Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

Kazu Bike Journey

Okinawa 沖縄 #2 Day 42 (18/09/20) 旧東風平 (5) Kogusuku Hamlets 小城集落

2020.09.19 03:46

小城集落 (こぐすく)

今日は八重瀬町旧東風平町の字小城を訪問する。ここには昨年の10月7日に当銘蔵グスクの見学の際に訪れている。ただ、その日は当銘蔵グスク中心に巡ったので、小城集落内にある文化財などは見なかった。今日は集落内にある文化財も見てみたい。


小城集落 (こぐすく)

ここに行くには2つの丘陵を登り下りで越えていかねばならず、自転車では少しハードだ。それに、今日は真夏日の様でとにかく暑い。汗だくになって到着。小城集落は友寄集落の南西の丘陵に位置し、西に豊見城市と接している。旧東風平町では最も標高が高い字で90m-100mの丘陵の斜面に広がっている。集落の始まりは伝承では、伊波、外間、宣次、東風平の各集落の祖である沢岻世主の七男 東風平按司の子供の東風平里主となっている。この小城集落はもともとは豊見城間切の管轄であったが、第二尚氏第10代尚貞王の時代の1672年頃に東風平間切に編入された。1903年 (明治36年) の土地整理で大字制が導入されて、大字は友寄、世名城、富盛、東風平、志多伯、宜寿次の6つ、小字は小城・当銘・外間・高良・伊覇の5つで合計11の字の構成であった。

人口は1972年の沖縄本土復帰時点より減少している。旧東風平町の中でこの傾向にあるのは高良、当銘とこの小城の3つの字だけだ。

「東風平村史」に載っていた拝所群は以下の通り。この幾つかは大雑把な地図に記載がある。なんとか探し当てることができるだろう。

友寄から上田原を経由して小城に入る。字小城の北側三分の二は畑だらけでさとうきび畑でいっぱいだ。集落は南の端の丘陵部にある。丘が見えてきた。そこを登ると集落に着く。ここから見える丘陵は三つに区切られている様に思える。向かって右の丘陵は古和喜福嶽 (クワゲフクヌタキ、西リ之御嶽)、真中が白金嶽 (シロカネヌタキ、東リ之御嶽)、左が赤石の杜で墓群がある。



井戸

この近くにマチンジャーの井戸跡があるはず。さとうきび畑を歩き探す。部落の祭りにはこの井戸の水を使ったと言われている。それほど大切な井戸なので拝所となっているはず。香炉が置かれている井戸を探すが、結局見つからなかった。2つほど井戸を見つけたが、多分これは畑の為の井戸だろう。再訪した際にもさとうきび畑の他の場所にも同じ様な井戸がいくつもある。農業用の井戸に間違いない。


マチンジャー井 [10月10日再訪]

公民館で写真に撮らせていただいた拝所マップをもう一度確認すると、探していた場所が違っていた。「東風平村史」に載っている地図はかなり大雑把なものなので分からなかった分からなかった。10月10日に再度訪問して、やっと見つけることができた。香炉も置かれている。前は広場にもなっているので、これに違いない。

マチンジャー井には伝承が残っており、当銘倉城 (テミグラグスク) 按司の家族が中山 (首里か?浦添か?) からの帰りを出迎えた場所をマチンジャー (待座) と呼びそこに井戸があったと伝わる。この井戸から丘陵に当銘蔵城 (テミグラグスク) の大門 (ウフジョウ) が見える。あそこからここまで出迎えをしていたのだ。


大井 (ウフガー、大原井 ウフウーガー)

この丘の麓にもう一つ別の井戸跡がある。さとうきび畑の切れ目、丘陵の麓に井戸跡が見えてきた。石柱が立っているが、刻んだ名前は擦り切れてしまい判読不可能。インターネットの井戸跡地図ではウフガーと出ていた。大 (ウフ) 井 (ガー) と漢字では書くのだろうか? この井戸のすぐ上の丘陵には大門 (ウフジョウ) という当銘倉城 (テミグラグスク) の城門があったのでそうそばれたのかもしれない。後で公民館で頂いた拝所リストではここは大原井 (ウフウーガー)となっている。


ヒラナカガー (10月10日再訪)

拝所マップには大井 (ウフガー) から丘陵の大門 (ウフジョウ) への途中に更に3つの井戸があると示されていた。これがヒラナカガー。小さな祠が作られている。拝所マップにはヒラナカガーには「?」が付けられているので、まだはっきりとはしていないのだろう。


卯之方井 (ヤマクワガー)  (10月10日再訪)

ヒラナカガーの近くもう二つの井戸跡の地頭井 (ジトウガー) と 卯之方井 (ヤマクワガー)  が地図に記載されている。その場所付近を探すが、それらしき井戸が見当たらない。拝所なのだから香炉があるはずなのだが.... 写真右は卯之方井 (ヤマクワガー) の位置にあった。東風平村史ではヤフグワガーがあるがこのことだろうか? 地頭井は結局見つからなかった。


