ジョブズ伝説のスピーチと禅の思想
https://style.nikkei.com/article/DGXNASFK1602D_W2A510C1000000/ 【ジョブズ伝説のスピーチと禅の思想】 より
「ハングリーであれ。愚かであれ」。多くの人々の心を打った米国スタンフォード大学卒業式でのスティーブ・ジョブズのスピーチは、ジョブズが信奉した禅の精神を思わせるメッセージに満ちていた。今回は、特に道元の発言や教えとの共通項を探った。
~米国スタンフォード大学卒業式でのスピーチ(一部抜粋)~
[A] 17歳のとき、こんな言葉に出合いました。「毎日を人生最後の日だと思って生きたなら、いつか必ずそれが正しいと分かる日が来るだろう」。私はこの言葉に感銘を受け、それ以来33年間、毎朝鏡に映った自分にこう問いかけてきました。「もし今日が人生最後の日だとしたら、今日これからやろうとしていることを本当にしたいだろうか?」と。「ノー」の日が続いたなら、何かを変えるべきだと分かります。
解説:[A] ジョブズが出合った言葉が誰によるものかは不明だが、『随聞記』には「古人(孔子)いわく、朝に道を聞いて夕に死すとも可なりと。いま学道の人も此の心あるべきなり」という、今日を最期の日として、最善を尽くして生きることの大切さを説いた言葉がある。また、江戸中期に武士の心得として記され、今も読み継がれる名著『葉隠』にも、同様の一節がある。ジョブズの愛読書『弓と禅』を書いたヘリゲルは、『葉隠』に多大な影響を受けたという。ジョブズもまた心引かれていたのではないだろうか。
[1] 自分の死期が迫っていると意識したことが、人生の重大な選択をするときに、最も大切な判断材料になりました。なぜなら、周囲からの期待、プライド、羞恥や失敗への恐れといったあらゆるものが死を前にして意味を無くし、本当に大切なことだけを残してくれたからです。既に失うものなど何もない裸の状態だと感じれば、自分の信念に従わない理由などなくなります。
解説:[1] 行うこと自体が難しいのではなく、良く行おうとすることが難しいのである。(苦や輪廻を)出離して、道を得るための行は、人々がそれぞれ心に期するものがあるが、それを良く行うのは難しい。しかし、生死とは我々人間にはどうしようもないし、無常は迅速に迫ってくる。心を緩くしてはならない。世を捨てる時には、真に世を捨てるべきである。(『随聞記』巻四―二)
「無常迅速」という言葉通り、人の世の移り変わりが速いと考えるのは、禅の基本思想。いつかはやろう、と先延ばしにする心の緩さでは、結局何も達成できない。なかなか当てることができなかった矢をついに的に当てることができたのは(一当)、百回失敗しても諦めなかった努力によって支えられている。この「百不当」の精神で不断の努力を続けることが重要だ。
1年ほど前、私はがんだと診断されました。朝7時半にCTスキャンを受けると、はっきりと膵臓の腫瘍が映っていたのです。私は、膵臓がどんなものかすら知りませんでした。医師はほぼ間違いなく治療できないタイプのがんであること、そしてあと3カ月ないしは半年しか生きられないことを私に告げ、家に帰ってやるべきことに優先順位を付けるように、とアドバイスをしてくれました。それは、医師が告げる「死ぬための準備をしろ」という暗号でした。死への準備とは、これから10年かけて子供たちに話そうと思っていたことを、たった数カ月間で伝えるということであり、身辺整理をしてできる限り家族に迷惑をかけない、ということです。そして、みんなに自分なりの別れを告げることでもありました。
一日中、その診断結果が頭から離れませんでした。その日の夕方、膵臓に針を刺して腫瘍の一部を採取する生体検査を受けました。私は鎮痛剤を投与されていましたが、その場にいた私の妻はこう話してくれました。医師たちがマイクロスコープで細胞を見ると、泣きだしたというのです。膵臓がんのケースとしてはまれに見る、手術で治癒できるものだったからでした。そして手術を受け、ありがたいことに今では健康を取り戻しました。
