東京 (22/02/20) 江戸城 (1) 外曲輪12門 / 外濠 (1) 浅草橋見附/筋違橋見附
隅田川 (江戸城外堀)
- 永代橋
- 隅田川大橋
- 清洲橋
- 新大橋
- 両国橋
- 柳橋
江戸36見附 外曲輪12門 (外濠)
- 水戸徳川家下屋敷跡 / 牛島神社
- 浅草橋門 (見附跡)
- 津藩藤堂家柳原上屋敷跡
- 津藩藤堂家下谷中屋敷跡
- 柳森神社
- 筋違橋門 (見附跡)
東京には長く住んでいたが、江戸城をじっくりと見て回ったことはなかった。東京を離れて初めて思うのだが、東京に住んでいながら、あまりにも東京のことを知らない。今後も時々東京にはくる機会があるので、その度に東京の史跡巡りをしようと思う。今回は江戸城をとことん調べて見る。
江戸城といえば、皇居のあるあたりを思い浮かべるのだが、そこには、本丸、二ノ丸、三ノ丸、西ノ丸、紅葉山、吹上御苑で構成される。本丸は将軍の居館であり幕政の中央政庁で、西ノ丸は将軍の隠居や跡継の居館、紅葉山は歴代将軍の霊廟であった。ただこれは江戸城の一部であって、その外には広大な外堀があり、更に総構えがあった。今回は今回はその外堀も含めて訪問して見る。
江戸三十六見附
江戸城は何回かに分けて整備された。德川家直営の江戸普請 (1590~92)、第一次天下普請 (1606~07)、第二次天下普請 (1612~15)、第三次天下普請 (1620頃~27)、第四次天下普請 (1628~35)、第五次天下普請 (1636頃) が行われた。江戸城の総構は、家康に始まり、秀忠の時代に整備され、家光時代の寛永年間 (1624~44) に外郭を含め完成。江戸城の大手門から螺旋状に浅草橋まで環濠を廻らせ、戦略上の要所に城門を置き、それらを江戸城三十六見附と呼んでいた。
- 江戸城六大門 - 大手門、下乗門、中之門、中雀門、桔梗門、西ノ丸大手門
- 内曲輪諸門 (内濠) - 山下門、数寄屋橋門、鍛冶橋門、呉服橋門、常磐橋門、神田橋門、一橋門、雉子橋門、竹橋門、清水門、田安門、半蔵門、桜田門、日比谷門、馬場先門、和田倉門
- 外曲輪諸門 (外濠) - 浅草橋門、筋違橋門、小石川門、牛込門、市ヶ谷門、四谷門、喰違門、赤坂門、虎ノ門、幸橋門、芝口門、浜御殿大手門
今回の東京滞在はあまり自由時間が取れないので、江戸36見附の一部を回る事にした。上に記した外曲輪諸門 (外濠)に設置されていた13の見附門を巡る。これによって江戸城の総構えの規模が把握できる。泊まっている場所に一番近い浅草門から半時計回りに進む。見附門だけでは無く、その見附門の付近の旧屋敷跡や史跡もあわせて巡る。
隅田川
泊まっている宿は永代橋のすぐ側にあり、江戸城の外堀の役割もしていた隅田川沿いを走り浅草に向かう。
永代橋 (大渡し、深川の渡し)
隅田川は江戸城の外堀を兼ねていた。江戸時代の隅田川には5つの橋が架けられていた。永代橋は元禄11年 (1698年) に、5代将軍徳川綱吉の50歳を祝う記念事業として造られ、江戸時代に架橋された5つの橋のうち、4番目のものだ。
架設以前は、ここから上流に100mほどのところに大渡し (深川の渡し) があり、渡し船で隅田川を渡っていた。この永代橋は200mもの長さがあり、大正15年にもともとの場所から南側に架けられた現在の橋でも185mなので、いかに長い橋だったことか。この橋の維持の全経費は町方が負担しており、橋通行料と橋詰の市場の売り上げで賄っていた。 橋が架かっていた橋が永代島という中洲であったので、この名がついたという。
今は高いビルがひしめき合う東京の中心地が臨める。
隅田川大橋
この橋は比較的新しいもので、1979年 (昭和54年) に首都高速9号深川線建設にあわせて架橋され、下段が通常の橋、上段が首都高速となっている。江戸時代にはこの地は何もなく隅田川が流れていただけ。
清洲橋 (中洲の渡し)
江戸時代にはここには橋はなく、中洲の渡しの渡船場があった。ただこの渡し場は江戸時代ではなく1873年 (明治6年) に始まったものだ。関東大震災の震災復興事業として、清洲橋が昭和3年に架設され、中洲の渡しは廃止された。
隅田川沿いは遊歩道のテラスとなっており、ジョギングや散歩を楽しんでいる人が多くいる。所々に大江戸情緒を盛り上げるモニュメントもある。
新大橋
両国橋に続く三番目の橋として、元禄6年 (1649年) に5代将軍 徳川綱吉が生母 桂昌院の勧めで架橋された。その後焼失などで幾度となく架け替えられた。
永代橋と同様に、幕府財政が窮地に陥った享保年間 (1716年-1736年) に幕府は橋の廃橋を決めるが、町民衆の嘆願により、橋梁維持に伴う諸経費を町方が全て負担することを条件に存続。
1885年 (明治18年) に西洋式木橋に架け替えられ、1912年 (明治45年) には現在の橋の位置に移して鉄橋となり、そして1977年 (昭和52年) に現在の橋に架けられた。
高速道路用の橋 たもとに古そうな欄干 (?)
