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真山隼人 独占!ロングインタビュー! 2020年9月号より

2020.09.21 09:28

4月以来久しぶりの十三浪曲寄席通信です。今回のテーマは主に3つ。コロナ禍での活動状況と桂須磨子師匠、曲師・沢村さくらさんの芸歴20周年についてです。この3つでなんと1万字以上のインタビューになりました。初めからそのつもりではなかったのですが、色々興味深いことが多くて、とめどなく質問してしまいました。ちなみに、インタビューの前後にも2時間近く話してます。削るところない面白い内容ですので、ぜひ小分けにしてでも全部読んでいただける幸いです。特に沢村さくらさんの部分は必見です。

目次

1.コロナ禍での活動。CD発売の裏側など。

2.桂須磨子師匠に会いに行った話

3.沢村さくら芸歴20周年


1.コロナ禍での活動

―久しぶりの十三浪曲寄席通信です。まず、通信を出していなかった期間、コロナ禍での活動について教えてください。予定していた仕事はほとんどがキャンセルになりましたよね。

隼:飛びましたね。中でも一番大きかったのは十周年の公演が飛んだことですよ。

―そうですよね。

隼:でも、ぼくは十周年の公演は何かしらの原因でできない気がしてたんですね。

―どういうことですか。

隼:ぼくの先輩の幸いってん兄さんは十周年の公演前に白血病で倒れて、できなかった。そのお兄さんと親しかったのもあり、なにかそういう予感がありました。ゲストも米團治師匠と千之丞さん、南龍兄さんと来てもらう予定だったので、簡単に代わりに九月やりましょうということもできないので、これが一番残念だったんですけど。これから二十周年、三十周年があるじゃないかと元気出して頑張ってます。

コロナ禍で一番困ったのは浪曲しかやってきてないので、浪曲以外の働くスキルを持ってないことです。今さら自分が働きに出ることもできず。どうやってお金を稼ぐかと。それに、さくら姉さんも三味線で食べてるわけです。さらに、ぼく弾いてもらうために他の人を断ったりもしてますから、やっぱり責任は感じますよね。なんとしても生活費を稼ぐ思いと、またこのまま自粛が続くと浪曲を観てもらうこともできないという不安もあって、作りだしたのが、ご存知の通り、超お手製CDです。知り合いのインディーズバンドが同じようなことをやっていたので、ぼくもやろうと思いついたんです。お手製といってますが、ちゃんとスタジオで機械立てて録ってるんですよ。それをMDで編集して、CDに焼いて、さくら姉さんと二人でジャケット書いて始めたわけです。最初は「こんなん売れへんよな」と思って宣伝したところ、一晩で百枚!

―すごい。

隼:一日で百。だから作るの大変ですよ。

―製造が追いつかない。

隼:そうなんです。紙パッケージも一枚一枚丁寧に折ってるわけですから。それも紙が舶来品なんで、ちょっといい値段するわけですよ。だから在庫抱えるのちょっとキツいなとか思いながらも、思い切って200枚買って、パート1は今270枚くらい売れてます。

―すごいですね。隼人さんは浪曲しかできないと言いますけど、浪曲によってお金を稼ぐための方法まで身に着けてますよね。編集したり、そもそもCDに需要があることに気がつくこともセンスを感じます。

隼:そうですね。ぼくは演歌浪曲をやってたじゃないですか。そのカラオケってMDで流すんですよ。だから、(初代真山一郎)先生の家にあるオープンリールやMDを借りてきて、自分のMDにコピーをしたり、テレビでやる時は自分なりに編集して短くしたり。

―それめっちゃ大変じゃないですか。

隼:はい、違和感ないように一小節切ったりとか、フェードアウトさせて、インさせたりとか。その知識をぼくは全部アナログのMDで勉強したんですよ。すごいめんどくさい作業なんですけど、だからMDで編集することに関しては誰よりも自身があるわけです。

