紫式部 源氏物語 その1
https://1000ya.isis.ne.jp/1569.html 【紫式部 源氏物語 その1】 より
少し遅めですが、あけましておめでとうございます。乙未(いつび/きのとひつじ)の正月です。
新しい年の千夜千冊の「話し初め・書き始め」なので、ぼくも幾分あらたまる気持ちをもって『源氏物語』をめぐるぼくなりの話をしたいと思います。納得できるものになるかどうかは保証のかぎりではありません。
正月の『源氏』といえば、巻22の「玉鬘」(たまかずら)とそれに続く巻23の「初音」(はつね)です。紆余曲折のあげくついに太政大臣になった光源氏が、完成した六条院に住まう女君たちに正月の晴れ着を配るという有名な場面が入ります。
六条院、わかりますか。溜息が出ますねえ。辰巳の春の町には紫の上が、未申の方位の秋の町には秋好中宮(あきこのむちゅうぐう)が住み、丑寅にあてがわれた夏の町には花散里(はなちるさと)が、戌亥の冬の町には明石の君が住むという、なんとも按配のいい、すこぶる華やかな源氏絶頂期の結構です。
日本の建築文化史にとって六条院というヴァーチャルな寄与は、もっともっと研究されていいものです。
源融(みなもとのとおる)の河原院や東三条殿や土御門殿などをモデルにしたんだろうと思いますが、ざっと250メートル四方、6万3500平米という大きさ。なにしろ四町ぶんでした。巻25の「蛍」に描写されていることですが、端午の節会では邸宅内の馬場で競射が、川の流れでは鵜飼ができたくらいです。
だいたいどんなところだったのか。ごくかんたんな全体像なら宇治の「源氏物語ミュージアム」に行かれれば模型があります。風俗博物館の五島邦治さんが監修して四分の一の模型をいろいろの撮影角度で収めて一冊にした『源氏物語 六条院の生活』(青幻舎)という本もある。老舗の「井筒」さんの先代も、この六条院を三分の一くらいに復元したいと言っておられましたね。「井筒」は黒沢明(1095夜)の『乱』をはじめ、ワダエミさんが映画衣裳づくりのときにいろいろ協力してもらっている法衣屋さんです。
六条院は六条京極にありました。現在の京都人にとって六条という地域はちょっとピンとこない界隈かもしれません。
しかし、桜と柳をみごと交互にこきまぜた75メートル幅の朱雀大路が賑わっていた当時は、東山山麗寄りとはいえ存分に目立つところでした。ただし、そこは紫宸殿や清涼殿がある「御所」ではない。センターではないのです。そのことに光源氏が王権のトップに座れなかった複雑な事情が、もっといえば光源氏に「血」をたらした桐壺の帝がメインストリームから外れた事情が、暗示されています。
『源氏』は総じて、この「外れる」あるいは「逸れる」ということを宮廷内外の目をもって描いていく物語だと思います。紫式部の狙いも関心も、また藤原摂関政治に対する批判のあらわれ方も、その「外れる」「逸れる」の描写具合にありました。ぼくは、そう見ているのです。
グレン・グールド(980夜)がいみじくも喝破したように、比類のない芸術精度は「よく練られた逸脱」をもってしか表現できません。このグールドの芸術精度についての見方は、紫式部が桐壺の帝と光源氏の発端を「逸脱の様式」としてあらわした『源氏物語』にもあてはまります。
ま、その話はまたあとでするとして、この「玉鬘」から「真木柱」(まきばしら)までは俗に「玉鬘十帖」とも言って、光源氏30代後半の最もきらびやかで雅びなシリーズが描かれている巻立てです。六条院を舞台に源氏意匠のコアコンピタンスが派手に揃ったという場面集です。
そういう正月のハレの王朝文化や六条院のみごとな結構と趣向の話のまま、ぼくの千夜千冊もなんとなく『源氏』の全体像に入っていければ、それこそ正月らしくていいんですが、いやいや、なかなかそうもいきません。『源氏』はなかなかなもの、容易じゃないんです。
たんに源氏っぽいものというだけなら、京都の呉服屋に育った者にとってはそこそこ親しみやすいものでした。
母がたいそうな源氏好きでしたし、百人一首の得意な母が最初に教えてくれたのも、紫式部の「めぐり逢ひて見しやそれともわかぬ間に雲隠れにし夜半の月かな」と、清少納言(419夜)の「夜をこめて鳥の空音(そらね)ははかるとも世に逢坂の関はゆるさじ」と、和泉式部(285夜)の「あらざらむこの世のほかの思ひ出にいまひとたびの逢ふこともがな」、そして「むすめふさほせ」でした。