両国橋
1659年 (万治2年) か1661年 (寛文元年) かははっきりしないのであるが、千住大橋に続いて隅田川に2番目に架橋された長さ約200mの橋で、現在の橋よりも下流側にあった。1686年 (貞享3年) に国境が変更されるまでは下総国との国境にあったことから、両国橋と呼ばれていた。
当初、江戸幕府は防備の面から隅田川への架橋は千住大橋以外認めていなかったが、1657年 (明暦3年) の明暦の大火の際に、橋が無く逃げ場を失い、10万人に及ぶ死傷者を出してしまった。これにより、老中酒井忠勝の提言により、防火・防災目的の架橋となった。
明治に入り、西洋式木橋としては1875年 (明治8年) に架け替えられ、1904年 (明治37年) に、現在の位置より20mほど下流に、長さ164.5m鉄橋として生まれ変わった。
1875年完成の最後の木橋時代の両国橋 (写真左上)、1904年完成の旧両国橋 (写真右上)、1932年に架橋直後の現両国橋 (写真左下)、旧両国橋を移設した南高橋 (写真右下)
そそて現在の姿
柳橋
両国橋のところで、隅田川に流れ込む神田川を江戸城外堀として利用していた。神田川に入るとすぐに柳橋がある。この橋は幕府の命で木橋がつくられ、川口出口之橋、または矢の倉橋と呼ばれていた。江戸時代、この地域は徳川幕府が設置した米蔵「浅草御蔵」の一部として指定されており、三河岡崎藩邸や信濃上田藩邸などの武家屋敷が置かれ、官有地となっていた。
大正の関東大震災で旧柳橋が落橋し、鉄橋で架け直したのが現在の柳橋。 この一帯は花街として発展し、昭和初期頃まで、料亭や船宿などが建ち並ぶ情緒あふれる地区だったそうだ。であった。 現在も、川の両岸に並ぶ屋形船が停泊している。
この隅田川の両国橋から柳橋がかかる神田川が外堀の役割を引き継いでおり、この近くに浅草見附がある。神田川沿いの見附跡に行く前に隅田川の更に北側に架かる橋の五つ先にある武家屋敷跡を見学し、戻って来ることにした。
ここから本格的に広域江戸城を巡るのだが、江戸幕府の体制強化のため、つまり幕府以外の大名の弱体化も狙って、参勤交代や江戸城、城下町の普請など金を使わせ経済的に追い詰めたことがある。人質として大名の妻子を江戸に住まわせ、参勤交代では領地と江戸に一年交代で済む義務を課した。このことにより江戸には大名屋敷が立ち並ぶ様になった。江戸時代の江戸の人口は約100万と言われており、この半分が武士でしめられ、敷地では7割が武士の住居であったという。武家屋敷は譜代、外様、旗本の違いで、屋敷の場所は幕府から指定されており、江戸城に近い方からには譜代、離れるに従い、外様、旗本となっていた。
今回は江戸城の外堀の内側だけでなく、その外側にもある武家屋敷も訪問する。武家屋敷は各藩が上屋敷、中屋敷、下屋敷を持っており、江戸には約600もの武家屋敷があった。上屋敷、中屋敷、下屋敷は幕府から拝領するのだが、これとは別に各藩が個別に年貢地を購入したものを抱屋敷と呼んでいた。それそぞれの大まかな役割は以下の通り。
江戸は町人文化が発展していたので町人の街のイメージがあったのだが、この図によると江戸の広範囲にわたって武家屋敷が70%も占めており、町人は東京湾に面した15%しかないのには驚きだ。それと江戸は短期間に整備されたにもかかわらず、この時代に既に世界的にも大都市の様相となっている。徳川家康の江戸の大都市化構想を実現させていることは凄い。徳川家康は小説で腹黒い狸親父と描かれている事が多いが、江戸時代300年の太平の基礎を築いた事を見ると、日本歴史上の為政者としては、最も優れた人物だったと思われる。
水戸徳川家下屋敷跡
まずは外堀としての隅田川の東側に水戸徳川家下屋敷小梅別邸跡があるので訪れた。徳川御三家の一つである水戸家が、1693 (元禄6) 年、三代綱條の時、才浜屋敷 (現・中央区) に替えてこの地を幕府から賜った。屋敷は、西は隅田川に面し、南は北十間川をめぐらし、現在の向島1丁目のほぼ大半を占め、墨田区南部にあった大屋敷80余のうちで最大の規模を誇った。大正12年の関東大震災により230年に及ぶ水戸屋敷の歴史はここで閉じた。現在は隅田公園となっている。水戸徳川家の本国の居城がある水戸市にはまだ行けていない。東北の旅をした際には日光街道、奥羽街道で北上した。太平洋側は福島原発事故の影響で通行地区があるためルートから外したのだ。近々、この水戸も含めて東北太平洋沿岸を走りたいものだ。