―なるほど、それで技術があったんですね。

隼:だから、録音する機械もちょっといいのでがあるんです。編集に関してもパート1は録音した音源をそのまま流してるような感じなんですけど、パート2あたりからちょっとエコーかけてみようとか、エコーによってスタジオ感を増したりとか、そんなこともしてます。

―おぉ(笑)

隼:いろいろ小技を使いだしてるんです。しかも、皆さん一発録りしてると思われるんですけど、実はわりと止めて録ってるんですね。噛んだらちょっと前からやり直したり、その辺の全部三味線の微調整とか、白みを入れて違和感なく聴かせる工夫してるんで、わりと一本の撮るのに1時間くらいで、編集するのに1日くらいかけてるんですよ。

―そうなんですね。やはり隼人さんは浪曲しかできない人とは違う気がします。浪曲の発信方法までを考えてる。

隼:やっぱ浪曲を聴いてもらいたいというのもありますし。浪曲でお金を稼ぐということについては色々考えましたよ。虎造先生の「石松三十石」ってたくさん音源出てるじゃないですか。それぞれの良い個所を集めて一本の「石松三十石」のテープを作って海賊版のレコードを売ったところがあるって聞いたことがあって。それをヒントに浪曲の海賊版のCDを作って売ろうって一瞬思ったんですよ。「蘇る名作集」的なものです。そう思ったんですけど、これやって後で訴えられたら怖いなって。

―怖すぎですよ。浪曲界から追放されますよ(笑)。

隼:終わりますね。どうしようかな…そうや、過去の音源で出すからダメなんや、それなら自分で吹き込んで出したらんやと。

―そうです。浪曲できるんですから(笑)。

隼:そうです。それを忘れてたわけです。ぼくはただの商売人じゃなく、ぼくは浪曲師なんだ。石松でもやって吹き込んだらいいわけです。

―そういうことですね。

隼:でも、これはあくまで売れてない強みなんですよ。

―なぜですか。

隼:もう少し売れっ子の人がこれをやっちゃうと、何やってねん的な苦情も来ると思うんです。けど、ぼくみたいな白羽の刃をかいくぐりながら、生きてる人間ていうのはなかなか炎上もしないし、ツッコミが入っても、消火できるレベルなんです、あんまり売れてないからこそ、どんどん挑戦できる。ありがたいですよね。

CDは3月25日に発表して、4月1日に発送したんですけど、調子に乗って4月8日にパート2を販売しました。すごくないですか!二週間ちょっとで2枚出してるんですよ。新譜をこのスパンで出すのは昭和60年代にローオンレコードがつぶれて以来の快挙やとぼくは思っているわけですよ。

―(笑)

隼:だからローオン魂ですよね。一人ローオンレコードみたいな。

―続けていくと、そういう存在になるかもしれないですね。

隼:あと、これはもう時効やと思うんですけど…。

―なんでしょう(笑)

隼:パート2を録った時点で緊急事態宣言が出てしまって、スタジオも閉鎖になったんですよ。スタジオが閉まったから、普通に考えたら新譜はとれないじゃないですか。実はパート3とパート4は…さくら姉さんの家で録りました。

―えっ、音としてはちゃんとしてますよね。

隼:ばれないように静かな時間に、トラックが通ったら止めたりしながら録りました。そして、イコライザー使って雑音を消したり、エコーとか色んな加工して、案外それらしく聴こえるようにできたんです。実は一か所だけ救急車の音入ってる箇所があるんですけど。

―編集能力の高さにまたびっくりしました。

隼:三味線の切れ目とかも考えながら録ってるんです。今回ので僕も録ったり編集する技術の勉強には改めてなりましたね。

―隼人さんにしかできなかった理由がわかりました。これは簡単にマネできないですね。

隼:できるもんならやってみって話ですよ(笑)。

―(笑)

隼:だから、次は京山幸太版とか京山幸乃版とか出せたら。四郎若師匠や幸枝若師匠は大手がやると思うので。

―隼人レコード…浪曲の若手を中心にCDを発売する(笑)

