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古代イスラエル 消えた王国

2020.09.17 03:28

https://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/magazine/1012/feature01/  【古代イスラエル

消えた王国】  より

文=ロバート・ドレイパー 写真=グレッグ・ジラード

古代イスラエル王ダビデとソロモンは、どんな王国を築いたのか。その答えをめぐり、考古学者の間で激しい議論が巻き起こっている。

 丸顔の女性がベンチに座って、肌寒い秋の空気に身を縮めながら、リンゴをかじっている。その視線の先にあるのは、イスラエルのエルサレム東部、旧市街にある建造物だ。建造物と言っても、高さ20メートルほどの古い階段状の石垣の隣に、低い石壁がいくつか残っているだけ。だが、これこそが、考古学者である彼女に、名声と苦痛をもたらした建造物である。

 彼女はこの低い石壁から、古代のさまざまな光景を想像する。旧市街の北、キドロンの谷を見下ろせる丘という位置。王国を一望の下に見渡すには、絶好の場所だっただろう。紀元前10世紀にフェニキア人の大工や石工が壁を建てている場面を、彼女は思い浮かべる。

 この建造物の建築を命じ、そこに住んだ男が誰なのか、彼女には確信があった。その名はダビデ。「ティルスの王ヒラムは……木工、石工を送ってきた。彼らはダビデの王宮を建てた」。旧約聖書のサムエル記にそう書かれたダビデの王宮の最有力候補が、この石壁である―2005年、彼女はそう宣言した。

 女性の名はエイラート・マザール。リンゴをかじりながら、じっと壁を見つめていたが、ツアーガイドが姿を現すと、表情を一変させた。5、6人の観光客を引き連れたガイドは若いイスラエル人で、マザールの研究室の元学生だ。観光客を連れてきて「ここはダビデの王宮などではありませんよ」と吹聴しているらしい。そればかりか、ここ東エルサレムの「ダビデの町」の発掘調査はすべて、右派のイスラエル人が自分たちの父祖の地だという証拠を見つけ、パレスチナ人を追い出すために進めている事業だと説明しているという。

 マザールはベンチから立ち上がると、つかつかとガイドに近づき、ヘブライ語で辛辣(しんらつ)な言葉を浴びせた。そのまま立ち去っていく彼女を、観光客はあっけにとられた様子で眺めていた。

 「誰もが寄ってたかって、人の仕事をつぶしにかかっているみたい」とマザールはこぼした。「なぜなの? 何か悪いことをしたというの? ストレスで病気になりそう。何だかすっかり老けこんでしまった気分だわ」

賛否両論が噴出

 イスラエルほど考古学界が激しい派閥対立に引き裂かれている国はない。マザールの2005年の論文も論争の火種となった。

 聖書には、ダビデが古代のユダ王国の基盤を固め、その息子ソロモンが王国を継いだと書かれている。見つかった石壁がダビデの王宮跡であれば、聖書の記述は史実であるとする主張を裏づける有力な証拠になる。世界中の多くのキリスト教徒とユダヤ教徒は、王宮跡“発見”のニュースに大いに沸いた。

 特にイスラエルでは、大きな反響を巻き起こした。ユダヤ人は長年、旧約聖書に登場するシオン(エルサレム、さらにはイスラエル全体を指す)は自分たちの父祖の地であると主張し、そこに国家を再建する運動を進めてきた。ダビデとソロモンの物語は、このシオニズム運動の核心に織り込まれている。

 ユダ族の羊飼いダビデが、ペリシテ人の巨漢ゴリアテを倒し、紀元前11世紀末にユダの王となる。ダビデはエルサレムを占領し、北部のイスラエルの諸部族をユダ王国に統合する。王国は息子ソロモンに受け継がれ、紀元前10世紀に入った後も長く栄えた。こうした聖書の記述では、二人の王が築いたイスラエルの王国は強大な一大帝国で、地中海からヨルダン川、ダマスカスからネゲブ砂漠まで支配したとされる。だが、発掘調査では、ダビデかソロモンが何らかの建造物を築かせたことを示す確実な証拠は一つも見つかっていなかった。

