「日本会議」はどのように誕生し、今日に至ったのか 『ドキュメント 日本会議』
Facebook・清水 友邦さん投稿記事
日本の総理に義偉(すが よしひで)内閣官房長官がなりました。新内閣20人中14人が日本会議のメンバーが選ばれています。「日本会議」はどのように誕生し、今日に至ったのか
https://diamond.jp/articles/-/136287
「日本会議」は家父長的で権威主義的なアンバーの段階です。
日本と世界の発達の段階を象徴する写真が
上の写真フィンランドのサンタ・マリン首相(34歳)と女性の閣僚たちと下の写真の日本の次期首相(71歳)と自民党の平均年齢71歳の新役員です。
主体的で自主的な生き方を獲得していない日本人はアンバーからオレンジの段階の途中のパラダイムにありました。
「ティール組織」がマネジメントの分野で売上1位を記録しているので日本もグリーンが始まっています。
https://diamond.jp/articles/-/136287 【「日本会議」はどのように誕生し、今日に至ったのか『ドキュメント 日本会議』】 より
靖国神社は、戦争遂行を担った重要な国家機関と見なされ、戦後GHQによって一宗教法人として政教分離された経緯がある
近頃、「日本会議」という保守系団体が注目を集めている。改憲勢力のなかで重要な役割を果たしているとされ、全国に約4万人の会員を抱えている。憲法改正をめざし政治運動をしているにもかかわらず、政治団体の届けをしていないため、不明な点が少なくない。
その意味でも、本書『ドキュメント 日本会議』はきわめて貴重なドキュメントだ。丹念な取材と膨大な一次資料によって、日本会議の実態に迫ろうとしているからである。本書の内容を簡単に紹介しよう。著者によれば、日本会議のルーツは新宗教「生長の家」にあり、左派学生による学園紛争でキャンパスが席巻されていた時代にさかのぼる。民族派学生は、左翼学生との闘争のなかで同志を結集していったが、安保闘争の終結により求心力を失っていった。三島事件を契機に方針転換するものの、それもうまくいかず、従来の運動論を放棄。神社界とも連携を図るようになり、「解釈改憲路線」に転換したのである。
その後、元号運動の中核を担った「日本を守る会」(1974年)と、「防衛・教育・憲法」を運動の三柱とする「日本を守る国民会議」(1981年)が統合されるかたちで、1997年に日本会議が結成された。
現在、日本会議は全都道府県に250の地方支部をもっているという。はたして日本会議は「日本を裏支配するシンジケート」なのか。その答えは本書で確かめてもらいたい。 (谷田部 卓)
本書の要点
(1) 日本政治を裏から操ると言われる「日本会議」は結成20年を迎え、憲法改正運動や安倍政権とのつながり等で、一躍注目を浴びるようになった。
(2) 日本会議のルーツは新宗教「生長の家」にある。打倒全学連で名を成した椛島と安東が、全国の民族派学生をまとめあげて組織化したことが発端だった。
(3) 元号法制化問題が起きると、保守陣営は地方議会決議運動を展開し、中央政府を動かした。同じ手法で、伝統文化を重視する教育基本法を実現させ、神権的国体論に基づく憲法改正をめざしている。
◆日本会議の源流
◇打倒全学連からすべては始まった
今、憲法改正運動で、重要な役割を果たしているとされる「日本会議」が注目を浴びている。日本会議は今年で結成20年を迎え、その勢力を拡大している。
日本会議の源流は、1960年代の学園紛争だ。左翼学生がキャンパスを席巻していた長崎大学に、新宗教「生長の家」信者である椛島有三(かばしま・ゆうぞう)と安東巌が入学したことが始まりだ。
当時、生長の家は、反共愛国・靖国神社国家護持・現憲法破棄と明治憲法復元を掲げる神道系の教団だった。生長の家の呼びかけで、生長の家学生会全国総連合(生学連)が1966年に結成された。
1969年には、右派学生の連合体である全国学生自治体連絡協議会(全国学協)が組織され、生学連がその中核を担い、安東が書記長を務めた。当時の大学では、三派全学連・共産党系の民青・革マル派と、左翼学生が活発に活動していた。椛島と安東はこうした左翼に対抗し、ビラ・新聞・講演会を駆使して、自治会を掌握した。この組織的戦術を全国に広げ、各地の民族系学生をまとめあげたというわけだ。