隼:芦川先生に「おお、レコード屋」って言われたんですよ(笑)。

最近はさすがにパート5まで出して売り上げは落ちてますけど、CDのことは新聞やラジオにも取り上げていただいたんで、北は仙台、南は鹿児島まで色んな方が言ってくださって、結果的にファンが増えましたね。ありがたいですね。

―地理的な垣根はだいぶ消えましたね。

隼:そうですね。単純に商売したいわけじゃなくて、浪曲を聴いてもらうための活動だったんで、そういう意味では嬉しいですね。

―ちなみに、YouTubeをしてる芸人さんが多い中でCDにした理由はあるのですか。

隼:まず動画の技術がないんですよ。それにYouTubeはURL売れないからお金儲けするのにお気に入り登録してもらったり、色々あるじゃないですか。それをクリアするために、タダで動画を挙げないといけない。だからCDにしました。動画の案もあったんですけど。例えば「浪曲と料理」。今日は国十郎先生のモノマネしながら卵焼き作りますとか。

―すごいですね(笑)

隼:隼人のクッキング。一人暮らしで培ったものを見てくれと、もつ煮込みとか。

真面目な話に戻すと、動画はまず桂紋四郎が始めて、みんなやったわけですよ。そこでぼくが始めたら五番煎じなわけですよ。そんなんやっても絶対続かへんし、売れへん。じゃあ、自分に何ができるって考えた結果がCDです。これは自分にしかできないことやと。

―他の人に惑わされずに、ちゃんと目的は明確にしたまま、自分に何ができるか考えて行動して結果出してますもんね。

隼:だから、ぼくは演芸界見てて思うのは、演芸に来るっていうのはある意味デジタルに乗り損のうたから来てる人も多いと思うんですよ。それやのに今はよってたかってデジタルでやらなアカンとなってしまってる。

―そういう空気ありますよね。

隼:でも案外、今こそアナログの強みを発揮していくべきではないかと、コロナの時代に思いましたね。

―デジタル化とか最新のものを使うことにこだわってないですもんね。最近始めたメルマガもデジタルですが、やり方でいうと新しくはない。

隼:形にはこだわらないですね。あと、デジタルは消えるわけですよ。ヤフーブログが終わったんです。それによって、ヤフーブログに書いてあった過去の浪曲の評論とか記事もいっきに読めなくなった。それ以外にも昔好きだった浪曲のサイトとかも、久しぶりに見たら、なくなってたりするわけです。結局デジタル化しても最後に残るのは紙媒体と石なわけですよ。石に掘っておくのが一番いい。

―たしかに(笑)

隼:だから、紙媒体が一番強いですよね。ぼくも台本をパソコンで打ってたんですけど、それをやめたんですよ。今は全部原稿用紙。

―それの方が残り方としてもいいかもしれないですね。あの後々に発見された時に、パソコンの字やったら誰の筆跡がわからないし、書き方で伝わるものもきっとありますよね。

隼:そうなんですよね。だから、万年筆に手書きするのにこだわってて、コロナでみんなマスク買い込んでたじゃないですか、ぼくは代わりに原稿用紙!買い占めましたね。外出も出来ないから、勉強するんだって。400字詰め20枚入りを10部くらい買いました。

―すごい量。ホンマに買い占めてますね。

隼:さすがにすぐに使い切らんはと思ってたんですけど。見事に8月中になくなりました。

―そんなに書いたんですか。

隼:書きましたね。自分でもびっくりしてる。CDにするために元々持ってたネタを洗い直して新しいものにしたのと、緊急事態宣言で暇になって毎月ネタおろしできるなと思って、始めたら見事に使い切って、すごいなぁと自分でも感動しました。

