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「朝鮮通信使の真実」の紹介

2020.09.16 02:32

https://blog.goo.ne.jp/reiwanihonshi/e/4b35ce8d201f00105bd64f84ed47500d  【「朝鮮通信使の真実」の紹介 朝鮮通信使は友好使節ではない 事実上の朝貢使節だった】 より

日本に帰化して13年、良質な元中国人、石 平 氏の渾身の一冊「朝鮮通信使の真実」の紹介 

日本人を「羈縻」(きび)と見下した朝鮮人朝鮮通信使は友好使節ではない事実上の朝貢使節だった。

日本人に、美しい国土に、文化にも、日本で見るもの聞くものすべてに難癖をつけた通信使

現在何かと問題の多い韓国だが、韓国が李氏朝鮮の時代には、日本に朝鮮通信使を派遣していた史実がある。

この通信使は一体何の目的で日本にやってきたのだろうか。日本人が学校で習い、また現在通説となっている「友好親善のため」とは全く違う目的があったのである。

最初は大阪落城後、九年を経て、徳川家康が江戸幕府を樹立した時が第一回に当たる。

詳しくは江戸時代の慶長十二年から、文化八年までの二百数十年間、朝鮮王朝は十二回にわたって、徳川幕府に、外交使節団を送ったのである。

これは日本が朝鮮使節をお願いして呼んだわけではない。向こうが自主的に、勝手にやってきた。

当時の李氏朝鮮も中国(明)に朝貢していて、日本にも同じく朝貢していたのが実態である。

この通信使の正使や副使らの書いた「日本見聞記」には驚くべきことが書かれている。

それは日本に対する劣等感から生まれた、日本増悪が文中の至る所で爆発している。

以下にこの本の一部、106ページから109ページを引用して紹介します。

以上は、現代の韓国人学者である鄭章植氏によって紹介された、朝鮮通信使節団の一員である南龍翼の示した通信使派遣の目的に対する認識であるが、その中で南龍翼はまず、通信使の派遣は清朝の朝鮮に対する侵攻とは関連性のあることを示唆した。

「朝鮮は『胡乱』(清の侵入)に遭いながらも、南辺の不安を憂慮した云々とはまさにその意味である。

それは、本書の第一章の分析とも合致しているところであるが、その一方南龍翼は、「日本に頼るのではない、日本の武力を借りるつもりはない」ことをことさらに強調して、朝鮮王朝のプライドを守るために、日本に頼っている事実を必死になって取り消そうとしているのである。

そして案の定、彼はここではやはり、「羈縻」という言葉を持ち出して、日本への通信使派遣は文明的上位国の[蛮夷]に対する教化政策だと解釈した。

 世界大百科事典第2版の解説によると、いわゆる「肩摩」云々とは、中国歴代の王朝が周辺民族に対してとった「肩摩政策」のことを指している。

語源的に言えば羈縻の「羈」が馬の手綱。「縻」が牛の鼻綱のことで、そこからつなぎとめる意味に転じたという。

文明の中心国が周辺の「蛮夷民族」を手綱や鼻綱で馬や牛をつなぎとめるように懐柔して支配下におくのは、まさにこの「羈縻」という言葉の意味合いである。

 朝鮮知識人の南龍翼はここで、朝鮮を文化的中心国だと自認した上で、日本のことを牛や馬のような「蛮夷国」だと見なし、朝鮮による「羈縻」の対象にしているのである。

したがって彼から見た朝鮮通信使の使命とはまさに、朝鮮王朝の「正道」にしたがって、日本を「羈縻」し「教育感化」するために日本にやってきた、ということである。

 しかしどう考えてみても、南龍翼の示したこの認識は、現実の中にある日本と朝鮮の立場と、現実にある通信使の実態とは正反対であろう。

 朝鮮は文明的上位国として日本を「羈縻」しているわけでは全くない。そんなことはできるはずもない。

朝鮮はただ、日本に平身低頭して朝貢使としての通信使を大人しく派遣してくるだけの国である。朝鮮は文化的中心国として日本を「教化」しているわけでもない。

水車もサツマイモも日本から導入しなければならない朝鮮は、一体どうやって日本を、教化」すのであろう。

 そして、このことを何よりも知っているのは南龍翼らの通信使ある。毎回の朝貢の旅では彼らは徳川将軍に向かって朝貢の拝礼以上の四度半礼をしなければならないし、幕府からの朝貢使扱いに甘んじる以外にない。南龍翼本人に至っては、彼が従事官を務めた通信使節団の任務は日本の将軍家の世継誕生への祝意表明であることは周知の事実であり、彼らの一行もまた、家光の命によって不本意の東照宮参詣を余儀なくされた。

