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琉大事件を考える(仮称)

私の図書室

2020.09.19 06:45

『複数の沖縄』

https://ameblo.jp/himawarimusume007/entry-12626055887.html

 

復帰決定直後の喜びに湧く奄美のもようを伝える一方で、沖縄の新聞には、「沖縄在住の大島群島出身者も沖縄から大島へ帰還したらどうか」との建言や、復帰を揶揄する投稿寸評、「大島の復帰 パン助の補充を考えねばならぬゾ──基地経済」も載せられた。ちまたでは「奄美出身者は奄美に帰れ」との声が急速に広まり、沖縄市町村長会もこれを要望。こうした世論も背景にして、奄美側から琉球政府に要請された多方面にわたる引継業務などの特別の配慮は大方却下され、逆に補助金や交付金の支給は停滞させられ、債権債務の整理取り立てが厳しく迫られた。
 そして在沖奄美出身者については、米軍政府・琉球政府がそれぞれ公務員・軍労務者の継続勤務は不可能と発表、解雇通達と離職勧告を発し、また沖縄に本籍を移すための厳しい条件(高収入など)も示され、さらには引き揚げる場合の所持金制限も当初予定の日本円10万円から7200円に大幅圧縮されていった。これらの措置は、つまるところ財産や既得権益をすべて捨てて出ていけというに等しかった。
 こうして奄美復帰後の沖縄社会における奄美出身者差別が始まった。

 このいわゆる「沖縄の知られざる差別」についてはこれまで、意図的に黙殺されるか、それとも、ヤマト向けの「沖縄のこころ」の看板が隠蔽しようとする沖縄の排他的なシマ社会の暗部を照らしだそうとする真摯な告発において光を当てられるか、そのどちらかだった。

 この戦後沖縄の抑圧的発展の内部に構造化された「大島人」差別とその人間性の収奪・破壊、それが奄美復帰の移行期における野放しの集団的排斥行動の是認をへて、奄美復帰後には在沖奄美人差別として制度化され沖縄社会に常識化されていったのであった。

 日米同盟の、そして東アジアの冷戦構造の矛盾の集積地として、〈基地沖縄〉の社会に暴力と抑圧が集中し渦巻いていたからこそ、この抑圧基地の内部において「沖縄人」は「大島人」に対する収奪構造に加担する差別と抑圧の主体として編制された。「大島人」差別はシマ社会の民俗的暗部に神秘化されるべきではなく、戦後琉球・沖縄の歴史経験のひとつとして歴史化されるべきである。

 対ヤマトの「沖縄のこころ」の称揚における奄美差別の隠蔽については、新崎盛暉が前掲『戦後沖縄史』366頁における大田昌秀批判で指摘している。新崎は日本社会における/対する少数者の立場・独自性に徹することによって「沖縄の歴史的体験」が、単なる被害者意識にとどまらずに、根源的解放や連帯につながるとの当為や「願望」を語ってきた(新崎「湾岸戦争と沖縄」と同論文をめぐる共同討議『新沖縄文学』88号、1991年参照)。だが「弱者敗者被支配者の歴史的体験」を「強者勝者支配者」のそれと切り離し対比させる歴史認識と差別構造論の設定には、素朴で直感的な民衆の歴史意識がもつ可能性に寄り添おうとする判断(『ウチナーンチュは何処へ 沖縄大論争』実践社、2000年、76頁)があるにしても、大きな限界と背中あわせになる問題性がある。新崎は沖縄の「弱者敗者被支配者の歴史的体験」が保証するであろう「認識における優位性」が、ヤマト化による「脱南入北」によって捨て去られてきたことを慨嘆するが、それでは復帰以前、ヤマト化以前の沖縄を平板な被支配者の平等の地平で神話化させる自己矛盾に接近する。もしも沖縄の歴史経験が「弱者敗者被支配者」の像に塗りこめられるならば、その「認識における優位性」は被害者意議の城を越えられない。

 重要な批判もだされているものの、外在的なレッテル貼りに牽引されて議論の背景と核心に踏みこみえていない点で、これまでの沖縄イニシアティブ批判はほぼ過去の達成と到達点の再確認にとどまっており新たな力を生みだしえていない。むしろ論敵の見やすい過誤と粗雑をやりこめるなかで、濃淡の差こそあれ、戦後沖縄の「伝統」護持の姿勢が立論にもぐりこまされ、巨悪を論破する必要の名の下に、沖縄「革新」(むろん歴史論を含む)に内在する形骸化や抑圧、自壊作用が免罪され放置されかねないところにこそ、この歴史論争の危機と限界は露呈している。文化(論)の政治性を批判するならば、その上澄みだけでなく、政治や権力に向かう人間の懊悩とその文化をも同時に対象化し、人間と政治のあり方にえぐりこんでいくべきである。それがもしあるとするならば知識人、歴史研究者の社会的役割であり、権力批判に向かうときに落ちこみやすい陥穽に敏感であるべきだ。論敵を矮小化することで情況認識を狭隘にし、また自己剔抉の契機をなくしていくという陥没が伝染・連鎖していく事態(これが権力のもっとも悪質な罠だろう)をこれ以上繰り返さないためにも、高良らにむけられた「現状追認」だという批判は、その真っ当さのためにこそ思想の問題において跳ね返ってこなければならない。