 そこに、マザールの“大発見”が発表されたのだ。大騒ぎになることは「わかっていたはず」だと、イスラエルのヘブライ・ユニオン大学の考古学者ダビド・イランは話す。「彼女は自分から論争に首を突っ込んだのです」

 イランは、マザールの見つけた石壁は「おそらく紀元前9~8世紀のもの」だと考えている。ソロモンが死んだとされる紀元前930年よりも、100年以上後に建てられたと言う。

マザールの動機そのものを疑う人もいる。発掘の資金は、シオニズム運動を精力的に推進する「ダビデの町」財団とシャレム・センターから出ている。祖父も考古学者であるマザールは、聖書の記述を頼りに発掘を行う聖書考古学の伝統を忠実に守っている。だが、今では多くの学者がこうした古い手法を批判する。聖書の記述を前提として発掘を進め、出土品を根拠に聖書の記述は真実だと主張するのは、非科学的な論法だというのだ。

 批判派の最先鋒(せんぽう)は、イスラエルのテルアビブ大学の考古学者イスラエル・フィンケルシュタインだ。彼を筆頭として、「低年代説」(ダビデ・ソロモン時代のものとされる遺跡や出土品ははるかに後代のものだとする立場)を唱える研究者は、イスラエル国内と周辺で見つかった多くの考古学的な証拠を基に反論する。聖書考古学者たちは過去数十年、ハツォル、ゲゼル、メギドで「ソロモン時代の」遺跡を発掘してきたが、フィンケルシュタインによれば、これらはダビデとソロモンの時代よりも100年ほど新しい、紀元前9世紀のオムリ王朝の王たちが建てたものだという。

 フィンケルシュタインによると、ダビデの時代のエルサレムはせいぜい「丘陵地帯の村」程度の規模で、ダビデは貧しい野心家にすぎず、「棍棒(こんぼう)を手に雄叫びを上げる500人ほどの軍団」を率いていた程度だったという。

 マザールの発見について聞くと、「むろん、ダビデの王宮などではない!」と頭ごなしに怒鳴った。「いや、努力は認めるよ。とても感じのいい女性だし、好感をもっている。だがこの解釈は、何と言うか、ちょっと単純だね」

 とはいえ、今のイスラエルの考古学界では、低年代説のほうが旗色が悪くなっている。マザールの他にも近年、二人の考古学者が相次いで注目すべき発見を発表した。その一人はエルサレムにあるヘブライ大学のヨセフ・ガーフィンケル教授。エルサレムの南西30キロにあるエラの谷で、ダビデの時代に築かれたと考えられるユダの都市の一画を発見したという。エラの谷は、若い羊飼いのダビデがゴリアテを倒したと聖書に書かれている場所だ。

 もう一人、米国カリフォルニア大学サンディエゴ校のトーマス・レビ教授は、死海の南にあるヨルダンのヒルバト・アッナハスで、8年前から広大な銅山遺跡の発掘を進めている。レビの推定では、ここで銅の採掘と精錬が行われていたのは主に紀元前10世紀。聖書によれば、当時この地域にはダビデと敵対していたエドム人が住んでいた。銅が大規模に生産されていたとすれば、ダビデとソロモンの時代には、すでに高度な経済活動が営まれていたことになる。

 「この銅山がダビデとソロモンのものだった可能性もあります。金属生産の規模からすると、古代の国家ないしは王国があったと考えていい」とレビは主張する。

 レビとガーフィンケルは、数多くの科学的なデータを基に自説を展開している。二人の主張が裏づけられれば、聖書に記されたダビデとソロモンの物語が史実である可能性が高まり、エドム人の登場が紀元前8世紀だとするフィンケルシュタイン一派の主張が否定される。「彼らもこれで終わりね」とマザールは溜飲(りゅういん)を下げる。

