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ユネスコ「世界記憶遺産」と朝鮮通信使、そして栃木

2020.09.16 02:44

https://cocplus.utsunomiya-u.ac.jp/backnumber/column/column22.html  【ユネスコ「世界記憶遺産」と朝鮮通信使、そして栃木】 より

日光を最初に訪れた外国人が、400年前に朝鮮から派遣された外交使節団、朝鮮通信使だということを皆さんはご存じでしょうか。

江戸初期、三代将軍家光は祖父家康が眠る日光東照宮の全面的造り替えを行い、1636年境内を現在見る豪華絢爛の建築群で埋めました。絢爛たる彫刻群に埋まる陽明門や精緻の限りの唐門、優美典雅の本殿もこの時に完成したものです。ちょうどその年の暮れ、通信使が来日すると、造り替えたばかりの東照宮の威容を一向に見せようと、家光は彼らを東照宮に招待しました。通信使側の辞退や幕内の紛糾などの問題はあったものの、以後3回に渡って数百名ずつもの通信使が日光を訪れ、徳川幕府との間に格式高くかつ華やかな交流が行われていたことは、日本側の史料と朝鮮側の史料、日光東照宮と輪王寺が所蔵する朝鮮国王からの進物、さらに通信使が書き残した日記などが雄弁に物語っています。

豊臣秀吉の後を継いで徳川幕府を開いた家康は、「善隣外交」を旨とした友好的な政策を重視し、秀吉の朝鮮出兵で悪化した両国の関係を回復すべく戦後処理を行ないました。その結果として、通信使が日本にやってくるようになり、幕末まで12回(1607〜1811)派遣されました。最大で500人規模の一行は対馬や瀬戸内海、陸路をへて江戸に入り、朝鮮国王の国書を将軍に届けましたが、そのうち日光にも3回足を運んだのです。

第1回目の1636年は家光の強い要望により、思いがけなく日光を遊覧しましたが、この時の様子が日光東照宮所蔵の『東照社縁起絵巻』に描かれています。2回目の1643年は、幕府との事前交渉で東照宮に国王親筆や銅鍾、三具足(香炉・燭台・花瓶)などを寄進し、江戸城における国書奉呈に劣らない重要な儒教式セレモニーを執り行いました。第3回目の1655年も幕府の強い要請により、家康を祀る東照宮を参拝した後、東照宮造営に尽くした家光を祀る大猷院霊廟に国王親筆の額字と銅灯籠一対、楽器十種などの進物を供えて朝鮮式祭儀を行なっています。

『東照社縁起(仮名本)』(21)朝鮮人 写真提供|日光東照宮宝物館 この絵巻には、初めて日光を訪れた通信使一行が造り替えを終えた東照宮の石鳥居をくぐる様子も描かれています。

これらの儀式と進物の品々は、江戸初期の日本と朝鮮との善隣友好の歴史に日光が如何に深くかかわっていたかを教えてくれていますが、両国の友好関係に関わっていたのは日光だけではありません。

江戸城で国書の奉呈式を行なった通信使一行は3泊4日の日程で日光へ出かけましたが、その際彼らは、江戸―粕壁(現、春日部)―小山―宇都宮―今市(現日光市)―日光―江戸というコースを利用していました。宿泊先となった小山と宇都宮と今市は無論、佐野市、栃木市、大田原市などにも通信使関連史跡が残されています。

その史跡とは、小山市の大川島神社と佐野市の沼鉾神社、栃木市の満願寺、そして大田原市の福原八幡宮が所蔵する大型絵馬です。通信使の行列の様子を描いた絵巻や屏風、掛け軸などは各地に数多く残っていますが、栃木県に残るこれらの大絵馬は、通信使の来日が当時の庶民の間でも大きな関心を集めていた国際的なイベントであったことを伝える貴重な歴史的文化財なのです。

しかしながら、小山市をはじめとする地元の人々は無論、市の関係者がこれらの絵馬の存在を十分に認識しているとは言い難く、地域の文化遺産としての活用や内外への広報活動も低調と言わざるを得ません。

昨年10月、ユネスコの「世界の記憶」に朝鮮通信使に関する記録が登録されて話題になったことを皆さんは覚えているでしょうか。登録された「記憶」は、通信使一行が通った地域に残されていた外交文書と旅程、文化交流の記録を伝える文献、絵図など333点(日本209点、韓国124点)です。その目録を見てみると、「朝鮮国王親筆の額字」(輪王寺大猷院所蔵)と、『東照社縁起』(仮名本第5巻のうち第4巻)に描かれた「朝鮮通信使参入之図」(狩野探幽筆)と同真名本(全3巻のうち中巻)に所収されている朝鮮通信使の漢詩(16点)の登録が認められました。しかし、東照宮以外の神社や寺、栃木県立博物館などが所蔵する史跡は「世界の記憶」に選ばれませんでした。

大川島神社をはじめ沼鉾神社、満願寺、そして福原八幡宮には残念な結果となりましたが、朝鮮通信使関連資料がユネスコの世界の記憶に登録され、その資料が広く公開されることによって、それまで注目されることのなかった栃木県に残る朝鮮通信使関連史跡の存在とその歴史的・文化的価値にも照明が当てられるようになるのではないかと、私はひそかに思っています。

文|国際学部 教授 丁貴連(チョン・キリョン)

イラスト|教育学部総合人間形成課程 田宮知羽


http://gototakaamanohara.livedoor.blog/archives/176257.html 【蓬壺】 より

明暦元年(1655)、朝鮮通信使の南龍翼は、日光社参の途中、宇都宮に逗留し、宇都宮と題した以下の漢詩を詠みました。

宇都宮

南龍翼

縹渺仙宮掲宇都  幽妙なる仙宮は宇都と名付けられ、

宛然風物小蓬壺  その風景はあたかも小さな蓬莱である。

津欠大里連長路  津欠大里は長い路に連なり、

陸奥雄州接勝区  陸奥の雄藩が名勝の地域に接する。

漢使乗槎終豈到  漢の使節が筏に乗ってきても終にどうして至ろうか(いや至らない)。

秦皇度海足応濡  始皇帝は海を渡らんとして足を濡らしただけであろう。 

至今杜老無遺恨  今に至っては杜甫が詠み残した恨みはないであろうが、

踏尽扶桑地一隅  私はこの(先人が行けなかった)扶桑(日出づる国・日本)の一隅を踏破した。

訳・五島高資

欠・欠字

「蓬壺」とは、蓬莱のことでまさに神仙境のことです。また、宇都宮は「宇宙宮」だという人もいます。なお、『古事記』における宇都志国とは、眼に見える国土、つまり豊葦原中津国のことで、宇都志国玉神とは大国主命のことであり、やはり、国津神の系譜にあるようです。