これが、私が最も死に近づいた瞬間であり、これから数十年はこれ以上の経験はしたくありません。この経験を通して、ただ純粋に概念として死は人生の助けになると考えていたときよりも、確信を持って伝えられることがあります。
死を望む者など誰もいません。たとえ天国に行きたいと願う人ですら、天国に行くために死にたくはないのです。[2]それでも、死はすべての人に訪れ、誰も逃れられません。そうあってしかるべきものなのです。なぜなら死とは、生が生み出した唯一にして最高の発明だからです。死は人生に変化をもたらす因子です。旧きを一掃し、新しきに道を与えます。今の皆さんは“新しき”ですが、いつかそう遠くないうちに、少しずつ“旧き”に近づき、いずれは一掃される日が来るでしょう。大げさで申し訳ないが、これが現実なのです。
解説:[2] 生を使いこなすに、生に引き止められず、死を使いこなすに、死をも邪魔にしない。いたずらに生に執着してもいけないし、むやみに死を恐れてもならない。それは、この身はすでに仏性の在りかなのだから。(『正法眼蔵』「仏性」巻)
「今生きて元気でいても、人は必ず死ぬ。生を生として受け止め、死を死として見つめることは、人の心を自由で豊かなものにする。生きているときは生きていることだけ考え、いよいよ死を迎えるときは死の事実だけを受け止めればよい。生に執着しすぎたり、死をみだりに恐怖したりすることは逆にその自由を奪ってしまう。「今」を無駄にせず生きることが、何よりも大切だ。
[3]皆さんの時間は限られています。だから、誰かの人生を生きて時間を無駄にしないでください。自分の内なる声を周りの雑音にかき消されないでください。一番大切なのは、自分自身の心と直観に従う勇気を持つこと。不思議なもので自分の心と直観は、自分が本当にありたい姿をよく分かっているものです。それ以外は二の次でいいのです。
解説:[3] 夜話にいわれるには、修行者たる者、必ず誰しも死ぬことを思うべきである。道理は勿論のことであるが、例えばその言葉を思わなくても、まず時間を無駄に過ごさないようにと思い、無用なことをして無駄に時を過ごすことをせず、(仏道修行に)意味があることをして時を過ごすべきである。そのなすべきことの中に、また一切のことの中で、何が大切かというと、仏祖の行いの他は皆無用だと知るべきである。 (『随聞記』巻三―十四)
生まれた瞬間から死に向かって歩み始めるというのが禅の考え方。常に死と向き合うことが、最善を尽くして今を生きることにつながる。人生は一度きり。自分に代わる人間はいない。多くはそのことを忘れて、日々他人の視線や評価を気にしながら生きている。自分の内なる声に耳を澄ませ、常識や慣例や他人の目に惑わされず、本当に達成したいことを見極め、実行する勇気を持つこと。それが自らの「仏性」を見いだすということなのだ。
(c) AP/アフロ
私がまだ若かった頃、『ホールアース・カタログ』という素晴らしい出版物がありました。それは私たちの世代にとっては、バイブルのような存在でした。スチュアート・ブラントという人物が作ったもので、彼の詩的なセンスがその雑誌に息を吹き込んでいたのです。それは1960年代後半のことで、理想主義的で、クールなツールにあふれ、素晴らしい概念がほとばしっていました。
『ホールアース・カタログ』は1970年代中盤に最終号となりました。私がまさに君たちの年齢だった頃です。最終号の裏表紙には、こんな言葉が記されていました。「ハングリーであれ。愚かであれ」。それが、彼らがペンを置く際に記した別れのメッセージです。ハングリーであれ。愚かであれ。私はいつも自分自身にも言い聞かせています。そして今、卒業して新しい人生を踏み出す皆さんにも、この言葉を贈ります。
ハングリーであれ。愚かであれ。
ありがとうございました。