Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

本多正純・宇都宮城修築で許可無く抜け穴の工事をした

2020.09.14 01:07

本丸御殿址で見つけた井戸の跡、あるいは城外への抜け道!?


http://m-yamamoto.seesaa.net/article/122490433.html 【宇都宮城に果たして抜け穴があったろうか?】 より

会津若松の鶴ヶ城や白河城等をくらべれば、オモチャのような宇都宮城の隅やぐらが出来ましたが、筆者が子供の頃は御本丸の西側に高い土塁が残っており、その上に小さな社が祭られて、その下には狐がいたことを覚えております。それは現在作られた土塁よりも高く、私たちには絶好の遊び場でした。

その当時の本丸の話をすると必ず聞かれるのが、城に抜け穴があったのだろうか、という事です。

結論的に書くとすると「抜け穴はあった」と書くのが本当かと思われます。

第二次大戦中、空襲を恐れ、各家では防空壕を掘ったら土地が陥没した例が数多くあったと記録にはあります。例えば、西小学校の中に「二宮金次郎」の石像があり、その前に壕を掘っている時に横穴が発見され、道をはさんで南側の岩崎宅の藪の中に大きな穴があり、穴を入ると奥に六畳敷くらいの部屋があったと言われています。

一、二の例を出してみましたが、このような例は数多くあり、いずれも東西に向かって掘られていた模様です。明示三十三年二月に没した宇都宮城のお庭番的な存在であった、平木駒吉氏が抜け穴を通って、現在の大寛町付近に出て鹿沼に向かって歩いたという記録がありますが、いつ誰が作ったのかは明らかではありません。

 次回は、平木駒吉翁が語った、抜け穴物語を書かせていただきたいと考えております。


http://m-yamamoto.seesaa.net/article/124551806.html 【宇都宮城に抜け穴があった?(2)】より

ここで話の中心人物である平木駒吉について書かねばなるまい。

平木氏の先祖は楠木正成の二男正義であると云われている。

宇都宮城における立場は二の丸詰という箇所で、ここは殿様の御殿に最も近く、何時でも殿様に面接することが出来、更に殿様の密命によって調査報告の出来るお庭番的な存在であったと言われている。

さて、当時宇都宮藩は官軍に屈しており、戊辰戦争の中では北に向う幕軍から集中的な攻撃を受ける立場であった。城の弱点と言われた東側(簗瀬方面)よりの攻撃を受け、城内には負傷者も多く、「一旦城を出て幕軍に入場されても江戸を出発している薩長軍等の支援を得て城を奪還する事が出来る」という重役会議の決定に従って、残っていた六百人の軍勢は居宅に火を放って集合場所を決め、戸祭、西原、鶴田の三方面に散った。炎の明かりが人のいない城を照らしている姿は、現在の私達が考えても淋しいものである。

 ただ、その中を黒装束の男が一人、大刀を背に飛ぶように走っている姿があり、城内に入る門全てを五寸釘で打ち付けて簡単には入れないようにしていた。

 その作業が終わると、二の丸御殿の庭にある物置の中に入って行った。入った物置小屋の足元の板敷の板を取ると、そこに板で出来た階段があり「カビ」臭い風が流れていた。

 この間道は城を去る際、家老戸田三左衛門より教えられたもので、手にした「ガン灯」で照らして見ると、階段の先は土の穴になっていた。高さは約1m20㎝位、大人が腰を折って進める位のもので、歩いていくうちに大人が立って歩ける高さになっていた。その先に3m四方程度の広さの所があり、一休みして再び「ガン灯」で照らして見ると、三本の間道が見えた。

 駒吉は、右の穴に向かって進んでみると10mほどで行き止まり、真ん中の穴も同様であった。左側の穴を行くと、穴は続いていた。

 約1時間も歩くと六畳間ほどの部屋に出た。そこからは穴の途は上りになっており、十分も歩くと行き止まりになっていた。ところが、この地点で今迄と異なった風が天井の方から吹き込んで来る事に気がつき、「ガン灯」で照らして見ると、そこに井戸の釣瓶の桶が吊下っていた。そこでそれが空井戸であり、最後の途であると考えて、下がっていた桶に乗り、一方の綱を引いて古井戸の外に出た。

 暗い夜の事でもあり、そこがどこか判断に苦しんだが、東方面に赤く昇る火炎を見て城の西方である事を知り、あらかじめ打合せの場所に向かったという。

 簡略に書きましたが、歩いてみると最後の井戸は大寛町付近であろうかと考えられます。(N)

https://plaza.rakuten.co.jp/hogehogeto/diary/201110090000/ 【お城の抜け道、なの?】より

(宇都宮城本丸跡。イベントがあったみたいで、後片付けの最中でした)宇都宮城の周辺では、不思議な穴が、いくつも発見されてるんだど。防空壕の跡もあるけんど、ちょっと違う穴もあるらしいんだ。

お城の近くってことで、抜け穴かもしんないって言われてる。本物だったら、すげーべな。ぜひ、もぐってみたいもんだな。忍びになった気分が、味わえそうだべ?

