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現実を見る「目」と最善の答え

2020.09.19 02:42

https://ameblo.jp/kannnonnji/entry-11056441103.html 【現実を見る「目」と最善の答え】より

おはようございます。

今日はあたたかいですね…

関東に住んでいるのですが、最近、なんだか南国にいるような気分になってきます。

前回の続きです。

河合隼雄さんの『こころの処方箋』より。

「…こんなことを考えたのも、実は漱石の『道草』を読み直す機会があったからである。読んで筋道を知って居られる人も多いだろうが、主人公の男性は、何かと奥さんとすれ違いをし、腹をたてたり悔やんだりしている。そこへ、昔世話になった養父というのが現れて金をせびりに来る。こんなのに今更かかわり合う筋合いではないとわかっているのだが、何となくかかわり合ってしまって、いやだいやだと思いつつ、関係を引きずってゆく。奥さんから見れば、ちゃんとけじめをつければいいのに、ということになるし、それが正しいこととわかっていながら、何のかのと厄介なことが続く。

 これは、日常、どこの家でも見られるゴタゴタがただ淡々と描かれているだけのようにさえ思われる。主人公の男性は学者であり、学問的にしなくてはならないことを沢山かかえこんでいながら、このような日常のゴタゴタで『道草』をくわされてしまっているのだ。

 ところが、この『道草』を読んでいると、そのような現実をじっと眺めている、高い高い視点からの『目』の存在が感じられてくるのである。自分が正しいのか妻が正しいのか、などという判断を超えて、現実をそのままに見ている。そのような目の存在を感じると、『道草』に描かれている日常のいわゆるゴタゴタなるものが、まさに『道』そのものの味をもっていることがわかってくるのである。

 道草によってこそ道の味がわかると言っても、それを味わう力をもたねばならない。そのためには漱石の『道草』ほどまでにはいかないとしても、それを眺める視点をもつことが必要だと思われる。」

「現実をそのままに見る」というのは、なかなか難しいですね。

人間には、物事の「捉え方」というのがあって、その色眼鏡でもって現実を「見ている」ものですから、人によって「現実」が変わってくる。

たとえば、ある人が面白いな、と思って笑ったとしても、それを見た人が「バカにしたな!」と怒り出すこともあります。

「バカにされた」と思った人にとってみれば、それが「現実」なんですね。

劣等感や不安に苛まれている心の内面の世界があって、それを外界に映し出して捉えているんです。

そういう意味では、自分の内面に目を向けない限り、同じような状況や境遇に繰り返し直面し続ける…ということにもなりかねません。

「現実をそのままに見る」ことを阻害しているのは、このような「物事の捉え方」に起因しているのですが、これはふだんなかなか気づきません。

幼少期から刷り込まれて潜在意識に隠れてしまっていることもありますし、もって生まれたものもありますから。

そして、この「物事の捉え方」は、基本的には自分が傷ついたり不安などのストレスにさらされないための防御壁の役目がありますから、ここにメスを入れようとすると、抵抗感があります。

一つ一つ防御壁を解除していくと、不安に怯え、孤独に怯え、傷ついている自分がいたりします。

いわゆる「傷ついたインナー・チャイルド」ですね。

たとえば河合氏が述べている『道草』の場合は、主人公の切っても切れない養父との関係など、無意識下にあるものを含めて、自分の抱えているものをどうしようもなく引きずっている自分、変えようと思っても変えられない現実の自分、今はただ苦しんだり喘いだり悩んだりするしかない自分、そしてそれを取り巻く人たちの感情など、「そのように生きざるを得ない現実」を見通している「目」があるのではないか、と思いました。

じゃあどうしようもなく無抵抗で生きるしかないのか、というとそうではなくて、それぞれの「現実」を見据えながらも、「自分はどうしていきたいのか」という意思と行動こそが問われているのではないでしょうか。

養父との関係が切れるか切れないか、という結果論ではなく、養父とどうかかわっていきたいのか、どのように努力したのか、という姿勢や、そのプロセスが大切なのではないかと思うのです。

結果に囚われると二進も三進も行かないことがよくありますが、大切なことは、その状況、「現実」の中で、なにを考え、どんな意思を持ち、どう行動するのか、ということなんだろう、と。

そして、それどんな結果につながろうとも、それは神様から見ると、きっと最善の答えになるんだろうと思うのです。

人間の単純な価値尺度では測れないものが、そこにはあるような気がします。

そういう意味で、人間にとってできることは、渦中において「最善を尽くす」ことで、結果はどうあれ、その行為そのものによって、ある程度悔いを残さず生きていけるのではないかと思います。

どんな結果であれ、その努力に応じて、自分の考える以上のご褒美を神様は思いがけず用意して下さっているものだと思いますし、そのことを信じることで、さらにそのような「結果」をますます引き寄せることになるのだと思います。

なんであれ、「すべてがうまくいっている」。

そう考え、物事を捉えていく習慣を大切にしたいと思います(^∇^)