地頭井 (ジトウガー)  (10月13日再訪)

もう一つの地頭井 (ジトウガー) は10月10日に再訪した際も見つからなかったのだが、もう一度調べ直すと確かに探した場所にあるはずだ。もう一度10月13日によってみた。見つかった。安里馬場跡の脇にある。草で覆い隠されていた。わずかに祠の頭が見えたので、近くに行くと確かに拝所だ。草を踏みつけて、なんとか井戸跡が見える様にして撮影。マイナーな拝所は訪問する時期によっては草で覆い隠されている。やはり、部落の人たちが拝所巡りをするウマチーの時期がベストだろう。その時期は村人が草を綺麗に刈っているからだ。


小城公民館

丘陵を登った所に公民館がある。休憩も兼ねて立ち寄る。珍しく人がいた。殆どの集落の公民館は人が詰めておらず、人に出会うのはまれだ。いい機会なのでこの小城について聞いてみた。この公民館は戦前はただの空き地だったそうで、戦後に製糖所 (サーターヤー) が建てられ、近年公民館となり体育館も建てられている。かつての村屋 (ムラヤー) は集落内のあるそうだ。

ここに訪ねてくる人はほとんどいないのだろう、何をしているのかと聞かれた。沖縄の歴史に興味があり集落の文化財巡りをしているというと、小城集落の拝所の地図を見せてくれた。ここには47もの拝所が載っており、その中の34の拝所が部落の行事で巡り拝まれていると説明してくれた。ほとんどの拝所が白金嶽 (シロカネヌタキ)、古和喜福嶽 (クワゲフクヌタキ) に集中しているそうだ。この地図はありがたい。写真をとりそれに沿って巡ることにした。(白線の拝所は見つけられなかった)


小城集落は丘陵の北側の斜面に広がっている。盆地の様な地形の所にある。この地形が人口が増えなかった理由の一つではないかと思う。集落の向こうに見えるのが集落の聖域であった御嶽がある丘。


子ヌ方之嶽、子ヌ方之墓、嶽グサイカー

公民館の裏手に小山がある。そこに子ヌ方之嶽がある。ここには子ヌ方之墓、嶽グサイカーが祀られてあり、グサイとは琉球の祭事で使われる単語で「一体」を表すもの。つまりこの嶽、墓、井戸 (カー) は一体で祀られいるということ。


集落内にある文化財を巡る。


屋比久の神屋

屋比久はこの集落の門中のひとつ。その祖先をここで祀っている。


新井 (ニーガー )

屋比久の神屋の近くにある井戸。新井と名がつけられているものは集落形成後新しくつくらえたものであることが多い。ただ場所はここなのだが、これが新井 (ニーガー ) なのかは自信がない。


下原井 (シチャバルガー、中串ガー)

集落のほぼ中心部にある井戸跡。広場になっているので、かつてはここには集落住民が集う水場があったのだろう。井戸の名前が書かれた石柱があるが、そこに書かれている名は全部は読めないのだが、下原井とは書かれていない。リュウグシ (龍宮神?) と読めるのだが...


前当井 (メントーガー、産井 ウブガー)

集落の南の端にある井戸。後方にある丘陵が当銘倉 (トミグラ) グスク跡。 産井 (ウブガー) とも呼ばれているので、部落の重要な井戸で、正月の初水などで使われている。


午之方井 (アラカチガー)  [10月13日再訪]

この井戸も見つからなかった一つなのだが、10月13日に再訪してやっと見つけた。


新屋殿と新屋殿グサイ井 [10月10日再訪]

前当井 (メントーガー、産井 ウブガー) から集落の坂を登ると途中に拝所跡らしき場所がある。ちょっとした広場になっている。これを見つけた時は午之方井 (アラカチガー) と思っていたが、午之方井 (アラカチガー) は10月13日にもう一度訪れて別の場所にあった。そうするとここはこれが新屋殿と新屋殿グサイ井であろう。


トヤマ之拝所  [10月10日再訪]

小城集落の門中でトヤマという屋号はなく、神屋ではないので拝所と書かれているのだろう。トヤマが何を意味するのかはわからなかった。


大屋之神屋 (ウフヤヌカミヤ) / 大屋之井 (ウフヤヌカー)  [10月10日再訪]

神元 (カミムトゥ) を担っていた有力門中の大屋門中の神屋で井戸も共に御願されている。


冨里之神屋 (トミサトヌカミヤ) / 冨里之井 (トミサトヌカー)  [10月10日再訪]