オリーブの種で年代測定

 「ゴリアテは実在しなかったかもしれません」とガーフィンケルは、エラの谷にある発掘現場ヒルベト・ケイヤファへと車を走らせながら話した。

 「巨大な都市から来たゴリアテという話が、何百年も語り継がれるうちに、巨人ゴリアテとなったのでしょう。比喩(ひゆ)ですよ。現代の学者は聖書がオックスフォード百科事典のように正確な文献であってほしいと考えますが、3000年前の人は事実を正確に記録したわけじゃない。夜にたき火を囲んで、口承で歴史を語り継いだのです。ダビデとゴリアテの物語も、最初はそうやって伝えられたのでしょう」

 ガーフィンケルはいかにも学者らしい風貌(ふうぼう)で、穏やかなユーモアのセンスの持ち主だが、その胸の内に大きな野心を秘めているのは明らかだ。イスラエル考古学庁の職員から、エラの谷に高さ3メートルほどの巨石の壁があると聞き、2008年からヒルベト・ケイヤファで精力的に発掘を進めている。

 ガーフィンケルが発見したのは、二つの壁の間に部屋がある城壁だ。北部のハツォルとゲゼルの都市遺跡にある城壁と同じ構造で、広さ2.3ヘクタール(東京ドームの半分ほど)の要塞(ようさい)都市を取り囲む形で立ち、城壁と隣接して住宅が並ぶ。こうした配置は、ペリシテ人の社会では見られない。

また、建物の内部でオリーブの種が4個見つかり、放射性炭素年代測定法(炭素14法)で、紀元前1000年ごろのものと特定された。牛、山羊、羊、魚の骨も多数出土したが、豚の骨はなかった。このことから、ペリシテ人ではなく、豚肉を食べないユダの人々がここに住んでいた(少なくとも食事をした)と考えられる。

 珍しい発見もあった。原カナン文字(ヘブライ文字の原型)とみられる文字が刻まれた陶片だ。そこには、古代ヘブライ語の文献に出てくるような動詞が使われていた。これらの証拠から、この地域には紀元前10世紀に高度に発達したユダの人々の社会があったと、ガーフィンケルは結論づけた。低年代説派が存在しないとする都市が、実際にあった ということだ。

 さらにガーフィンケルは、この要塞都市に二つの門があったことを突き止めた。二つの門がある要塞都市は、これまでに見つかっている限り、ユダとイスラエルの王国にしかない。「二つの門」はヘブライ語でシャアライムと呼ばれ、聖書にはこの言葉が3回出てくる。そのうちの1カ所(サムエル記上17章52節)には、ペリシテ人がダビデに追われ、ガトに至る「シャアライムの道」に倒れていたと書かれている。

 「ダビデとゴリアテの物語と、この発掘場所はぴたりと一致します」とガーフィンケルは言う。「動物の骨から要塞都市の壁まで、ここはどう見ても典型的なユダの都市です。まあ、フィンケルシュタインとしては自説をくつがえされたくないから、ペリシテ人の都市だと強弁するのでしょうけれど」

 ガーフィンケルは自信満々だが、彼の見解にも反論の余地はある。主張の根拠となっているのは、たった4個のオリーブの種による年代測定と、古代ヘブライ文字かどうかもはっきりしない、陶片に刻まれた文字だ。しかも、発掘調査はまだ全体の5%程度しか終わっていない。

 この遺跡がユダの都市だと主張する背景に「イデオロギー的かつ個人的な動機」があるとみられてもしかたがない、と考古学者のイランは話す。「フィンケルシュタインは(イスラエルの考古学界に君臨する)ボスのような存在です。若手はその支配に反発し、ボスを王座から引きずり降ろそうとしているんです」

 シオニズムの旗を掲げる組織にとっては、若手の動きは好都合だ。フィンケルシュタインが王座から引きずり降ろされれば、ダビデ王が歴史上の人物としてよみがえることになる。