こんな母に対して、父のほうは反物(たんもの)を広げ、「これ、琳派源氏やしなあ」などと言って、ちょっと源氏意匠の着物を低く見ていたりしていたのですが、そういうことを含めて源氏的なるものは、近くで出入りしていたのです。
でも、こういうことは印象源氏であって、どこかあやふやです。それなら文章源氏のほうはどうだったかというと、なかなかちゃんとは読めません。ぼくの場合は家にあった「谷崎源氏」を高校時代に拾い読みしたのが最初の源氏体験です。
そのあと、これまた家にあった「舟橋源氏」や「円地源氏」を覗くんですが、なぜかふいに戯曲めいたものにしたくなって、伊丹十三(682夜)(そのころは一三)を光源氏に想定し、そのほか八千草薫とか草笛光子とか磯村みどりとか嵯峨三智子を適当に配して妄想を駆りたて、拙(つたな)いシノプシスにとりくんだりしたものでした。
こんな一知半解なことをする気になったのは、小学校の頃に両親に連れられて見た長谷川一夫主演の『源氏物語』がちっともおもしろくなかったのと、昭和32年のテレビドラマの『源氏』が松本幸四郎の光源氏でがっかりしたこと、さらに次の年の大映の『源氏』で寿美花代が藤壷をやっていたのに呆れたことなどが作用したんだと思います。
もっとも、のちに長谷川一夫の『源氏』(吉村公三郎監督)をあらためて見たことがあるのですが、けっこうよく出来ていました。吉村監督はどうも本気で「もののあはれ」を演出しようとしたようですね。
いずれにせよ谷崎源氏をちらちら覗いたということは、その後のぼくの日本についての渉猟にとって、それなりに役立ちました。ちなみに、そのころ母が「円地文子のものは気色(きしょく)が悪いなあ」と言っていたのが耳に残っています。きっと艶っぽくなりすぎていると感じたのでしょう。
その後、二十代になって与謝野晶子(20夜)の『新訳源氏物語』を読むのですが、これは初めてぴったりしたものを感じました。全訳ではありませんが、さすが晶子です。晶子独特のコンデンセーションをしている。コンデンスしているのですが、実にうまく書いてある。いまでも源氏ヴァージンの諸君には、これを読むと紫式部の構想や気分や狙いがかなり見当つくんじゃないかと薦めています(晶子はのちに全訳も試みます)。
といったようなことは、ああだこうだと通り過ぎてきたのですが、『源氏物語』に本気でとりくんだということはしていません。紙人形作家の内海清美さんが『源氏物語』展をしたときの図録とか、女性誌の源氏特集にエッセイを書いたとか、国宝の源氏絵巻について番組で話したことなどはあるものの、まとめて源氏について何かの話をするのは、この千夜千冊が初めてです。
『和紙彫塑による 内海清美・源氏物語』内海清美著
十年前ほど前、千夜千冊が世の中に知られるようになってくると、「源氏はいつ書くんですか」と周辺から何度も訊かれるようになりました。「うん、まあそのうち」と曖昧なことを言ってきたのですが、なかなかその気になれません。ぐすぐずほったらかしにしたまま、気がついたら1200夜、1300夜と過ぎていました。
昨年末に、2014年のラストの二夜を孟子(1567夜)とバルザック(1568夜)に決めてから、やっと新年は「源氏でいこう」という気になったというのが本音です。孟子もバルザックもずうっと気になっていながら手を付けられなかったので(そういう相手はいっぱいいますけれど)、これを果たしたら源氏だなと思ったんですね。まあ、観念したようなもんです。
おかげで年末年始は源氏漬け。そのくらい『源氏物語』というのはぼくにとっては容易じゃない相手です。
知っての通り、『源氏』が書かれたのは11世紀の初頭のことでした。遅くとも1010年代にはほぼ完成しています。これは大変なことです。
あのダンテ(913夜)の『神曲』にして14世紀の半ば。それより300年早い。しかもべらぼうに長い大作で、それを一人の女性が書いた。前代未聞です。こんな作品は世界中を探してもまったくありません。わずかにペトロニウスの『サチュリコン』があるくらいでしょう。