大屋之神屋の隣にもう一つ神屋がある。国元 (クニムトゥ) の有力門中の大屋門中の神屋でここにも拝所としての井戸がある。


村屋 (ムラヤー) 跡

公民館で教えてもらった旧公民館、村屋は集落の中心部のあった。もうすぐ取り壊されるそうだ。


小城集落の御嶽は二つある。西リ之御嶽と呼ばれている古和喜福嶽 (桑木福之嶽 クワゲフクヌタキ) と東リ之御嶽と呼ばれている白金嶽 (シロカネヌタキ) だ。まずは公民館に近い古和喜福嶽 (クワゲフクヌタキ、西リ之御嶽) に向かう。


馬場跡 (ウマィー)

展望台がある丘が古和喜福嶽 (クワゲフクヌタキ、西リ之御嶽) がある場所で、その横を走る道路は、かつての馬場跡 (ウマィー) があった。


古和喜福嶽 (クワゲフクヌタキ、西リ之御嶽)

この西リ之御嶽には多くの拝所がある。公民館でその名前と所在地が書かれた地図を頂いたが、あまりにも多くあるので、石柱で名前がわかるもの以外どれがどれだか良くは分からない。

ここには洒落た展望台があり、天辺まで登り、下界を見ると圧巻だった。


[桑木福之嶽 (クワゲフクヌタキ)、南山女神世]

このメインの御嶽の桑木福之嶽 (クワゲフクヌタキ) なのだが、南山女神世の墓の隣にある。メインの御嶽としては少し寂しい。


[先南山世、南山世]


[玉城世]

名前は書かれていないのだが、地図と照らし合わせてみると、この墓が玉城世の墓と思われる。


[ニーセ石]

訳すと青年石獅子。若者の守り神だそうだ。ニーセーは青年の意味の沖縄の言葉。鹿児島 薩摩の「にせ」とルーツは同じだが、どちらが元祖か? 今まで多くの石獅子を見てきたが全ての石獅子は「火返し (ヒケーシ)」で村を災難から守るという役割だった。この石獅子も元々は与座岳に向けて仇敵であった南山国から守るために置かれていたが、次第に石獅子への願いが変化して行ったという面白いケースだ。石獅子と呼ばず、ニーセ石と呼んでいることからも、村の人の思いが推し量ることができる。


[七腹世、高お墓]

七腹とはこの集落の有力門中 (富里、大屋、仲座、神谷、知念、仲加、屋比久) を示しており七ツ腹と呼ばれている。腹とは門中の分家のことだが、どこの門中の分家なのだろうか? この集落の国元は富里門中。神元は大屋門中で、そのどちらかからの分家なのだろうか?

以上がクワゲフクヌタキ (西リ之御嶽) にある拝所群だが、案内に載っていない墓なども数々あった。

新しい墓もある。部落の有力門中の仲座門中と仲加門中の墓。この二つの門中は姓を共に仲座と名乗っているので縁戚関係なのだろう。

その反面、見つからなかったものがいくつかある。


新屋神屋

クワゲフクヌタキ (西リ之御嶽) から集落のある方向に降りる途中に新屋神屋があった。


大門 (ウフジャー) 

次にもう一つの御嶽の白金嶽 (シロカネヌタキ) に向かう。公民館であった人に教えてもらったのだが、丘陵の麓のマチンジャーから丘陵を登ると、当銘倉城 (トミグラグスク) への入り口の大門 (ウフジャー) がある。ここから白金嶽 (シロカネヌタキ) への階段がある。地元の人はこの道をウマチーロードと呼んでいるそうだ。ウマチーの時にこの道を通って墓参りをするのだそうだ。


白金嶽 (シロカネヌタキ、東リ之御嶽)

大門 (ウフジャー) を登ぼり切ったところから白金嶽 (シロカネヌタキ) が始まる。東リ之御嶽と呼ばれている。ここにも多くの拝所が集まっている。


[仲座之神屋]

小城集落の有力門中の一つの神屋


[御嶽根屋、根屋グサイ井]

御嶽への入り口には根屋がある。中には火の神を祭り、幾つかの香炉は並べられている。根屋グサイ井もあるはずだが見落とした。10月10日に再訪した際に確認できた。1ヶ月近く経っているので、草が伸びて隠れている。

根屋の横に根屋グサイ井が形式保存されている。グサイ とは一体という意味で、この井戸と根屋は一体で拝まれるということ。


[殿グサイ世 (殿御墓)、殿グサイ井 (殿井戸)、根屋グサイ世 (根屋御墓)]

根屋の隣には形式保存された拝所がある。


ここから林の中に入る。


[嶽之火神]


[金満御嶽 (カニマンウタキ) / 白金嶽 (シロカネヌタキ)]