―コロナ期間中、作家として活動も休んでないですね。

隼: この緊急事態宣言で家も出ないし、することと言えばCD作るか、ネタを書くか。だから、晴耕雨読の雨読がずっと続いてる感じですね。

―コロナ禍でネタがたくさん増えましたが、中でも仏法僧、菊花の約と「雨月物語」に凝ってはりますよね。

隼:そうですね。雨月物語は生涯の友として全9作をぼちぼちとやっていきたいなと思っています。ただ体力いるんですよ。

―ちょっと暗い話もありますもんね。

隼:心霊現象だったり、人の情やったり、今度やる「菊花の約」ですと男同士は愛情ですからね。

―そうなんですよね。

隼:そういうのを簡単にBLだなんて言う人がいるんですけど、ああいうの嫌いなんですよ。そういうので片付けたくないんです。

―一括りにするなってことですよね。流行ってるものに何でも結びつけようとする人はいますよね。

隼:BLで売ったらって言ってくれた人もいるんですけど、そうじゃないと思っています。

―ちなみに、先代の真山一郎先生は雨月物語9作全部持ってはったのですか。

隼:いや、そうじゃないです。浅茅が宿は先代もやってますけど、仏法僧、菊花の約は他の浪曲師がやってて、それ以外は今は資料もない状態で。

―なるほど、では残りの6作は自身で書いていくことになりそうですね。

隼:いや、浪曲を書いてて思うのが、上田秋成とか、こういう古い話っていうのはやっぱちゃんと学のある人に書いてもらわないと難しいですね。ただ講談本を起こすのとは違いますね。

―なるほど。まず雨月物語を正しく解釈して、そこから内容を抽出して浪曲にすることが必要そうですもんね。確かにオリジナルの浪曲を書く作業とはまた違う気がします。

隼:今、雨月物語とは別に芦川先生に一本書いて頂いた作品があるんですよ。同じものを自分でも先に書いてたんですけど、芦川先生の台本を見て、自分ではダメだって思いました。それでわかったんですけど、本って読み言葉なんですよね。でも、浪曲ってのは語りなので、そこがやっぱずいぶん違うんだなとか。小説には起承転結があり、伏線回収とかもあるわけで、それをどう浪曲に置き換えていくのかっていのはぼくみたいな人間にはこれはできないんですよ。

―浪曲の様式美を知り尽くしてる隼人さんでも難しいですか。

隼:難しいですね。だから、そういうのは先生に頼んで行こうと思います。雨月物語も9作それぞれにこの人に書いてほしいというイメージもあるわけです。話の内容とその人の作風を考えてお願いしたいなと思っている次第です。

―いいですね。それはすごく面白いものができそうです。


2.桂須磨子師匠に会いに行った話

―さて、次は緊急事態宣言後に三重までお会いしに行った伝説の浪曲師・桂須磨子師匠の話を聞かせてください。そもそも隼人さんが桂須磨子師匠を知ったきっかけは何だったのですか。

隼:ぼくは入門して修業中、一心寺から帰る時は難波まで歩いていたんですね。ほんで、その道に大十というレコード屋さんがあって、そこの浪曲のレコードがめちゃくちゃあるんですよ。

―宝の山ですね。

隼:宝の山ですよ。初めて見た時、興奮したくらい。そこでレコードを10枚でも買って帰るのが日課になってて、楽しかったですね。幸枝若フェアとか真山一郎引退特集とかやってるんですよ。

―行ってみたかったな。

隼:そこのお店に桂須磨子という浪曲師の音源も売ってたんです。桂須磨子って聞いたことないなと思って、浪曲の名鑑見たらどれにも見ても載ってるんですよ。昭和30年代に日の本さくら師匠に入門して、大看板の巴うの子師匠のところでも修業した、その後30年代の感じのまま平成8年まで回ってたと。昭和30年代の浪曲の回り方を平成の途中くらいまでやってたことを知って、すごい人やなと興味が沸いたわけです。でも、誰に聞いても詳しいことは知らない。そして、意を決して音源を買ったら、シンセサイザーですよ。昭和50年代40年代のノリノリのシンセサイザーの感じ、他にも色んな楽器使ってるんですけど、節は普通の浪曲の節。それやけど、ノリノリでやってる。歌謡浪曲をやってる身としてはもう一発で虜になるじゃないですか!なんてかっこいいんだと!この曲調にハイテンションな感じ。しかも真山の歌謡浪曲っていうのはカラオケですよ。でも、桂須磨子師匠はどう聞いても生伴奏でやってるんです。

