西海讃歌
2020.09.16 09:52
作詞:藤浦洸
作曲:團伊玖磨
西海讃歌の歌詞
空いっぱいに、空があるように
海いっぱいに、海があるように
人よ、人よ心いっぱいに
美しい心を持って
この空を、この海を、この土を
愛そう
長崎の人は知らない人はいないくらい長崎の有名な曲です。
私が子供の頃は天気予報で流れていました。
21時前に流れていましたので、これが終わったら「おやすみなさい」と言って2階に上がっていました。
私にはとても切なくなる曲です。
こうして改めて歌詞を読んでみると、これが本来の美しい人々なのだと思います。
皆さん一人一人、必ずしも持っている「美しい心」。
今だからこそこの美しい曲を、全国に知れ渡ってほしいと思います。
私は長崎市で生まれ、物心着いた時には西彼杵郡多良見町(現、諫早市多良見町)にいました。
父母と暮らすアパートと母方の実家を行ったり来たり。
あまりいい思い出はありません。(ブログの祖母からの日記帳を読んでみてください。)
母方の祖父は小学校教諭。祖母は役場で勤めていた過去もあり、長崎にいる間は公務員家庭で育ちました。
私は出来の悪い子でしたので、祖父母の期待に応えられる子ではありませんでした。
今でも申し訳ない気持ちでいっぱいです。
本来なら長崎大学教育学部を出て、教師にならなければいけなかったのに…。
母方の家を継ぐことができなかった。
転校をしたのでずっと長崎にいた訳ではありませんが、それは言い訳になります。
学力も体力もあれば、長崎大学に行けたはずなのですから。
祖父母がなぜ私に期待をもったのかは、おそらく母に原因があるからです。
母は途中で短大をやめて、私ができたことにより結婚しました。しかも祖父母が思う悪い男と。
だからこそ孫である私に期待を持つのは自然なことでした。
祖父母は私を孫ではなく娘扱いしていました。
とても厳しかったです。
母からは「あんたが生まれてこんならよかったとに!」と言われて育ち、私が小学3年生の時に母は失踪。
本気で「私が悪い子だからお母さんはいなくなったんだ」と思いました。
母にとって、私は本当にいらない子でした。
私が生まれなければ幸せになっていたとハッキリ言われましたし、早く死んで!(本当に包丁で刺されそうになったこともあります。)とも言われました。
どちらも叶えることはできませんでした。
子供というのは親の期待に応えなければいけないものだ、と6歳くらいにはわかっていました。
算数がわからないと祖父から「こげんこともわからんとか!」と怒られ、遊園地に連れて行ってもらっても、私は黙って乗り物に乗って手を振るだけだったので「子供らしくなか!」とまた怒られていました。
とにかく周りの顔色を伺って過ごしていました。
小学一年生から三年生まで、毎日のようにあの西海讃歌の流れる天気予報を見ては、せつない気持ちになって布団にくるまっていました。
美しい心とはいったい何なのかわからず、愛されたいと泣きながら寝ていました。
「私は生まれてきてはいけなかったのに、養ってもらっている」
それは高校3年生まで続きました。
母は仕方なく私と暮らしていたので申し訳なかったです。
自分の子供でも可愛くない子というのは存在します。
母も本当は辛かったのかも知れません。
産みたくなかったのに産まなければならなかった。
育てたくないのに育てなければいけなかった。
一度捨てたけど、周りに言われて仕方なくまた引き取った。
最近は母のことも少し理解できるようになってきました。
もちろん祖父母のことも。
それが成長なのかも知れません。
養ってもらった感謝は永遠です。
(あえて育てるという言葉を使わず、養うという言葉を使わせてください。)