「ダビデ」という存在

 ダビデの物語は3000年もの間、人々に語り継がれてきた。美術作品にもキリスト教やユダヤ教の礼拝の場にも、民間伝承にも、ダビデは登場する。ダビデにちなんだ名をもつ人も多い。イスラム教ではダウードと呼ばれ、アッラーに仕える偉大な王とされる。

 キリスト教徒にとって、ダビデは血統的にも象徴的にもイエスの祖先であり、イエスはその血を引く者として、神に選ばれた救世主になったとされる。ユダヤ教徒にとってはイスラエルの建国の父で、神に権力を授けられた羊飼い出身の王だ。ダビデの子孫であるユダヤ人もまた、神に選ばれた民ということになる。

 「イスラエルは世界でも長い歴史を誇る国であり、西洋の思想や文化に大きな影響を与えてきた―私たちがそう主張するのは、聖書はユダヤ人が書いたからです」。そう話すのは、マザールの発掘調査に資金を出したイスラエルの研究機関シャレム・センターのダニエル・ポリサー所長だ。「聖書からダビデと王国の話を消し去ったら、その物語はもはや史実ではなくなり、聖書は架空のものをあたかも存在したかのように主張するプロパガンダの書物ということになります。証拠がなければ、史実ではないと言われかねない。だから、発掘調査はとても重要です」

 ダビデとソロモンの物語を伝える旧約聖書のサムエル記と列王記は、ダビデの時代から少なくとも300年後に、さまざまな思惑をもった筆者たちがつづったと考えられる。その時代の他の文献にも同じような記述があれば、聖書の記述の信頼性が高まるが、そうした文献は見つかっていない。

 聖書考古学が生まれたころから学者たちは、アブラハムやモーセが実在の人物で、出エジプトやエリコの戦いが史実だと実証しようと、懸命に証拠を探してきたが、いまだに見つかっていない。とはいえ、「聖書は鉄器時代(紀元前1200~586年ごろ)のイスラエルの歴史と関連のある古代の文献だと、ほぼすべての研究者が認めている」と、イスラエルの権威ある考古学者の一人で、エイラート・マザールのいとこにあたるアミハイ・マザールは話す。「聖書を批判的に検証するのは構いません。多くの学者がそうしています。でも、聖書を無視するわけにはいかない。参考にしなければ」

 アミハイは、「聖書の記述が一語一句正しいことを証明しようとするのは誤り」だとも付け加えた。だが、これまで多くの考古学者が、聖書は字義通りに解釈すべきだということを実証しようと執念を燃やしてきた。

 イスラエル軍の大物で政治家でもあり、学者でもあったイガエル・ヤディンは、1950年代末に聖書に書かれた都ハツォルで、都市を囲む城壁の門を発掘した。このとき彼は、地層の重なり方と聖書の記述を根拠に、門の内部で出土した土器の年代を特定し、列王記の記述から、この門はソロモンの時代、紀元前10世紀に建てられたと結論づけた。現代の考古学者が決して認めない年代決定法である。

 今では、ハツォルとゲゼルとメギドの遺跡で見つかった門がソロモン時代のものかどうか、学者たちの見解は分かれている。だが、ヤディンの手法を支持する学者は一人もいない。

実際、ヤディンの手法に対する批判から、ダビデとソロモンは架空の人物にすぎないとの主張が1980年代初めに生まれた。しかし、1993年にイスラエル北部のテル・ダン遺跡で「ダビデの家」という言葉が刻まれた石碑が出土し、こうした主張の説得力は弱まった。とはいえ、ソロモンが実在したことを裏づける証拠はいまだに見つかっていない。

 今後さらに証拠が見つからなければ、フィンケルシュタインが1996年の論文で述べたように、紀元前10世紀のこの地域はおおむね未開の荒野だったことになる。壮大な建造物がそびえる偉大な王国などなく、あちこちに散らばる部族や氏族集団の集落が、徐々に小さな国になりつつある段階だったということだ。