―バンドですね。

隼:桂須磨子バンドみたいな。なにこれ⁉って思って。また買ってみたら、浄瑠璃もシンセサイザーでやってるんですよ。

―編曲かアレンジができるんですね。

隼:編曲力すごいし、それに合わせる師匠もすごい。もう虜ですよ。ほんで色々調べたら、三重県に住んでいることがわかって。まだお元気というのを聞いてたんですけど、当時はまだ修業中やったこともあり、連絡は取らなかったですよ。だから、みんなは最近になって僕が急に桂須磨子って言いだしたと思っているんですけど、違うんですよ。ぼくはずっと好きなんですよ。この10年間。

 それでずっと会わないままきてたんですが、ぼくもコロナで色々考え方も変わってきて、会いたい人には会える時に会って話を聞いておきたいという気持ちが込み上げてきてたんです。そこで誰に会いたいかって考えた時に「桂須磨子師匠や!」と。こうなったわけです。今連絡しなければ絶対後悔すると思い、タウンページで調べて、恐る恐る電話したら

「ハイ、モシモシ~♪」。

絶対この人やってわかる声のトーンです。

「あの桂須磨子師匠ですか、実は私浪曲をやってまして。師匠のネタをやらせてもらえませんか」

って頼んだら、

「いいですよ。私もうやってませんからやってください」

って言ってくださって。ご挨拶だけ伺いたいと尋ねたら、それも快諾してくださって。それで自粛明けてから三重まで飛んで行ったわけです。緊張しました。

―どういう人かわからないから怖いですよね。

隼:すごい優しい方で。過去の色んな話を聞かせてくださいました。今の浪曲の歴史って浪曲協会を取り巻く歴史ともいえる側面があるじゃないですか。それとは違う、協会とは違う浪曲の歴史です。

―メインストリームじゃないところですね。

隼:師匠は私はドサですからっておっしゃってるんですけど、そうじゃないんですよ。ちゃんと大看板師匠のところで修業して、ずっと一生懸命やってこられた、また別の浪曲の歴史っていうのがあるんです。

―興味深いですね。そういう浪曲のやり方は昭和30年代頃に特に栄えてたんですかね。

隼:昭和40年頃までは色んな浪曲師が一座を組んで旅をしてたって聞きましたね。でも、徐々にそういう一座の仕事もなくなってきて、中央によってきて、大会ばっかりになっていった。そんな中でも最後まで一座で浪曲一席、舞踊ショー、マジック、これをやり続けて平成8年ですよ。こういう話を聞いて、すごいなと。こういうやり方、人生もあるんだなと。

そしたら、帰りしなに「台本いりますか」って言ってくださって。ありがたいことに頂戴しました。それを家で見てるんですけど、桂須磨子師匠が巡業で回ってきた涙ぐましい努力の跡がやっぱり台本から伝わってきますよね。

―台本を隼人さんが受け継ぐのも良いですね。そうやって残っていく。

隼:今は誰もやってない台本もあって、これは面白そうな台本です。女流ネタなんでちょっと変えながらやっていこうと思いますね。

―桂須磨子師匠のお話を聞いて、コロナ禍でCDを作った隼人さんにも通じるところがあると思いました。浪曲大会に出たり、協会に入ったりしなくても浪曲を聴いてもらう方法って自分で作っていけるんですね。


3.沢村さくら芸歴20周年

―最後は沢村さくらさんが芸歴20周年なので、さくらさんについて話を聞きたいと思っています。そもそもですが、浪曲師にとって曲師とはどういう存在ですか。

隼:何なんでしょう…。何とも言えないですね。そこに関してはちょっと言葉が浮かばないって言うか、どういう位置づけかって言ったら、浪曲師と曲師っていうのは無くてはならない存在やと思ってるんですよね。昔の師匠方の場合、この浪曲師にこの曲師っていうのがあったように強い結びつきがある存在やと思うんですね。