 つまり南龍翼は、自分たち通信使のやっていることが屈辱の朝貢であることを身を以て知りながら、「羈縻」だの「教化」だのの上目線の言葉を持ち出して、自分たちの惨めな立場を粉飾する以外にないのである。それこそは阿Q流の精神的勝利法の朝鮮版そのものであるが、こういう立場に立たされた朝鮮知識人の哀れさと苦しさは、痛いほど分かってくるであろう。

 こうした哀れさと苦しさの中で、通信使として来日した多くの朝鮮知識人の場合と同様に、南龍翼のとった心の自己防衛策の一つはすなわち、自分たちの得意する儒学や詩文を鼻にかけて、日本人を徹底的に馬鹿にすることである。

例えば南龍翼の日本人に対する酷評について、鄭章植著・前掲書はこう記している。

 「『人物』においては、(南龍翼からすれば日本が)海外の無識な土地なので、これと言える人物もまったくないが、例外的に目につく者がいると、古来の文士二十人、武将十九人、現存の老中を評価しているが、やはり人物についても酷評に近い。当時の日本文筆界の第一人者と言われる林羅山を、

『詩は格調がまったくなく、文も蹊径に疎く』」と記したように、もっぱら儒学と詩文が人物を評する尺度になった」

 「(南龍翼が)帰国後に書いた使行録には、日本の儒学を指導する立場で忠告し、日本の詩文が稚拙だと評し、日本の学問をそしるのが常であった」(鄭章植著・前掲書)

 鄭章植著・前掲書はまた、南龍翼が囗本の詩文と学問を譏るために書いた下記の文章・・・・・・・。

以下略

韓国が何故現在も日本を貶めることばかりするのかという詳細は、本書を読んでいただければ理解できるでしょう。

現在の韓国を知る上での必読の書と言えます。

ここからは私の持論になるのだが、日本の奈良時代は紛れもない百済人が建てた政権なのである。

(ここのところの詳細は、当ブログ「坂上田村麻呂」も併読していただきたい)

日本に来ていた百済(馬韓)人が、奈良に君臨し、同じ朝鮮半島からきて日本に定着していた新羅(辰韓)人や高麗(弁韓、現在の北朝鮮)人たちを、蛮族として撃ち払い、寒冷地の東北地方へ押し込めた歴史がある。

その後大陸の強国唐が勃興し、半島の朝鮮三国は占領され、余勢をかって唐は日本に上陸し奈良王朝を倒し、藤原王朝をたてた。

これを日本史では「平安時代」という。この王朝は三百六十年続くのだが、源頼朝の騎馬系部族と(新羅系、高麗系を含む)北条政子の海洋渡来系部族が協力して、鎌倉幕府を開いた。次の足利氏の室町幕府、戦国時代から信長、秀吉の桃山時代を経て、家康の江戸時代となるのだが、これらは全てが、騎馬民族系か海洋渡来系、即ち「日本原住民系」の政権なのである。

豊臣秀吉になると、天皇家を取り巻く公家たちは大陸系血脈だから、彼らを纏めて大陸へ追い出し、己が日本原住民を代表して新天皇になろうとした。

そのために己の新御所として、京の十丁四方を取り壊し、豪勢な聚楽第も建てた。

大陸に打ち入るため朝鮮を通り道として(文禄・慶長の役)北京周辺を占領して天皇や公家たちに与えようとしたのである。

だから、朝鮮の占領など全く計画になかった。しかし朝鮮としては秀吉の雄大な計画など知る由もなかったから、日本軍と戦った。

しかし、武力(鉄砲)の差は圧倒的に日本が優勢で、朝鮮は敗北の一歩手前まで行ったが、大陸の明軍が鴨緑江を渡って援軍として来てもらい敗戦は免れた。

この戦争により、朝鮮は、国土は荒廃し人心も乱れ、日本を恐れ憎むことになる。

だから朝鮮通信使の第一回は、家康が国交回復につとめた結果、日朝和約が成立したので「回答兼刷還使」と呼ばれていた。

秀吉に侵略され懲りたので、次の徳川政権の動向を探りに来たのである。

だから朝鮮としては、かっては奈良時代、日本に君臨していたのに、秀吉によって逆に攻められ苦しんだ。

その後、江戸時代になると、軍事も文化も経済も全てが朝鮮を凌駕している現状を羨み、妬み、その裏返しの感情が精神的優位性に頼った結果、悪口雑言の羅列になったのだろう。

現在発行されている韓国、中国関係書物の一部を以下に挙げておきます。

「ゆすりたかりの国家」「歴史を捏造する半日国家・韓国」「韓国・韓国人の品性」「反日・親北の韓国はや制裁対象」「恩を仇で返す国・韓国」

「韓国を救った日韓併合」「優しい日本人哀れな韓国人」「中国・韓国の正体」

史実を丹念に抉剔した良質な本が多いが、紹介した「朝鮮通信使の真実」は是非一読していただきたい珠玉の一冊です。