 ダビデの都こそ自国の基盤だと考えるイスラエル人にとって、この解釈は受け入れがたい。エルサレムでの発掘調査の多くに資金を出す「ダビデの町」財団のドロン・シュピールマンは、率直に認める。「発掘の資金集めをするのは、聖書の記述が真実だと明らかにしたいという思いがあるからです。聖書の記述はイスラエルの領土権と深く結びついていますから」

 当然ながら、エルサレムに住むパレスチナ人には、この考えはすんなり受け入れられない。伝統的にパレスチナ人が暮らしてきた東エルサレムでは、盛んに発掘調査が進められている。ダビデの時代の遺構が見つかれば、パレスチナ人は家を追われることになりかねない。

 東エルサレムに住む考古学者ハニ・ヌル・アディン教授はこう話す。「この地域で、パレスチナ人の女性は青銅器時代(紀元前3300~1200年ごろ)の初期から受け継がれてきた土器を作り、紀元前5000~4000年のころと同じく、今もタブーンという窯でパンを焼いています。パレスチナには文字の記録がなく、歴史をつづった文献はありません。でも、こうした伝統文化こそ歴史ではないでしょうか」

 イスラエルの考古学者のほとんどは、自分の研究が政治的に利用されることを望んでいない。それでも、研究の政治利用は繰り返されてきた。イスラエルのバル=イラン大学の考古学教授アブラハム・ファウストはこう見る。「たとえば、ノルウェーは、デンマーク、スウェーデンの支配下に置かれましたが、バイキング時代の王国の遺跡を民族の精神的なよりどころにして、独立を果たしました。ジンバブエの国名は、グレート・ジンバブエ遺跡にちなんだものです。国家のアイデンティティーを確立するには、考古学は非常に便利な道具となるのです」

ソロモンの銅山?

 「ここは地獄ですよ」と、鉱石の黒い残りかすが山積みになった採掘現場の縁に立って、レビは愉快そうに言った。ここは、広さ10ヘクタールほど(東京ドームの2倍強)の銅山跡、ヒルバト・アッナハス(アラビア語で「銅の廃墟」の意)。その隣にある大きな要塞では、3000年前の監視所の跡が見つかっている。銅山を見下ろせる場所に見張りがいて、怠ける者がいないか目を光らせていたのだろう。

 「これだけの規模の生産施設があれば、食料と水を調達するシステムも必要になります。証明はできませんが、この惨めな環境での労働に甘んじたのは、奴隷だけでしょう。要は、素朴な部族社会では、こうした生産活動はできないということです」とレビは話す。

 人類学者のレビは最初、冶金術が社会の発展に及ぼす役割を研究するため、97年にヨルダン南部の低地フェイナン地域に入った。ここは、米国の考古学者でラビ(ユダヤ教の聖職者)でもあるネルソン・グリュックが1940年に「ソロモン王の支配下にあったエドム人の銅山を発見した」と発表した地域である。レビは炭素14法で、グリュックの主張通り、この遺跡が紀元前10世紀の銅山であることを確認した。銅山は「エルサレムへの銅の供給基地」だったと、彼は考えている。

 レビらが率いる調査隊は、ヒルバト・アッナハスで4つの部屋がある門の跡を見つけた。それと同じような門が、紀元前10世紀のものとみられるイスラエルの複数の遺跡でも見つかっている。調査隊はまた、ヒルバト・アッナハスから数キロの地点で、銅山と同時代の墓が3500以上ある墓地を発掘した。

 さらに調査隊は、ある地層を境に銅の採掘が打ち切られていることを発見した。この地層からは、22個のナツメヤシの種が出土し、その年代は紀元前10世紀と特定された。また、ライオンの頭をかたどったお守りなど、古代エジプト王、ショシェンク1世(シシャク)の時代(紀元前10世紀後半)の工芸品も出土している。この王がソロモンの死後まもなく、この地域を征服したことは旧約聖書にも記され、エジプトのカルナクにあるアメン神殿にも、同じ史実を刻んだレリーフがある。「ショシェンクが紀元前10世紀の終わりごろに、銅山を廃鉱に追いやったに違いありません」とレビは断言する。