だども、「抜け穴説」にも問題がいくつかあんだ。

 1.御本丸の発掘調査では、抜け穴の入口らしき場所は、発見されなかった。

 2.発見された穴は、横穴らしく、出口や入口部分がどこなのか、はっきりしない。

 3.宇都宮城の堀は、深さが5メートル近くある。地層もやわらかい部分が多く、堀の下を掘るんは難しい。

船で堀を渡ってから、抜け道に入るって考えもあるんだと。これなら、堀の深さは関係なくなるべ。

んでな。この不思議な穴。何時頃造られたかって言うと、江戸時代の初めごろらしいど。

まだ、混乱が続いていた時代で、お城の防備も強化しなくちゃいけなかったかんな。

もしかして、本多正純さまけ?

本多正純は、宇都宮城内の大改装をしているし、城下町の整備もしてる。日光街道と奥州街道も、大幅に整備したって聞いてるど。

秘密の抜け道を作る機会も理由も、たぐさんありそうだべ。って、思ってたら、ほんとにそんな説も、あるみたい。

「抜け穴説」も「本多正純」もまだまだ、研究の途中らしくって、ほんとのことはわかってないんだけんどもな。

 この辺りの歴史って、勉強してみたら、面白いかもしんないな。


http://sanada-nobusige.com/2016/07/13/honda-masazumi/【本多正純(まさずみ)】より

永禄8年(1565年)、本多正信の嫡男として生まれた正純。この時、正信は三河一向一揆に参加して徳川家康に反逆しました。その後、一揆が家康によって鎮圧されると、家中を追放されて大和の松永久秀を頼ります。

しかし、正純は母親と共に三河に残り、大久保忠世(大久保忠隣の父)の元で保護されました。やがて、父・正信が家康のもとに復帰する際にも、同じく大久保忠世の助力を得てのことでした。

家康に親子2代に渡って仕え、重用された

正信が復帰すると、正純も共に家康に仕えることになります。父と同じく智謀家の正純は、これまた父と同じく家康の信任を得て重用され、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは家康に従って本戦にも参加。戦後、家康の命令で石田三成の身柄を預かるなどの大任を果たしました。

慶長8年(1603年)、家康が征夷大将軍となって江戸に幕府を開くと、家康にさらに重用されるようになりました。

そして、徳川家の後継者候補選びでは、父・正信とともに正純は結城秀康を推挙。一方の秀忠は大久保忠隣に推挙されています。

やがて権勢を誇る正純

慶長10年(1605年)、家康が将軍職を秀忠に譲って大御所となり、家康と秀忠の二元政治が始まると、江戸の秀忠には大久保忠隣が、駿府の家康には正純が、そして正純の父・正信は両者の調停を務める形で、それぞれ補佐として従うようになります。

正純は家康の懐刀としてその頭脳を活かし、やがて頭角を現すと、家中において絶対的な権勢を持つにいたりました。(※家禄は、下野国小山藩3万3,000石の大名身分)

慶長17年(1612年)2月、正純の家臣・岡本大八が詐欺を働き刑に処されます。(※岡本大八事件=大八がキリシタンであったため、これ以後、徳川幕府の禁教政策が本格化する他、正純本人の信用にも影響を及ぼしたと考えられます。)

慶長18年、秀忠を2代将軍に推挙した大久保忠隣が改易。本多家にとっても三河一向一揆の際には帰参の助力などの恩もあった大久保家ですが、この頃には互いに大きな勢力となっており、忠隣の改易に関しては、本多正信・正純父子が、政敵である忠隣を追い落とすために策謀を巡らせたとする見解があります。さらに、正純は岡本大八事件で政治的な地盤が揺らいでおり、忠隣を排斥することで足場を固めておきたかったとする説も。その後、正信・正純父子の権勢は以前の10倍になったともいわれています。(※ただし、諸説あり。事の真相ははっきりとしていません。)

そして翌年の慶長19年(1614年)、大坂冬の陣。徳川氏と豊臣氏の講和交渉で、大坂城内堀埋め立ての策を正純が家康に進言。豊臣滅亡の大きな決め手となり、徳川の天下は盤石のものとなっていきます。

