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Kazu Bike Journey

東京 (21/02/20) 江戸城 (7) 外曲輪12門 / 外濠 (7) 四谷見附跡/喰違見附跡

2020.09.29 14:40

外曲輪12門 / 外濠


この訪問記は今年の2月21日に江戸城外堀見附跡を訪れた際のもの。2020年9月に江戸城外堀巡りを再開したが、外堀見附を反時計回りに回っているので、その順番でレポートをここに入れることにした。この日 (2月21日) は四谷見附から喰違見附までの短い距離。その近辺にある大名屋敷や史跡、文化財を訪れた。


[四谷見附跡]

四谷見附は江戸城半蔵門から武蔵国国府 (府中) をへて甲州に至る重要なルートの途上に築かれた枡形門で、有事の際に将軍が甲府へ避難する江戸脱出路でもあった。 (現在の新宿通り)  この見附は1636年 (寛永13年) に長門藩主毛利秀就によって城門石垣が作られ、1639年に高麗門が造られた。この際、門の用地のため、当時の麹町の寺や町家は、濠の外側の四谷側に移されたそうだ。四谷見附は外麹町口、四谷口門、山手御門とも呼ばれていた。

見附門の石垣が残っている。


車力門通

美濃国高須藩松平家上屋敷跡に向かう。そこへの道が車力門通と言う細い路地になっている。江戸期に、松平義行の上屋敷裏門に通じていたため、御所車の文様を配した門にちなんでつけられた通りの名前だそうだ。

これが屋敷と通りの名の由来となった門の再現されたもの



高須藩松平家上屋敷跡 (金丸神社)

車力門通を進み、高須藩松平家上屋敷跡に立てられている金丸神社に到着。高須藩は、御三家筆頭での尾張藩の支藩で、1683年 (天和3年) 美濃高須藩藩祖であり尾張藩二代藩主徳川光友の次男の松平摂津守義行が、この荒木町一帯を幕府より拝領し、上屋敷とした。高須藩松平家で良く知られている人物としては幕末の会津藩藩主であった松平容保は美濃国高須藩松平義建六男としてこの上屋敷に生まれている。

この江戸古地図では上屋敷内に庭園があったことがわかる。

この屋敷界隈の様子が浮世絵に描かれている。浮世絵の池が藩邸内の庭園にあったものだろう。

金丸稲荷神社は上屋敷内に藩主の守護神として建てられた。

上屋敷内にあった津の守弁財天と徳川家康が策 (むち) を洗ったと伝わる策 (むち) の池がある。上の浮世絵の中央付近に滝があるが、当時はその様な様子だった。

策 (むち) の池を描いた浮世絵も見つけた。これは明治時代に描かれたものなので、一般庶民が水浴びをしている様子が描かれている。江戸時代は上屋敷の中にあったので、一般庶民には公開されていないだろう。


四谷見附に戻り外堀沿いのソフィア通りにある遊歩道を喰違見附に向かい進む。


尾張名古屋藩徳川家中屋敷

四谷見附から喰違見附までは尾張名古屋藩中屋敷だった。江戸古地図と現在の地図を見比べればわかるが、そっくりそのまま上智大学キャンパスになっている。尾張名古屋藩中屋敷の遺構などはなくただ説明板のみが立っている。


[喰違見附跡]

喰違門は20m下の弁慶濠を見下ろす外濠の中で最も高い場所にある。1612年 (慶長17年) に甲州流兵学者の小畑影憲が他の外郭門に先駆けて縄張したところで、江戸城防御の要となっていた。1636年 (寛永13年) 讃岐国丸亀藩主の生駒高俊が再構築。江戸の地図を見ると見ると他の見附門の様には塀や門で枡形に囲まれてる様に見えない。調べると、ここは石垣ではなく土塁でのでの虎口構成であった様だ。江戸の古地図は時代によって幾つか存在するので、幾つかの古地図を調べてみた。微妙に違っているが、当時の様子を描いた浮世絵がある。これが一番、当時の様子を伝えているものだろう。

江戸の地図を見ると見ると他の見附門の様には塀や門で枡形に囲まれてる様に見えない。調べると、ここは石垣ではなく土塁でのでの虎口構成であった様だ。江戸の古地図は時代によって幾つか存在するので、幾つかの古地図を調べてみた。微妙に違っているが、当時の様子を描いた浮世絵がある。これが一番、当時の様子を伝えているものだろう。

土塁の一部は削られているが、ほぼ昔の形で残っているそうだ。


真田濠

この場所で1874年 (明治7年) に、右大臣 岩倉具視が征韓論を退けられたことに恨みを持つ刺客に襲われた「喰違の変」の現場だ。岩倉具視はとっさに馬車から降り、喰違門の下の真田濠に飛び込み一命をとりとめた。この場面は必ず大河ドラマで登場する。 この真田濠は真田信之はじめ仙台の伊達政宗や米沢の上杉定勝の諸大名によって造られている。何故か真田濠と呼ばれた。真田信之が中心的存在だったのかもしれない。ただ、大名の名前がついた江戸城の濠はこれだけだ。真田人気に一役買っている気がする。真田濠はのある喰違門周辺は江戸城で一番高い場所にあり、ここを敵に攻略されると江戸城が見下ろす形になり、江戸城防御が難しくなる、その意味で江戸城防御の要の地であった。更に、川上水の水を真田濠に引き入れ、高低差を利用して周囲の堀に水を流していたので、江戸城壕の機転とも言うところだ。現在では真田濠は埋め立てられて、上智大学真田堀運動場となっている。

写真左が赤坂見附方面の弁慶濠で右が埋め立てられた真田濠の跡


近江彦根藩井伊家中屋敷

この場所は元々は肥後熊本藩加藤家の屋敷だったが、加藤家が改易された後に、近江彦根藩井伊家がこの地を賜り、中屋敷とした。

伊井家中屋敷の縄張りがある。現在はホテルニューオータニとなっている。ホテルの庭園が中屋敷の名残なのかと思ってはいたのだが、縄張り図と比較すると全く変わってしまっている様だ。

中屋敷の敷地がすっぽりとホテルニューオータニになっている。先の尾張藩中屋敷跡がそのまま上智大学のキャンパスになっているのと同様だ。ホテルの入り口の近くに案内板が立つのみ。

ホテルニューオータニの紹介では、少しだけ中屋敷時代のものが残っているそうだ。当時から生息しているイヌマキとカヤの木、それと春日灯籠、寛永寺灯籠だそうだ。



この後、宿の箱崎のシェアハウスに戻り、仲良しになった泊まり客と夕食会となった。日本で中華料理店を開きたいと言う王さん、40才半ばになって教員資格にチャレンジしている大森さん、トウキュオリンピックでアフリカファッションショーの開催準備に来ているジョンさん。夕食は王さんが自慢の腕を振るってくれた。

どういう訳か、ジョンさんが企画しているアフリカファッションショーの手伝いをすることになってしまった。まだまだ、人種の壁があり苦闘している若いアフリカ系デザイナーにチャンスを与えたいと言う。趣旨に共感し、ついチームに入ってしまった。(https://www.facebook.com/KGLfashionweek/)

その後、新型コロナウイルス騒動で、王さんは来日延期を余儀なくされ、東京オリンピックも一年延期となった。来年は元に戻り、二人の夢が実現できる様に祈る。