 レビが発掘した“地獄”が紀元前10世紀のものだとしたら、低年代説を唱えるフィンケルシュタイン派は、まさに地獄に突き落とされたような気分になるだろう。レビの発掘調査は、エイラート・マザールやガーフィンケルの調査よりも幅広い年代と地域に及んでいる。また、地層の年代の特定に、炭素14法を積極的に採用している。「エドム人について調べた1980~90年代の学者はみな、エドム人の国の成立は紀元前8世紀以降だと主張しました」と、アミハイ・マザールは言う。「でも、レビは炭素14法を基に、紀元前10世紀か9世紀の出来事だとしています。それが間違っているとは、誰も反論できません」

 レビを批判する学者たちは、年代測定法そのものに異議を唱えている。一部の学者は、レビが炭素14法で最初に行った46の試料の年代測定は、エドム人の国の成立年代を完全に書き換えるには不十分だと主張する。レビは、2度目の年代測定では、試料の数を倍に増やした。しかも、年輪が残っている木の試料を選び、炭素14法で得た年代を年輪から推定される年代と照合する作業までした。

 炭素14法はかなりのコストがかかるが(オリーブの種1個の分析が4万円以上)、決定的なものではない。「炭素14法で、今の論争のすべてに決着がつくわけではないんです」とエイラート・マザールは言う。「(前後40年ほどの)誤差があります。分析を行う研究所によっても、解釈が違ってきます。炭素14法の有効性そのものが議論の的になっているんです」

“ボス”の言い分

 「炭素14法を使えば、ダビデが6世紀にノルウェーの村に住んでいたという結論だって出せるさ」とフィンケルシュタインは極論する。「ヒルバト・アッナハスについてのレビの論文は、とても面白いよ。いろんなアイデアが浮かぶ。私自身は、あんな所で発掘するのはごめんだがね。暑すぎる! 考古学は楽しくなくちゃ。メギドに来てみたまえ。プール付き、エアコン付きの快適な宿舎に泊まれるよ」

 彼は他の学者をこき下ろすときは、いつもこんな感じで始める。いかにも友好的に、にこやかに前口上を述べるが、その目は決して笑っていない。「注目を引きたいなら、フィンケルシュタインのように振る舞えばいい」とエイラート・マザールは手厳しい。ガーフィンケルも、フィンケルシュタインが最近3億円をゆうに超える研究助成金を受けたことについて、こうぼやく。「彼は科学的な手法を使う気がないのにね。皮肉な話ですよ。サダム・フセインにノーベル平和賞を与えるようなものだ」

 それでも、フィンケルシュタインの見解は、聖書の記述を史実とみなす解釈と、まったくの虚構とみなす立場の中間の考え方として、多くの知識人に受け入れられている。「さまざまな年代の地層が積み重なるように、聖書も長い年月をかけて成立したテキストだ。一部は紀元前8世紀や7世紀に書かれ、一番新しい記述は紀元前2世紀ごろに書かれている。つまり600年かけて成立したテキストだということだ」とフィンケルシュタインは話す。

 「だからといって、それよりも古い時代のことが書かれていないわけではない。ただ、書かれている現実は、後の時代の現実だということだ。たとえば、ダビデは(聖書が書かれた時期には)すでに歴史上の人物だった。彼は紀元前10世紀に実在した人物だろう。聖書の記述からすると、ダビデは、社会の主流からはずれた集団、騒乱を起こす集団の指導者のような存在だったのだろう。それは私も認める。だが、エルサレムが黄金の都だったとは思わない。ソロモンの時代に偉大な王国があったという話も受け入れがたい。聖書の筆者たちは、当時の現実、つまり強大なアッシリア帝国から想像して、過去の王国を描いたのだろう」