東風平村史ではここが白金嶽 (シロカネヌタキ) であったと書かれている。祀っている神はマシラゴノウイベ (日真白粉御威部) となっている。マシラゴは石ラゴともいい、大きな石の意で、海から上がった神の寄り坐 (ま) し (神霊がよりつく) のことを指している。現在は金満御嶽 (カニマンウタキ) と呼ばれているのだが、金満は察度の弟の泰期を祀っていることが多く、鉄の製造を葬礼したことから金満と呼ばれている。この金満とマシラゴの関係はないと思うが、なぜこの白金嶽が金満御嶽と呼ばれる様になったのかには興味がある。ただ、公民館でいただいた拝所マップには、白金嶽 (シロカネヌタキ) はこの金満御嶽 (カニマンウタキ) とは別に、別の場所にあるとされている。

この隣に金満之殿 (カニマンヌトゥン) があると拝所マップには出ていたが、見つからなかった。


[小城之按司御墓]

小城集落の有力者の墓と思われる。按司墓は大名としての按司の墓を必ずしも意味しておらず、有力者の墓を按司墓 (アジシー) と呼んでいる。拝所マップでは御国世 (男神、女根?) となっている。


[龕世]

龕世 (ガンユ) とは何の墓であろうか?龕は死者を墓まで運ぶものだが、龕世 (ガンユ) とは何の墓であろうか?


[根神、女神]

根神 (ニーガン)、女神の墓と伝わる。根神 (ニーガン) とはその集落宗教的指導者 (祝女 ノロにあたる) のことで、集落の指導者である根人 (ニーチュ) の妹のケースが多い。小城集落は当銘 (當銘) ノロの管轄であったのでそのノロの墓かもしれない。琉球国由来記ではこの白金嶽は当銘 (當銘) 集落の御嶽と記載されている。


[知念、大城世]

知念はこの集落の有力門中である七腹 (富里、大屋、仲座、神谷、知念、仲加、屋比久) のひとつ。大城という門中はないのだが仲加門中の腹に大城という姓がある。その門柱の祖先の墓なのだろう。


[白金嶽 (シロカネヌタキ)]

拝所マップでは白金嶽 (シロカネヌタキ) となっているが、現物には城之御嶽、城之嶽井戸となっている。ここが当銘倉城の守神であったからそう書かれているのだろう。


[野呂墓]   [10月10日再訪]

再訪した際に、白金嶽 (シロカネヌタキ) の林の中に入っていき。幾つかの分岐点がある。その一つ一つを見て回って、その一つにノロ墓があった。ノロの墓だけでなく。門中の拝所 (墓?) にもなっていた。一つ一つに名前が書いてある。左から仲加、神谷、知念、屋比久、仲座、大屋、富里とある。七腹の門中すべてが揃っている。集落の有力門中と祭祀を司るノロの墓がここにあるのは、重要な場所なのだろう。そういえばここに来る道は、ブロックで階段が作られていた。やはり特別な場所ののだろう。


当銘・小城共有龕屋

グスクをつなぐ橋のたもとに、龕屋 (ガンヤ) があり中には龕が保管されている。この龕は1833年に作られ、以降33年毎に修理が行われている。小窓から中が覗ける様になっており、鮮やかな朱色の龕が観れる。

今まで気がつかなかったのだが、死者を龕に納めて墓に運武祭の行列には僧侶が同行している。沖縄では、葬式は仏式で行われていたのだろうか?よく見ると龕にも僧侶や蓮が描かれている。どの集落の龕にも同じ様に描かれている。琉球に龕はどこから、どの様にして伝わったのだろうか?そして龕と、すなわち葬儀と仏教との関係はどうなのかが気になる。今後の課題だ。

この龕は修復は33年ごとに繰り返されているが、第二尚氏琉球王朝時代の1833年に作られたというから200年ほど前だ。4つの字が共有していると書かれている。残りの二つの字はどこだろう。


ウマチーロード

公民館で聞いたウマチーロードの案内板があった。全長1.8kmだ。これを徒歩で往復した。少なくとも集落内の散策も含めて、5kmは歩いただろう。集落の人たちはこの道を通って、拝所巡りをしているのだ。

ウマチーロードは三つの集落にまたがっている。小城、当銘、志多伯の三つの字だ。これはこの三つの集落を統治していた当銘蔵按司の居城の当銘蔵城 (テミグラグスク) もこの三つの集落に広がっているからだ。ウマチーロードは小城にある大門から古和喜福嶽 (桑木福之嶽 クワゲフクヌタキ) と白金嶽 (シロカネヌタキ) を通り、分岐点で、一本は志多伯にある赤石の杜、もう一本は当銘の当銘蔵城 (テミグラグスク) の主郭に通じる。


小城にはここで紹介した以外にも当銘蔵城 (テミグラグスク) の文化財や施設跡があるのだが、それはまとめて、次回の当銘集落の回に記載することにする。


参考文献