―今はそういうのが薄れてきてる傾向がありますよね。曲師の数が少なくなってしまっているので。

隼:でしょうね。それに色んな曲師に頼む人がいることも事実ですね。

―そういう人もいるんですね。一方で隼人さんはさくらさんだけですね。

隼:そうですね。初めの方は色々頼んでたんですけど、うちの先生でもそうしたように、やっぱ浪曲って一対一でやるもんだっていう深いイメージがありました。

―さくらさんと組むようになったのはどういう経緯でしょうか。

隼:元々演歌浪曲に弟子入りしたような人間ですから、そこまで三味線でやりいたいとも思わなかったんですよ。それが藤信のお師匠さんに「私あんた弾いたってもええで」って言っていただいて、そっから三味線にも興味を持つようになった。その時は三味線でやりたいというより、この藤信のお師匠さんとやりたいという思いでしたけど、結局それは叶わなかった。そんな時に浪曲界を見渡すと沢村さくらさんという人がいた。この人は決して三味線の技術だけではない、浪曲師を励ます力とか、良いところを引き出す力がこんな凄い曲師はいないと思ったわけです。

―そこを詳しく聞かせてください。励ます力とは舞台上での話でしょうか、それとも舞台以外の場面ですか。

隼:全てです。舞台は二人でするものなので切磋琢磨ですけど。降りてきて、あんたここはこうだとか、ああだとか。もちろんさくら姉さんも浪曲師全員に対してそういうわけではないですけど、二人で回るようになって特にそれは感じますね。

―では、二人で浪曲をする前にそこに気がついた理由はなんでしょうか。

隼:ぼくが三味線の浪曲を始める以前、幸いってんお兄さんが沢村さくらさんと回り出した時に、さくら姉さんが「お兄さんこうですよ」とかアドバイスをして、お兄さんもすごく良く変わっていったという印象があったんですよ。

―それを横で見てたんですね。

隼:ぼくはカバン持ちでついて行ってて、すごいなあ。こんな風に切磋琢磨してやりたいなって。そこで「この人と組みたい」と思ったわけです。

―なるほど、そこで浪曲師を励ます曲師の姿を見たわけですね。実際にさくらさんと回るようになって特にどのようなことを言われますか。

隼:例えばネタ。さくら姉さんはちゃんと見てて「時代にあわないのはやめろ」とか「そういうのはやるな」とかちゃんとポリシーがあるんですよ。

―さくらさんはハッキリ言いますよね。

隼:それを「うるさいわ」と思ってやるとウケないんです。

―的確に見極めてくれているのですね。

隼:さらに「こういうのやったらどう?」とか「これはできない?」とか言ってくれるんです。やはり、三味線でやりたい気持ちより、沢村さくらという曲師がいたからこそ三味線でやりたいと思ったんですようね。

―曲師って浪曲師がどう進むべきかや見せ方を客観的に見て、導いてくれる参謀役のような存在ですね。

隼:そうです。参謀役ですよ。でも、そういう人って大体最後は自分が出たがったり、自分の主張が激しくなったりするんですけど、さくら姉さんはそうじゃないんですよ。出たがるかなって時にパッといなくなって、ぼくを立てる。これは技ですよ。いってん兄さんの時でも、舞台下では「ああだこうだ」言っても、舞台に出たら曲師の芸に徹する。これはなかなか現代人にできることじゃないと思いますよ。それこそ藤信のお師匠さんの姿勢ですね。