同時代、フランスでは『ロランの歌』が、イギリスでは『アーサー王の物語』が、ドイツでは『ニーベルンゲンの歌』などが出来ていたとおぼしいけれど、これらはいずれも伝承や詩歌が集合知によってまとまったもので、誰か一人が書いたわけではありません。日本でいえば『竹取』や『伊勢』や『大和物語』にあたる。それを紫式部が一人で書いてしまったのです。
なぜこんな快挙が成立したのかということは、式部に比類ない文才や才気があったことはむろんですが、いろいろの理由が想定できます。
そのころの日本の宮廷文化の事情、『源氏』の物語様式が「歌物語」という様式を踏襲したこと、真名仮名まじりの文章を女性が先導できたこと、藤原一族の複雑な権勢変化が同時進行していたこと、平安朝の「後宮」がもたらした恋愛文化が尋常ではなかったということなどなどが、なんだか桃と桜と躑躅が一緒に咲いたように参集したのです。
とりわけ女君たちと宮仕えの女房たちが、今日では想像がつかないほどに格別な「女子界」をつくりだしていたことは、たとえば500年後にヨーロッパに開花した宮廷女性文化やロココ文化とくらべても、かなり風変りで奇蹟的なことでした。何でもありそうな古代中世の中国にも、こんな「女子界」はありません(中国には仮名文字がないのです)。
と、まあ、きっとそんな具合に、説明するにはキリがないくらいの「女書き」をめぐる可能性が寄り集まって、あの時期、紫式部に結晶したんだと思います。
それでも、仮りに以上のようなことが複合的に説明できたからといって、『源氏』五十四帖があらわした「世」(よ)というものに接近できるかというと、そうはいきません。接続はできても接近はできない。接続は点と線を差し込めばいいんですが、接近には「景色」がほたほた抱けるように見えてこなければならないのです。
本居宣長(992夜)や折口信夫(143夜)は源氏観として、その根本に「もののあはれ」や「いろごのみ」があることを主張しました。
大筋当たっている根本的な摑まえ方だとは思われますが、ぼくがこれまでいろんなものを読んだかぎりでは、この「源氏=もののあはれ」や「源氏=いろごのみ」を深々と景色解説できていたものは、残念ながらありません。輪郭や感覚はおおかた議論されているのですが、それがたとえば光源氏と藤壷の名状しがたい関係などに代表されているだろうこともわかりやすい説明ですが、とはいえ「もののあはれ」の景色が本格的に大研究されたことがない。
『源氏』は全篇に男女の恋愛をめぐる交流と出来事がずうっと出入りしています。その浮気ぶり、不倫ぶりは目にあまるほどですが、だからといって『源氏』を好色文学とは言えません。そこで折口は「いろごのみ」というふうに言った。
折口ならではの網打ちでした。しかし「いろごのみ」って好色のことじゃんかと思ってしまうと、これはかなり勘違いになるのです。まして源氏や男君たちを、芸能ニュースよろしく「稀代のプレイボーイ」として片付けるわけにもいかない。『源氏』はたんなる好色文学じゃないんです。
なぜなのか。これは「もののあはれ」や「いろごのみ」には、古代このかたの日本人の栄枯盛衰の本質にかかわる見方や観念形態が動向されているからで、それを『源氏』のテキストから引き抜いたセクシャルな人間関係だけから解読すると、あまりにオーバーフローするのです。
「いろごのみ」というキーワードは『源氏』まるごとにあてはまるコンセプトではあるんですが、そこには「色恋沙汰」といった意味にはとどまらないものがひそんでいます。
本来の意味は、古代の神々の世界において、国々の神に奉る巫女たちを英雄たる神々が「わがもの」とすることによって、武力に代わる、ないしは武力に勝る支配力を発揮するという、そのソフトウェアな動向のこと、ソフトパワーのようなもの、それが「いろごのみ」です。
つまり「いろごのみ」は、もともとはその人物の性的個人意識にもとづいたものではなかったのです。古代日本の神々に特有されているソフトパワーだったのです。それがしだいに宮廷社会のなかで宮人たちの個人意識に結び付いていった。それって藤原社会がそうさせていったからそうなったわけで、紫式部はそこを見抜いていたからこそ『源氏』のような物語が書けたのです。
色恋沙汰を綴っているようで、それはいちがいに個人に属するものとはかぎらないんですね。
一方、「もののあはれ」のほうは日本人の古来からのメタコミュニケーションにかかわる揺れ動く情感のようなもので、むしろ個人意識にこそ発します。