◇三島事件という衝撃
日米安全保障条約が自動延長となり、60年安保闘争が終結したことで、若者たちの政治の季節は終わった。1970年、椛島は民族派社会人組織「日青協」を結成した。
日青協の思想的支柱となっていたのが、国民文化研究会の小田村寅二郎、生長の家創始者の谷口雅春、神社新報主筆の葦津珍彦(あしづ・うずひこ)と、作家の三島由紀夫の「四先生」だった。
ところが、三島由紀夫は「楯の会」の4人と共に自衛隊市ヶ谷駐屯地を訪れ、益田総監を人質に取り籠城。割腹自殺を遂げてしまう。この三島事件が社会へ与えた衝撃は大きく、多くの右翼・民族派が三島の行為を賛美した。そして、70年安保闘争後に左翼が衰退し、敵を見失い停滞期にあった右翼・民族派全体が、この三島事件により息を吹き返した。
その後、民族派運動はスローガンを「反全学連」から「ヤルタ・ポツダム(YP)体制打破」に変え、「真の日本独立」を目標にすえた。YP体制打破とは、対米従属路線を否定し、反占領憲法・対米自立・自主防衛を目指す考えのことだ。
三島事件の裁判を通じて、民族派は「占領憲法破棄・明治憲法復元」を訴え、憲法改正論議を盛り上げようと活動した。しかし改憲論議は高まらず、裁判でも被告全員に実刑判決が下された。すると、支援者の間に失望が広まり、民族派の団体も四分五裂していった。
◇地方から中央へ
1975年になると、元号に法的裏付けがないことが政治問題となった。左翼政権誕生が現実味を帯びると、元号が空白になりかねない状況に危機感を抱いた日青協の椛島たちは戦略を大きく転換した。葦津の考えに沿い、現憲法の解釈・運用に重点を置き、有利な状況をひとつずつ勝ち取る作戦だ。「解釈ひとつで憲法は変わる」そんな運動を徹底しておこなった。
元号法制化運動を本格化させるため、日青協は1970年代後半から「草の根民族運動」を始めた。署名を集め地方組織をつくることで地方議会の決議を積み上げ、地方議会決議運動を展開することで中央政府を動かす。こうした活動により、1979年に元号は法制化された。このような地方決議による中央制圧の手法は、今では日本会議の定石となっている。
また、1974年に結成された「日本を守る会」は、元号運動の中核を担った。この団体を通して、椛島ら民族派集団は神社・仏教・新宗教・文化人らの知遇を得ていった。こうして、著名な宗教家や思想家、作家が一堂に会する保守の運動体が誕生した。日本を守る会はその後、椛島の日青協を頼りに活動していく。
【必読ポイント!】
◆右派の思想と行動
◇日本会議の誕生
元号法制化運動の組織を引き継ぎ、1981年に「日本を守る国民会議」が結成された。その運動方針は、(A)日本は日本人の手で守る、(B)教育を日本の伝統の上に打ち立てる、(C)憲法問題を大胆に検討するの三本柱であった。現在の「日本会議」は、「日本を守る国民会議」が「日本を守る会」を統合する形で結成されたものである。
日本会議のめざすものは、(1)美しい伝統の国柄の継承、(2)新憲法の制定、(3)国の名誉と国民の生命を守る政治、(4)日本の感性を育む教育、(5)国の安全と世界への平和貢献、(6)世界との友好の6つだ。宗教学者の島薗進によると、ここでいう「美しい伝統の国柄」とは、国体論的な国家を指す。そして強い国家にするためには天皇の権威が必要という神権的国体論を推進しているのが、日本会議と神社本庁というわけだ。
1966年に制定された建国記念の日は、戦前の紀元節である2月11日にその起源がある。紀元節は神武天皇が即位した日とされ、戦前は軍や役所、学校などで盛大に祝われ、軍国主義の一翼を担った歴史がある。この建国記念の日制定運動の中核が神社本庁であり、戦後弱体化していた勢力を再結集させて成功させた最初の事例となった。
その後、神社界は神道政治連盟(神政連)を結成し、神政連国会議員懇談会を設立。今では300人を超す勢力となっている。
◇歴史教育批判
「日本を守る国民会議」は、教科書改善と教育基本法改正運動を主として展開していた。その根本にあるのは、歴史教育が日教組の「階級史観」に立脚しているという認識だ。戦後の歴史教育によっては歴史のなかに一体感を持てないとし、祖国に対する愛情を育てるため、天皇―国家―自己の生命を貫く根源的価値に目覚めさせることが必要だと訴えた。
