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粋なカエサル

「万の心を持つ男」シェイクスピア11『ヴェニスの商人』④

2020.09.17 03:14

 『ヴェニスの商人』には、これが書かれる2年前に起きた「ロペス事件」が投影されていると言われる。ユダヤ系ポルトガル人でエリザベス女王の侍医にまで出世したロデリゴ・ロペスが、スペインによる女王暗殺計画に加担したとの嫌疑を受けて処刑された事件である。ポルトガル生まれのロペスは、コインブラ大学で医学の学位を取得した医師で、1559年に異端審問の魔手から逃れるために来英。1575年に女王の寵臣レスター伯ロバート・ダドリーの侍医となり、1586年には医師として最高の栄職、女王の首席侍医に抜擢された。彼がこの地位にまで昇りつめることができたのは、ただ単に、彼が指折りの名医であったばかりではない。彼がオスマン帝国宮廷内の高官と深く結びついていたからのようだ。どういうことか?

 そもそも英国においては、1290年、エドワード1世がすべてのユダヤ人の英国からの永久追放を命じ、それに服さぬすべてのユダヤ人を死罪に処することを決定している。そして再入国が実現するのは366年後の1656年。追放と再入国の狭間の時代(英国ユダヤ人史上「中間時代」と呼ばれている)にあたるエリザベス朝には、法理論上、ユダヤ人は存在しえないはずだった。しかし、現実はそれほど単純ではない。

 イベリア半島のユダヤ人たちは中世の中頃までは、ヨーロッパでも稀にみる繁栄を謳歌していたが、中世後期になると、「商業の民」である彼らの経済力への反感が高まり、組織的なユダヤ人迫害が始まる。そのため、死を逃れるためカトリックへの集団改宗が行われたが、その多くは表面的にキリスト教を受け入れたにすぎない隠れユダヤ教徒であった。しかし、やがて彼らの経済的進出が進むと、隠れユダヤ教徒自体が迫害の対象となり、彼らを新キリスト教徒の中から狩りだすための機関、異端審問所が1480年にセビリアに設置される。その後、1492年、イスラム教徒最後の拠点、グラナダが陥落すると、国家統一事業の完成を目指すスペイン国王は、「カトリック信仰による宗教統一」を成就させるために「ユダヤ人追放」に乗り出す。スペインを追われたユダヤ人は、異端審問制度が未確立のポルトガルへ難を逃れるがそのポルトガルでも、1536年に異端審問所が設立。数十万もの大量の隠れユダヤ教徒がポルトガルを後にする。彼らのうち、北を目指したものが向かった先は、ネーデルラントのアントウェルペン。しかし、1539年、ネーデルラント南西部のゼーラント州に異端審問所が設置され、隠れユダヤ教徒に対する追及がにわかに強化され始めたため、英国に移住することになる。

国王ヘンリー8世(在位:1509年―1547年)以後、メアリー1世の短命なカトリック反動時代を除けば、テューダー朝は一貫して、隠れユダヤ教徒を「王室の奉仕者」として積極的に雇用したようだ。なぜか?何より、当時の英国にとり最大の軍事的脅威であったスペインの動向を探るために、イベリア半島をその故郷とする隠れユダヤ教徒たちの、国際的情報網を活用しようとしたからだ。特にロデリゴ・ロペスは、オスマン帝国の対西欧外交の政策立案の中枢を掌握していたユダヤ人ソロモン・アヴェナェスと姻戚関係にあり、アヴェナェスの英国における総代理人として活動していた。スペインとの軍事的緊張の高まりの中で、トルコ艦隊のスペイン攻撃を望む英国政府は、このロペス――アヴェナェス・コネクションに期待をかけたのだ。

では、なぜロペスはスペインの陰謀に加担し処刑されたのか?近年まで、ロペスに対する告発は、スペインに対する英国民の敵愾心を煽り立てるために、宮廷内の主戦派によって捏造されたもので、ロペスは罪無くしてスケープ・ゴートとして利用されたという「ロペス無罪論」が多く主張された。しかしイスラエル在住の歴史家カッツは1994年に刊行された著書で、スペイン政府が送り込んだ密使が提示した5万クラウン(1万2500ポンドに相当)もの報酬の誘惑に、ロペスは抗うことができず、女王毒殺の陰謀に対する彼の深い加担は明白な事実であり、ロペスは事を成し遂げた後、イスタンブルへ高飛びするつもりであったと述べている。いずれにせよ、この事件は当時の女王好きの国民感情を爆発させることになり、それが2,3年後に上演された『ヴェニスの商人』にも投影されているようだ。

右側の人物がロデリゴ・ロペス 右端はタイバーンの処刑場で絞首刑となるロペス

ペドロ・ベルゲーテ「スペイン異端審問」プラド美術館

「アルマダ・ポートレート」

 スペイン無敵艦隊に対する勝利(1588年)を祝うエリザベス1世の肖像画

 エリザベスの手は地球儀に置かれ、彼女の国際的な力を象徴している