―浪曲師と曲師って舞台上での技術や阿吽の呼吸が重要だと思ってましたが、舞台降りてからのコミュニケーションも大切なんですね。

隼:ぼくは浪曲は作りこんだ方がいいんじゃないかなと思ってて。もちろん、付き合いが深くなると舞台上だけでサラッとしたものをやるのがええと思う時もありますけど。(二代目春野)百合子師匠と大林のお師匠さんが切磋琢磨してやってきた。あの感じをぼくもやりたいなと思ってやってるんです。浪曲やってると、これウケるかなとか、迷うこともあるんですよ。そういった時に相談して二人で作っていける。ここまで練って考えてる浪曲はうちだけですよ。

―二人で考えてるわけですからね。

隼:そうです。二人が同じところを向いているようで細かいところで違う。ちゃんとお互いに意見を言って作っていくんです。例えば、ぼくは真山先生が好き。さくら姉さんも先生が好き。これだと面白くないですよ。

―お互いが意見を補完し合ってるわけじゃないんですね。二人が共通している方向性はどこでしょうか。

隼:百合子師匠でしょうね。百合子師匠が好きと言うことが二人の共通で。

―つまり、お互いが百合子師匠と大林のお師匠さんのような関係を作りたいと思っている。浪曲師と曲師二人一組の理想像といった形でしょうか。

隼:そういうの目指していかなアカンなと思ってるんですけど、まあ難しいですね。時間はかかりますよ。

―曲師の技術的な側面から見て、さくらさんはどんなタイプの曲師か教えてください。

隼:曲師にはそれぞれの特徴があります。例えば関東の節が弾けて、関東の関西節が得意な人だけど大阪の関西節はなかなか弾けないとか、そういうがあるわけです。そんな中でさくら姉さんというのは、東京で豊子師匠につき国友先生仕込みの木村系統の現代的な関東節を習い、こっちで藤信のお師匠さんに関西節を習い、小円嬢師匠に手ほどきを受け、関東節も関西節も弾ける。

―そういう人は誰か珍しいのかなと思いました。

隼:ぼくもあまりそういう視点で他の曲師の人を見てないですけど、いるっちゃいるんと思います。ただ近年稀に見る貴重な人ですよ。ぼくの浪曲は雲月調の関西節に浮かれ系統の節も入れたりする、(梅中軒)鶯童先生のいう五目節ですね。やっぱ関東の節の「たたみ込み」とか入れたりするんですよ。それを入れた時にはちゃんと関東の手で受けてくれたりとか。

―そういう技は即興でもできるのですね。

隼:あと、セメ!セメをこれだけ弾ける人は関西にはさくら姉さんだけです。元々、セメは関西ではあまりやらない、関東の節なので。だから自慢ですよ。

―なるほど。さくらさんは弾ける手の数が多そうなイメージがあって、だからこそ隼人さんは場面に合わして色んな節のパターンを組み合わせて、浪曲を作り込んでいけそうですね。

隼:だから、ぼくは昔でいうたら大看板になれない浪曲の方法ですよ。梅鶯節とか米若節みたいにずっと同じ節でいかずに、こちょこちょやっちゃうんですよね。でも、ぼくの中で節というのは喜怒哀楽を表すもので、楽しい時には楽しいことを表現できる節、その場面によってできる節を選んで物語を作っていきたいんです。さくら姉さんさんもそういうネタごとの機微も掴んでうまいことやってくれますね。

―節によって場面を演出できることは浪曲の魅力ですよね。そこに浪曲師と曲師の個性も感じられます。そして、それが深まっていくと最終的には自分の節を作ることになるのかなと思いました。

隼:もちろんそうです。自分のパターンはだいぶ出来てきたんで、後はもっと練って、節を作っていく感じでやりたいですね。

―そのためには曲師とのコミュニケーションは不可欠なんですね。

隼:他の人のことも考えると一概に曲師と組むことが良いとも言えないですけど、ぼくの場合は色んな人に合わせる器用さがないのと、この人が良いと思う人がいたんですね。そうやって、いずれ「これが隼人とさくらの浪曲か。隼人にはさくらがいて、二人で作ったんだという世界観を作っていきますよ。

