月日は百代の過客にして - 芭蕉の時間軸と旅 【超訳】
https://ameblo.jp/raindrop5588sp/entry-12520771729.html 【月日は百代の過客にして - 芭蕉の時間軸と旅 【超訳】】 より
俳聖松尾芭蕉の「奥の細道」は、次の言葉から始まる。
月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人也
ここでは「過客」と「旅人」という表現が用いられている。「過客」とは、通り過ぎて行く人を意味し、これも「旅人」と解釈される。
それなら芭蕉はなぜわざわざ「旅人」を、別の言い方に変えたのだろうか。
個人的には、「月日」と「行かふ年」を、同じ意味での旅人として扱うべきではないと考える。
これを見てゆきたい。
日々は過ぎゆき、戻ることはない。過去のいっさいは過ぎてゆき、いまのものではなくなり続ける。
「百代」とは、戻るはずもない時間軸の上にある。
それなら、過客という言葉にあるのは、「直線的な時間軸」としての捉え方だ。過ぎ去ったものは戻ることなく、真っすぐに過去へと向かってゆくだけなのだ。
対して、「行きかふ年」はどうだろう。
たとえば新年が近づいている時期なら、正月はすでに一年近く前に終わっていると言える。しかし、終わっているはずなのに、ふたたびやってくる。
これが「行かふ年」だ。ここにあるのは、「循環する時間軸」としての捉え方だ。過ぎ去っても、くり返し戻ってくる日々があるのだ。
つまり、「過客」にも旅人という意味がありながら、同じものにはならない。
それなら、直線的な時間軸と、循環する時間軸とを「旅人」という言葉に織り込めば、次のような概念の迷宮が成り立ってくるのだ。
時間軸の旅人は、通り過ぎればふたたび会うことはなく、しかし必ずまた再会する。
月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人也 【超訳】
この日々、旅の途上にあり、過ぎ去っていった日々。
ふたたび邂逅することはないだろう。── 日々は、告別そのものとして訪れ、そうして過ぎてゆく。
だが季節は移りゆき、去年と同じ日がふたたびめぐってくる。
私の前に還ってくる旅人がいる。── 私は何度でも再会するのだ。
過ぎ去り、遠ざかり、だが、くり返しめぐり来る、季節の中の旅人と。
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芭蕉には時間軸の二つの概念があるということを踏まえて、彼の最後の俳句を見てゆきたい。
次の句によって終わりを告げた彼の旅は、時間軸の中にあって、どのようなものだったのだろうか。
旅に病んで夢は枯野をかけ廻る
芭蕉は、「旅に病み」と五音にするのではなく、「旅に病んで」と、あえて六音の「字余り」にした。
字余りはリズムを崩す。しかし、崩れたリズムによって、引きずるような重たさが出てくるのだ。
ここでこの俳句を、字余りを避けて次のように詠んだらどうだろうか。
旅に病み夢は枯野をかけ廻る
この場合、句が明快なリズムを持つがために、やがてふたたび立ち上がって、旅を続ける意志が潜在しているのが感じられる。
だが芭蕉はそのような表現を選ばなかった。
「旅に病んで」という表現には、旅の終焉を告げる重さがあり、つまり彼は彼の肉体の終焉を明確に感じていたと考えられる。
死によって直線的な時間軸は終焉する。
しかし循環する時間軸の中にあって、彼の夢は永遠に旅を続けることになるのだ。
旅に病んで夢は枯野をかけ廻る 【超訳】
旅にあって、通り過ぎていった日々。── いまは病み、旅にあった日々は遠ざかる。
夢なのか、枯野よ。── 命の気配すら見えず、だが命の種子の眠る枯野よ。
すでに病み果て、いまは重すぎるこの身を離れ、── 私の魂は私の終焉を超え、命の眠る枯野をかけ廻るのだ。