秀忠の時代

元和2年(1616年)、家康が死去。その後、正信が後を追うように没すると、正純は江戸に転任して秀忠の側近となります。しかし、家康存命の時代から権勢を誇ってきた正純に対して、その他の側近からの妬みや、将軍である秀忠本人からも疎まれる存在となっていたと考えられます。(※なお、正純の知行地は家康と正信が死去した後、2万石を加増されて5万3,000石の大名となっています。)

後ろ盾の家康が亡くなり、秀忠が主導権を握ったことで次第に幕僚の世代交代が進み、秀忠の側近・土井利勝らが台頭。正純の影響力、政治力は弱まっていきました。

やがて失脚へ

正純の父・本多正信は生前、本多家の知行地に関して「加増3万石までは本多家に賜る分としてお受けせよ。だがそれ以上は決して受けてはならぬ。もし辞退しなければ、禍が必ず降り懸かるであろう」と説いていたと言います。さらに正信は秀忠に対しても、「もしこれまで正信のご奉公をお忘れでなく、長く子孫が続くことを思し召しされるのなら、正純の所領は今のままでこれより多くなさらないように」と嘆願したとも。

しかし、元和5年(1619年)10月に福島正則の改易後、亡き家康の遺命であるとして、正純は下野・小山藩5万3,000石から宇都宮藩15万5,000石に加増を受けてしまいます。

元和8年(1622年)、正純は秀忠暗殺を画策したとされる宇都宮城釣天井事件などを理由に11か条の罪状嫌疑を突きつけられます。正純は最初の11か条については明快に答えたと言われますが、追加質問された3か条については適切な弁明ができませんでした。その3か条とは、城の修築において命令に従わなかった将軍家直属の根来同心を処刑したこと、鉄砲の無断購入、宇都宮城修築で許可無く抜け穴の工事をしたことでした。そして、先代からの忠勤に免じて出羽5万5,000石に移封の命を受けますが、謀反に身に覚えがない正純は毅然とした態度で応じ、その命を断ってしまいます。これが秀忠の逆鱗に触れ、本多家は改易。知行はわずか1,000石のみとなり、身柄は佐竹義宣に預けられて流罪となっただけでなく、後に幽閉の身となりました。

こうして、正純の失脚により、家康時代にその側近を固めた一派は完全に排斥。土井利勝ら秀忠側近が影響力を一層強めることになりました。

真相は闇に

家康からの厚い重用を受けた父・正信とその子・正純。徳川家と世の天下泰平のため、謀略の限りを尽くした父子。最期は謀略による末路を辿ることになりました。しかし、その誇った権勢について、私心はなかったのではないか?ともとれるむきもあり、本人たちは周囲からの反感を自ら進んで買っていた可能性を感じてしまいます。

寛永14年(1637年)3月10日、正純死去。享年73歳でありました。


http://m-yamamoto.seesaa.net/article/125635029.html 【本多正純の町づくりについて】より

本多正純というと宇都宮釣天井の話と結びつかれますが、果たしてそうでしょうか?

本多正純と言えば徳川家康の四天王と言われ、家康の政治面での立役者とも言われて居りました。

元和5年(1619)、静岡の地より宇都宮城主に着任と同時に城郭及び城下の道路開通、町道の大改革を断行しました。

宇都宮は将軍が日光へ参詣する時の宿城であり、また、江戸城の奥(東北地区を指す)の堅めとして重要な場所であるところから、名実ともに立派なものにしようと考えたためと思われます。

 その改革の一つとして、二の丸、三の丸を堅固にし、御手門を江野町に移し、城内三の丸に三日月堀を新造し城郭の石垣を補修。

今まで奥州街道と言われていた城内を通り中河原押切、上河原に至る道を不動前から新たに南新町を通り、池上町、鉄砲町、曲師町、日野町、上河原を通って、今泉に至るように道を開きました。

 また、二荒山神社から日野町まで続いていた丘陵を切り開いて、現在の大通りの基礎を作ったり、相当の改革を行いました。

正純は幕府の最高幹部であったので、それなりの城も城郭用地も掘も作りたかったろうと考えられます。

 しかし、この宇都宮の市街地を整備した大きな事業も、幕府内の権力争いに巻き込まれ、釣天井等、実際には何もないことを作り上げられ、失脚させられたことは誠に気の毒と言わねばならないと思います。


https://blog.goo.ne.jp/tennnennkozi/m/201910 【宇都宮釣天井事件】より

大久保武蔵鐙と言う書物があります。江戸時代のいわゆる実録本で、徳川家康、秀忠、家光の三代の将軍に仕え、天下のご意見番と称された大久保彦左衛門の様々なエピソードを中心に描いていて、「宇都宮騒動記」、「松前屋五郞兵衛之伝」、「彦左衞門功蹟之記」の三部からなります。

