぶりの単独釣行。ずっと行きたかった「近所の秘境」目がけて朝暗い内から歩き始めた。



最近はあんまり釣果に恵まれない日々が続いていたけど、それとは別にグッドサイズの山女魚と同じくらい楽しみなものがあります。それは、「風」。


人里離れた山奥で感じることが多いんだけど、良い風が思いかけずヒュウっと吹き抜けてくれる時の、もう何とも言えない幸福感。



春の薫る風、夏の涼しげな風、秋のどことなく懐かしくて、でも寂しげな風。


それぞれにそれぞれの香りがあって、何かに包まれているような気がして、感動で身体が少しブルっとします。


延々と続くフラットな渓相。ゆったりと流れる透明な水。この日の気温は少し夏に戻ったくらいで、それが逆にちょうどいい。


森と水と空と雲。ジャブジャブゆっくりと川の中を歩いて、その中に溶けていきような感覚。そして時折吹く谷の風は、いつもより少し早く訪れそうな秋を教えてくれる。


山女魚はポツリポツリと釣れてくれる。さすがに秘境とはいえもう禁漁間際。誰かが最近入ったのだろう。


「それ、この前見たよ・・・。」的な反応が続く。


この次の淵で。あの瀬の尻で、肩で。あそこに見える岩盤のキワでドリフトかまして・・・。


こんなジレったくも楽しいモジモジも未来が見えないからこそ。そもそも、絶対、アカシックレコードが見えていたら誰もこんなことしないでしょ。結果があらかじめ分かる釣りなんて、ねぇ。


それでもシーズン最後のドラマを、と深追いして奥へ奥へと。どうもここの尺山女魚たちには僕に対する尊敬の念が薄いようだ。



「僕はねえ、アカシックレコードなんか気にしないんだよ。未来を信じて、夢や希望を持ってキミタチに会いに来たんだ。もう少し僕を(死ぬほど)尊敬し賜え。そして、少しだけかまってくれ賜え。」


と心でほざいてみても結果は変わらず納竿。


気がつくと歩いた距離は15㎞。


そして何度か、秋風の優しくて優雅な香りが僕を包んだ。幸せな今季最終釣行だった。