たとえば、「新しい歴史教科書をつくる会」のメンバーである藤岡信勝東大教授(当時)は、戦後の歴史教育を鋭く批判している。戦後の歴史教科書では、マルクス主義史観と、外国の国家利益が起源の東京裁判史観が主流となってしまった。この呪縛から自由にならなければならないというのが藤岡の主張だ。
「つくる会」はその後、内紛が勃発したことで分裂してしまう。期待していた扶桑社の歴史教科書の部数低迷が原因だった。
「つくる会」から分かれた「日本教育再生機構」が編集した育鵬社(いくほうしゃ)の中学歴史と公民の教科書は、次第に採択されるようになってきている。2016年の神奈川県では、シェアが39%にも達した。これは日本会議神奈川の副運営委員長が、「教育を良くする神奈川県民の会」の運営委員長を兼ねていたことが大きい。
日本会議は2006年に教育基本法の全面改訂にも成功した。地方議会決議・国民集会・署名活動といった戦術を駆使しての成果だった。改定のポイントは、個人の尊厳を重んじる旧法から、公共の精神と伝統を重んじる価値を盛り込む点にあった。
◇靖国参拝と国家護持
国神社は、戦争遂行を担った重要な国家機関と見なされ、戦後GHQによって一宗教法人として政教分離された経緯がある。これに反発した靖国神社は、普通の神社ではなく戦没者を神として祀る神社であるとし、国家管理下で戦没者慰霊をおこなう「国家護持」へと動いた。
1960年代から、何度も自民党から靖国神社法案が出されたが、猛烈な反対で成立しなかった。その後、自民党は迂回戦術に切りかえ、首相らの公式参拝で国家護持を実現させようとした。ところが、1978年に突如、靖国神社はA級戦犯14人を合祀するようになった。これにより、国内問題であった靖国問題が、外交問題に発展した。
1985年、当時首相だった中曽根康弘は靖国を公式参拝したが、中国や韓国から非難を浴び、以後は参拝を止めた。この行為を日本会議の黛敏郎(まゆずみ・としろう)は、「大東亜戦争は侵略戦争ではない。占領政策が植え付けた罪の意識が、日本を覆っている」と批判した。その後も、日本会議は毎年のように首相の靖国参拝を実現させようとしている。
◆日本会議の結成
◇創価学会と日本会議
1997年に日本会議が設立された背景には、自民党一党体制の崩壊がある。1993年、日本新党の細川首相は、先の大戦は侵略戦争であり、まちがった戦争だったと、歴代首相として初めて「侵略戦争」を明言した。さらに1995年、社会党の村山首相は、侵略行為や植民地支配などへの深い反省を盛り込んだ「村山談話」を発表した。反省と謝罪の国会決議に強く反発し、これを阻止しようと保守陣営は激しい抗議活動を展開。だが、最終的には決議されてしまう。この一連の出来事により、保守の再結集が叫ばれた。
さらにこの時期、公明党・創価学会が伸長していたことも、日本会議の設立を促した。創価学会の強引な布教活動に他の宗教団体が強く反発し、1994年には「四月会」という組織が結成された。このようなアンチ学会の空気のなか、日本会議が設立された。
なお、自民党はその後、「集票マシン」として公明党を引き込み、1999年に連立政権を発足させている。
◇天皇と国体
2016年に天皇が生前退位の思いを表明すると、日本会議と神道政治連盟では、退位の前例をつくると国体の破壊に繋がる、反天皇勢力が天皇制度無力化を図っているなどと議論百出した。
また日本会議は「女性宮家」の創設にも反対している。「有史以来の男系による皇室継承を改変することは、国家の連続性を断絶する革命に等しい」とし、女系天皇に危機感を抱いている。安倍晋三首相も、女系天皇を認めた有識者会議に対して、「この結論は、皇室の伝統と文化を合理主義で考える極めて間違った姿勢だ」と批判している。
(敬称略)
一読のすすめ
安保闘争を知る世代が少なくなった時代において、右翼民族派の歴史と思想を知ることはきわめてて重要だ。フェイクニュースがあふれる世界において、膨大な一次資料を丹念に調査した本書は、貴重な知識を読者に与えてくれるだろう。