 フィンケルシュタインはため息をついて、言葉を続ける。「さて、ソロモンだが、言ってみれば私がその神話を破壊したようなものだ。まあ、私としても残念だがね。たとえば、シバの女王がエルサレムを訪れ、物珍しい品々をもたらしたという聖書の話を考えてみたまえ。中東全域がアッシリアに支配され、かつての敵国同士で交易が始まる紀元前732年以前には、そんなことはあり得ない。あるいは、ソロモンが馬の調教の達人だという話や、馬が引く二輪の戦車、大規模な軍隊などなど。こういったものはすべてアッシリアの時代の話で、そこからの想像でソロモンの栄華が描かれたにすぎない」

 レビが発掘した銅山については、「紀元前10世紀のものという説は受け入れがたい」と話す。「銅山に人が住んでいたなど、あり得ない。猛烈な炎に、有毒物質に、煙ときては、生活できるわけがないだろう。全体から見ると、あの銅山跡は大して重要じゃない。メギドやテル・レホブのような、多様な年代の遺跡が出る古都ではない。鉱石の残りかすに目をつけて、それを聖書の史実性をめぐる議論の中心に据えるなんて、どう考えても無理がある」

 ガーフィンケルがヒルベト・ケイヤファで見つけた遺構の話になると、舌鋒(ぜっぽう)はさらに鋭くなった。「いいかね、私は年代測定でオリーブの種1個の年代が他の数多くの測定結果と合わないからと言って、その種が西洋文明の歴史を書き換えるなどとは決して言わないよ」

 皮肉なことに、彼をはじめ、聖書考古学に反旗をひるがえした反逆児たちは、今ではイスラエル考古学界の権威となっている。いわば、年代測定という石つぶてで新進の若手に攻撃されるゴリアテの立場にあるということだ。紀元前10世紀にヨルダン川の両岸に高度な社会が存在した可能性があるという説が有力になり、ダビデ・ソロモン時代についての解釈では、フィンケルシュタインは今や守勢に立たされている。

 とはいえ、マザールが見つけた石壁がダビデの王宮だと実証できたところで、さらには銅山がソロモン王の支配下にあったと証明されたところで、ダビデとソロモンの王朝が栄華をきわめたという決定的な証拠にはならない。発掘がどれほど進めば論争に決着がつくのか、気が遠くなるような話だ。

ダビデを「誇りに思う」

 多くの考古学者たちは、聖書の記述の信頼性をめぐって発掘競争が繰り広げられる現状は不健全だと感じている。今の風潮は「考古学にとって望ましくない」と、テルアビブ大学のラファエル・グリーンバーグは言い切る。「考古学の役目は、富裕層と貧困層、男と女の関係などについて、文献や既存の歴史観とは異なる視点を与え、別の角度から過去に光を当てることです。ただ聖書の記述を正当化するのではなく、もっと豊かな貢献をすべきです」

 ダビデは象徴的な存在として大きな影響力をもつ。たとえ、最終的にその事跡や王国が架空のものとわかったとしても、その英雄伝説が輝きを失うだろうか。

 「世界中の人々が偉大な英雄ダビデの物語を信じていますよ」とフィンケルシュタインに水を向けると、意外な答えが返ってきた。「研究では、文化的な存在としてのダビデと、歴史上の人物としてのダビデを分けて考える必要がある。私の精神的なよりどころであるユダヤ文化にとってダビデはきわめて重要で、その文化の中核をなす存在だ。名もない村から来た名もない若者が、西洋の伝統文化の核心をなす存在となったことを、私は誇りに思うよ」

 他でもない、ダビデを王座から引きずり降ろした彼が、最後にこう打ち明けた。「私にとって、ダビデはただの歴史上の人物でもなければ、紀元前10世紀のどこかの集団の指導者でもない。それよりもはるかに大きな存在だ」