牛島神社
水戸徳川邸跡北部分には、隅田公園に隣接し牛島神社がある。本殿の前には珍しい三輪鳥居がある。神社の名前通り、境内には狛犬ならぬ狛牛で、撫でられてテカテカになっている。
江戸36見附 外曲輪12門 (外濠)
両国橋まで戻り、これから江戸36見附の外堀にある外曲輪12門を巡る。
[浅草橋見附]
奥州街道から江戸に入る通行人の監視のために、江戸城の外堀の役割も担っていた神田川に架かる浅草橋の手前に見附が置かれていた。江戸六口の常盤橋門から奥州街道・日光街道につながる外濠の最北東を防衛する重要拠点。この見附は寛永13年 (1636)、越前国福井藩主の松平忠昌 (家康の二男秀康の子) が、元初音森神社の跡地に枡形門を築いたことから始まる。この門は主に武士や町人が利用し、将軍は上流の筋違御門を使っていた。浅草寺の正面にあることから浅草橋門と名付けられた。
津藩藤堂家柳原上屋敷跡 (和泉公園)
浅草橋門から少し西側、神田川の外側に伊勢国津藩藤堂家上屋敷があった場所があり、現在はその一部が和泉公園となっている。この屋敷がある神田和泉町は藤堂高虎が和泉守と称していたことからつけられている。下の浮世絵の左側は『江戸名所道外盡』(安藤広景) の「外神田佐久間町」の江戸庶民の正月風景で藤堂家上屋敷の門長屋が描かれている。後に、藤堂家の屋敷が移転し、跡地にお玉が池から種痘所が移り、幕府医学所になる。明治期には医学校と附属病院として使用され、東京大学医学部の発祥の地。 文部省活版所も設けられていた。森鷗外が医学生時代にこの門長屋に寄宿していたと言われる。現在は三井記念病院になっている。
上の右の錦絵は神田川とそこに架かる和泉橋 (現 昭和通り) を描いている。上流に向かって右が佐久間河岸で左の柳並木が、浅草御門から筋違御門まで築かれた柳原土手と説明があった、神田川は昔はこのような風景だったのだ。
藤堂高虎の居城であった津城には、昨年の12月に訪れた。その時の紀行録: Kii Peninsula 紀伊半島 2 (9/12/19) Tsu Castle Ruins 津城跡
津藩藤堂家下谷中屋敷跡
津藩藤堂家上屋敷の少し北側には中屋敷があった。現在はその面影はなく、オフィス街になっている。かなり近い距離にある。他の大名屋敷も屋敷は近くに建てられていたのだろか?
柳森神社
神田川沿いにもどり、ここで寄り道。室町時代の1458年 (長禄2年) に太田道灌によって江戸城の鬼門除けとして京都の伏見稲荷を勧請して創建。ここは稲荷神社で本殿には狛犬ではなく狐が鎮座しているのだが、その横におたぬき様を祀った祠がある。狐と共にたぬきも祀られている。おたぬき様は、勝負事や立身出世、金運向上にご利益があると信奉されているそうだ。境内内にある幸神社の入り口にはでかい金玉のたぬき像が置かれている。金運の御利益はこの狸の金玉に由来があるらしい。狸の睾丸は本当は小さいのだが、江戸時代に狸の皮を使って金を伸ばした事から、金運が伸びるとなったとの説がある。
筋違橋見附
外堀となっていた神田川に沿って西に行くと、秋葉原に出る。そこは筋違橋見附が筋違橋にあった。現在の昌平橋と万世橋との中間にあった1872 年 [明治5年] に筋違門が取り壊され、その石材を使用して現在の万世橋が建設された。筋違橋門は1636年 (寛永13年) 加賀藩第三代藩主前田利常によって造られたもの。歴代将軍は大手門から神田橋門を通り、この筋違橋門から下谷御成道を進み、上野寛永寺や日光東照宮へ参詣していた。それでこのルートは「御成道」にあたるので御成門とも呼ばれた。
筋違橋は中山道と日光街道が交わる地点で、寛永年間 (1624 - 44 三代将軍徳川家光の時代)に架けられた。この橋を渡ると、枡形をした見附門の筋違橋門を通り江戸城外郭にはいるようになっていた。幾つかの古写真が残っている。浮世絵にも描かれている。当時の様子が垣間見れる。古写真はそれぞれの時代で江戸末期から近世までがある写真右上は明治時代の取り壊される時のものだろうか?
現在では、高架のレンガの壁沿いに説明板がたっていのみで、面影はない。
ここまできてもう直ぐ日が暮れそうなので、今日はこれでおしまいとして、ホテルに向かう。今日の外堀巡りは浅草橋見附を経て筋違橋見つけまで、まだまだ始まったばかり。