―過去の二人の話で印象に残っているエピソードってありますか。

隼:さくら姉さんは三味線の浪曲が好きな人なんですよ。だから、ばくが演歌浪曲をやってる時は相手にもしてもらえなかったですよ。一方で初めはぼくもさくら姉さんに興味なかったんですよ。「はい、はい、いってん兄さんに付いてきてる人ね」くらいで。

―隼人さんも初めはそんな感じでしたか。

隼:藤信のお師匠さんに言われるまでは。もちろん三味線の浪曲も好きでしたよ。けど、自分に関わる人やとは思ってなかったですよ。そんな時に、とある貴重な浪曲のテープをさくら姉さんが持ってるということを知ったんですよ。それを借りたんです。これがそもそものきっかけ!

―めっちゃロマンティックな出会いじゃないですか。

隼:これが一番嬉しかった。ほんでテープ借りて聴いたら、その浪曲がすごいんですよ。夜中に「これ凄いですね、ぼくもこんな浪曲がしてみたい」ってメール送ったんですよ。そしたら、「あなたならできるよ。頑張って。できると思うから一生懸命やってね」って返ってきて、それは嬉しかったですね。16か17歳くらいの時。

―それが最初の繋がりでしたか。

隼:元々、さくら姉さんという人は怖い人やったんですよ。

―えっ(笑)

隼:ぼくは入門前にYouTubeか何かでさくら姉さんが弾いてる動画を見て、綺麗な人だな、大阪にはこんなサラッとした綺麗な人もいるんだくらいに思ってたんですよ。ほんで弟子入りして、やっぱりいましたよ。一方で僕はやっぱ世間知らずだったわけですよ。中学校卒業していきなり弟子入りしたわけですから、ヘマをするわけですよ。その時に沢村さくらという人は怖いんです。入門して半年経つかたたないくらいの時に「使えない子ね」ってピャッと言われたわけですよ。だから、その後3番目の子が誕生時に山形に里帰りしてちょっと休んでたんですけど、どうかもう二度と帰ってくるなって思うくらいに怖かったんですよ(笑)。今見たらそんなことないんですけど、15歳の隼人少年にはそれくらい怖かったんです。元々おしとやかそうやなと思っていたイメージもあってギャップもあったんでしょうね。今はもうその「使えない子ねっ」ってのは笑い話にしてます。

―そんな怖い体験から、テープの貸し借りがあり、幸いってんさんに付いて回り、今に至るわけですね(笑)。

隼:長かったですね。けど、三味線で浪曲やりだしてからは2年くらいの感覚ですね。

―三味線の期間はあっという間ですか。夢中になっていたり、前向きやから時間がすぐに過ぎていくのかもしれないですね。

隼:あっという間ですね。東京いったら豊子師匠がいらっしゃって、ぼくも身内のようにかわいがってくださったり、奈々福姉さんや太福兄さんもいて、そういう風に世界が広がりましたね。色んな人にあって、色んな物も見せてもらって、ぼくは本当に幸運ですよ。

―それはさくらさんの影響大きいですね。

隼:おかげで運が向いたと思ってます。

―11月にはさくらさんの芸歴20周年の公演が控えていますね。

隼:せっかく20周年やからで誰もやってないことをやった方がいいと。それで文楽劇場で芸術祭にも出ることにしました。曲師が芸術祭に出るなんて初めてですよ。

―曲師として自分の世界を表現できるのがすごいですね。

隼:沢村さくらの世界観ですよ。構成も関東節と関西節があって、一つの流れになってます。まず関東らしい「陸奥間違い」、「三味線のコーナー」そして関西の「稲荷丸」。「稲荷丸」は小円嬢師匠とさくら姉さんも二人でやってます。ぼくも小円嬢師匠からそのネタをいただいて、自分なりのカラーを出すために二人で取り組んだ一席です。だから、その技だけでなく我々二人で培った大きな一席ですよ。この三部構成を楽しんでいただけたらと。

―沢村さくらさんにしかできない浪曲が確立されている気がします。本当に楽しみにしています。