大久保武蔵鐙の作者や作成時期は不明で、1883年(明治16年)に古今実録本として活字化される頃までは、写本として流通していましたが、1794年(寛政6年)には、その一部を翻案した歌舞伎が初演されているので、その頃までにはおおよその原形が出来ていたと考えられています。

この「宇都宮騒動記」に述べられているのが、宇都宮城釣天井事件です。宇都宮城主の本多上野介正純が、徳川家光殺害して、家光の弟の忠長を将軍にしたいと思っていたところに、家光が、東照宮のお参りのために下野の国を通ることに決まります。正純は、家来に命令して釣天井の湯殿を大工に作らせました。その大工の中に与四郎という正直者が、城から抜け出して、釣天井の話をします。その後、秘密を守るために大工たちは、殺されてしまいましたが、与四郎の話を聞いた者が、将軍に訴え家光公は危うく命をとりとめ、本多正純は切腹させられたとの話で、釣天井伝説と呼ばれています。

江戸時代の庶民は、この伝説が真実と信じられていたのかも知れません。しかし、この伝説には、明らかな間違いがあります。

本多正純が宇都宮城主の時の将軍は徳川秀忠であり、本多正純は改易されて出羽国で幽閉されて亡くなりますが切腹ではありません。

この伝説の元となったと思われる出来事があります。1622年(元和8年)、正純は秀忠が家康の七回忌に日光東照宮を参拝した後、宇都宮城に1泊する予定であったため、城の普請や御成り御殿の造営を行わせます。

4月16日に秀忠が日光へ赴くと、秀忠の姉で奥平忠昌の祖母・加納御前から「宇都宮城の普請に不備がある」という密訴があります。

内容の真偽を確かめるのは後日とし、4月19日、秀忠は「御台所が病気である」との知らせが来たと称し、予定を変更して宇都宮城を通過して壬生城に宿泊し、21日に江戸城へ帰還しました。

8月、出羽山形藩最上義俊の改易に際して、正純は上使として山形城受取りのため同所に赴きます。その最中に秀忠は、鉄砲の秘密製造や宇都宮城の本丸石垣の無断修理、さらには宇都宮城の寝所に釣天井を仕掛けて秀忠を圧死させようと画策したなど、11か条の罪状嫌疑を正純へ突きつけました。

伊丹康勝と高木正次が使いとして正純の下に赴き、その11か条について問うと、正純は一つ一つ明快に回答します。しかし、康勝が追加で行なった3か条については回答することができませんでした。

その3か条とは、城の修築において命令に従わなかった将軍家直属の根来同心を処刑したこと、鉄砲の無断購入、宇都宮城修築で許可無く抜け穴の工事をしたことでした。

このため、所領は召し上げられます。

ただし先代よりの忠勤に免じ、改めて出羽由利郡に5万5000石を与えると命じました。謀反に身に覚えがない正純がその5万5000石を固辞したところ、逆に秀忠は怒り、本多家は改易となり、正純の身柄は久保田藩主佐竹義宣に預けられ、出羽横手への流罪とされ、1637年(寛永13年)、73歳で生涯を終えました。

この背景として、家康の側近だった正純と秀忠側近の土井利勝などとの対立があったと考えられています。福島正則の改易を巡って、秀忠を正純が諌止した事などもあり、秀忠からもうとましく思われていたのかも知れません。

さらに、家康存命中から本多家と大久保家の確執も取り沙汰されています。日光に参詣していた秀忠一行に密訴したとされる加納御前は亀姫と呼ばれ、家康と築山御前の娘で、家康から自殺を命じられた松平信康の妹で、奥平信昌の正室になっています。

信昌・亀姫夫妻の一人娘が、大久保忠隣の嫡子・大久保忠常に嫁していたため、大久保氏と奥平氏の関係は緊密でしたが、大久保忠隣は理由が明らかでないのに失脚し、その背後に正信・正純父子の陰謀があったとされています。

更に、わずか7歳で宇都宮藩主となった亀姫の孫の奥平忠昌は、12歳の時に下総古河藩に転封となり、入れ替わりに正純が宇都宮に入封しています。正純改易後、奥平忠昌は宇都宮に戻っています。改易の知らせを聞いた、忠隣の親戚に当たる大久保忠教(彦左衛門)は、誣告を用いて忠隣を陥れた因果を受けたと快哉を叫んだとも伝えられています。大久保武蔵鐙が大久保彦左衛門の事蹟をまとめた書物である事からすると、正純を悪く描くのも不思議ではないかも知れません。