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将棋じゃないほう。~吉森弘太郎の新宿囲碁教室~

「囲碁と武将たち」~徳川家康編~

2020.09.24 09:10

さて、お次はもちろんこの人。鳴くまで待とうの家康さんです。

家康さんも囲碁はかなり好きだった模様。前回私は秀吉を「戦国一の碁好き」だと紹介しましたが、家康の方が・・・という囲碁の歴史に詳しい諸氏も多いのではないかと思います。

しかしですね、家康さんは一番の趣味があるんですよ、それはね、

「鷹狩り」

です。鷹狩りって何ぞや?って方もいると思いますが、「鷹を使った狩り」のことです。

ざっくり説明すると、獲物(ウサギとか)を大勢の人を使って追い込んで囲みを作った後、鷹を放って鷹に獲物を捕まえさせるという感じ。

家康の軍師として知られる本多正信という武将がいるのですが、彼は元々鷹匠だったそうですし、かなり鷹狩りには造詣が深かったようです。


そんなわけで、信長は相撲、家康は鷹狩りと一番の趣味があったわけですが、秀吉は一番がコレっていう趣味が無かったので、もしかしたら囲碁が一番好きだったかも、というのが前回秀吉を戦国一の囲碁好きと評した理由の一つでもあります。

ま、しいて言えば秀吉の一番の趣味は「女」だとは思うんですが・・笑


さてさて、秀吉の話は置いておいて、家康と囲碁との関わりの話に戻ります。

家康も秀吉同様囲碁大会を開くのに積極的でした。さらに囲碁専門の「碁打ち衆」という家来の部署を作り囲碁のしくみを整えてくれました。

家康は江戸時代の基礎を作ったわけですが、囲碁の組織的なものの基礎も作ったわけです。これが後の江戸時代、かの有名な本因坊道策、秀策などを輩出した「御城碁」につながっていき、囲碁の発展に大きく寄与することとなりました。


また、これまで信長、秀吉に仕えてきた本因坊算砂ですが、家康にも仕えました。家康もやはり算砂に五子置いて打っていたようで、どうやらそこまで強くは無かったようです。

というのも、算砂と家康にはちょっとしたエピソードがありまして。家康が浅野長政という武将と囲碁を打っていた時のこと。

囲碁を打ちだすと家康は算砂を呼び出すことが多かったのですが、その時も算砂を呼び寄せておりました。算砂が到着すると、算砂に助言を求めます。

「ここはハネるところであろうかな、ハネだとは思うのだがのう・・」

「ハネるよりありませぬ」

算砂は素直に答えました。当然家康はそれに従い、そこから局面は家康有利となり家康が勝つことになりました。それに怒ったのが対戦相手の浅野長政です。

「お主の助言のせいで負けたのじゃ。今度何か口出ししたら斬るぞ」


かくして算砂は困りました。助言しなければ良いのですが、何せ相手は天下人の家康です。「なぜ助けてくれぬのじゃ」と言われて機嫌を損ねでもしたら大変です。

そこで一計を案じました。その後再び家康と長政の対局に訪れた算砂。小さな穴を開けた日傘を用意しておりました。その日傘をかざすと、そこから漏れる太陽の光を碁盤の打つべき場所に照らしたのです。これには長政も文句が言えず、家康はその光を頼りに勝つことができましたとさ。ちゃんちゃん。

口出しはしてない、という屁理屈なオチでございました。


まあ強い人ならそんなに助言は求めないでしょうから、あんまり強くは無かったんだろうなー。と想像できます。家康は囲碁を始めたのが46、7歳くらいの時らしいので、上達には苦労したのかもしれませんね。


私も指導碁で助言を求められることはたくさんあるわけですが、まだ指導歴が浅いある時のこと。

一手打つたびに次はどこに打てば・・と聞いてくるご婦人がおりました。しばらくは素直に助言しておりましたが、そのうち私が一人で囲碁打っている状態になってその滑稽さに我慢できず、

「そろそろ自分で考えようね~」

と言ってぶん投げました。自分で考えるのは大事ですので今でもこれが正解だと思っておりますが、貴重な経験でした。

算砂、どうやって自分で考えろって伝えたのか、あるいは伝えられなかったのか。算砂の気苦労を考えると実に大変だったねぇと労いたくなるエピソードでございました。