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月日は百代の過客にして - 芭蕉の時間軸と旅  【超訳】

2020.09.19 13:57

https://ameblo.jp/raindrop5588sp/entry-12520771729.html  【月日は百代の過客にして - 芭蕉の時間軸と旅  【超訳】】 より

俳聖松尾芭蕉の「奥の細道」は、次の言葉から始まる。

月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人也

ここでは「過客」と「旅人」という表現が用いられている。「過客」とは、通り過ぎて行く人を意味し、これも「旅人」と解釈される。

それなら芭蕉はなぜわざわざ「旅人」を、別の言い方に変えたのだろうか。

個人的には、「月日」と「行かふ年」を、同じ意味での旅人として扱うべきではないと考える。

これを見てゆきたい。

日々は過ぎゆき、戻ることはない。過去のいっさいは過ぎてゆき、いまのものではなくなり続ける。

「百代」とは、戻るはずもない時間軸の上にある。

それなら、過客という言葉にあるのは、「直線的な時間軸」としての捉え方だ。過ぎ去ったものは戻ることなく、真っすぐに過去へと向かってゆくだけなのだ。

対して、「行きかふ年」はどうだろう。

たとえば新年が近づいている時期なら、正月はすでに一年近く前に終わっていると言える。しかし、終わっているはずなのに、ふたたびやってくる。

これが「行かふ年」だ。ここにあるのは、「循環する時間軸」としての捉え方だ。過ぎ去っても、くり返し戻ってくる日々があるのだ。

つまり、「過客」にも旅人という意味がありながら、同じものにはならない。

それなら、直線的な時間軸と、循環する時間軸とを「旅人」という言葉に織り込めば、次のような概念の迷宮が成り立ってくるのだ。

時間軸の旅人は、通り過ぎればふたたび会うことはなく、しかし必ずまた再会する。

月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人也  【超訳】

この日々、旅の途上にあり、過ぎ去っていった日々。

ふたたび邂逅することはないだろう。── 日々は、告別そのものとして訪れ、そうして過ぎてゆく。

だが季節は移りゆき、去年と同じ日がふたたびめぐってくる。

私の前に還ってくる旅人がいる。── 私は何度でも再会するのだ。

過ぎ去り、遠ざかり、だが、くり返しめぐり来る、季節の中の旅人と。

■■

芭蕉には時間軸の二つの概念があるということを踏まえて、彼の最後の俳句を見てゆきたい。

次の句によって終わりを告げた彼の旅は、時間軸の中にあって、どのようなものだったのだろうか。

旅に病んで夢は枯野をかけ廻る

芭蕉は、「旅に病み」と五音にするのではなく、「旅に病んで」と、あえて六音の「字余り」にした。

字余りはリズムを崩す。しかし、崩れたリズムによって、引きずるような重たさが出てくるのだ。

ここでこの俳句を、字余りを避けて次のように詠んだらどうだろうか。

旅に病み夢は枯野をかけ廻る

この場合、句が明快なリズムを持つがために、やがてふたたび立ち上がって、旅を続ける意志が潜在しているのが感じられる。

だが芭蕉はそのような表現を選ばなかった。

「旅に病んで」という表現には、旅の終焉を告げる重さがあり、つまり彼は彼の肉体の終焉を明確に感じていたと考えられる。

死によって直線的な時間軸は終焉する。

しかし循環する時間軸の中にあって、彼の夢は永遠に旅を続けることになるのだ。

旅に病んで夢は枯野をかけ廻る  【超訳】

旅にあって、通り過ぎていった日々。── いまは病み、旅にあった日々は遠ざかる。

夢なのか、枯野よ。── 命の気配すら見えず、だが命の種子の眠る枯野よ。

すでに病み果て、いまは重すぎるこの身を離れ、── 私の魂は私の終焉を超え、命の眠る枯野をかけ廻るのだ。