『源氏』でいえば巻39「夕霧」に、雲居雁(くもいのかり)の「あはれをもいかに知りてか慰めむ在るや恋しき亡きや恋しき」という歌がありますが、この感じです。夕霧が柏木追悼にことよせて、ひそかに落葉の宮に近づこうとしているとき、その本心をはかりかねた雲居雁が詠んだ歌ですね。
この「もののあはれ」の感覚は「揺れ動くのにしみじみしてしまう感じ」というものです。
こうした情感は『源氏』以前の古代歌謡にも万葉にも、むろん古今にも見られた日本的情緒の本質です。ただ、それは必ずもって「歌」によってこそあらわせるものでした。宣長ふうにいえば「ただの詞(ことば)」ではなく「あやの詞」でしかあらわせない。紫式部はそのへんも充分に感知していたんです。
まあ、このへんのことはもう少し話を話を進めたあとで、別の角度から話したいと思います。
『源氏物語』写本(享禄四年写)
ようするに『源氏』には「なにもかも」がひそんでいるかのように、われわれの前に姿をあらわしたのです。その可能性に満ちている。そう思わざるをえませんね。
これは一個の文芸作品としてはとんでもないことで、シェイクスピア(600夜)だって近松(974夜)だって、幾つもの作品を並列させてやっと「なにもかも」に近づいたのに、式部はそれを長大な一作で11世紀にやってのけてしまったのです。
当然、オーバーフローやオーバーワークしたくなりますよね。ぼくもその「なにもかも」には、日本人が長らく感じてきた「世」(よ)というものについての寂しい思いや、「無常」という驚くべき価値観や、さらには力のあるものに何かを感じながらもそれを特定できない「稜威」(いつ)といった敬神的感覚なども入っていて、それが「もののあはれ」や「いろごのみ」として表象されていると思ってきたのですが、さあ、それをいざちゃんと説明しようとなると、難しい。『源氏』から離れていってしまうこともあるのです。
お正月だからといって「玉鬘」や「初音」にかこつけて源氏語りをしていくというふうには、なかなかならないのです。
というわけで、今夜はいま述べたような本質論や日本論にはあまり踏み込まないで、物語の中身のほうと紫式部の比類ない表現編集力のほうについて彷徨したいと思います。
でもね、『源氏』は自由に読んだっていっこうにかまわない。それで十分に愉しめます。
先にそのことを話しておきますが、光源氏をかこむ女性たちを比較する論評や案内が出回っていますよね。あれはあれで大いにおもしろい読み方です。
秋山虔さんの『源氏物語の女性たち』(小学館ライブラリー)をはじめ、30冊くらい、いや、もっとかな、その手の本やガイドが出ていると思います。秋山さんは天皇社会文化の基軸を見据えて源氏研究に生涯を捧げた人ですね。
ぼくは高校時代にIFという読書派の女生徒から、「松岡さんは『源氏』の女性なら誰が好き?」と言われてどぎまぎしたことがあります。彼女はぼくが大好きだった女生徒なんですが、そんな謎かけをされた。さあ、紫の上か藤壷か、そのときはちょうど宇治十帖を読んでいたときだったので浮舟と言うのか、そんなこと言うと嫌われるかなとか、それとも女三の宮にするか、でも地味だしなとか、どぎまぎしながらも結局は「ま、それぞれいいところがあるからね」などと、まことにつまらない返事をしたものです。そんなことだから、その後の大失恋に至ったのですが。
みなさんは誰が好みですか。きっといろいろ分かれるでしょうね。ぼくもけっこう変わってきた。
完訳を果たした瀬戸内寂聴さんは、若い頃の瀬戸内晴美の頃は、理想的な女性として描かれている紫の上とか貞淑の鏡のような花散里(はなちるさと)より、六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)や朧月夜や明石の君、あるいは源氏には愛されなかった女三の宮(おんなさんのみや)などに惹かれたと書いていましたね。
なかでも六条御息所が一番だとおっしゃる。これはなかなかの卓見で、われわれ凡なる男からは、生霊(いきりょう)となって夕顔や葵の上をとり憑き死に到らしめた御息所を、『源氏』一番の女性とは言い難い。たいていは「業の深い女」だと見てしまう。けれども瀬戸内さんは、あの「とめどもない愛」と「あふれてやまない情熱」こそ、紫式部がつくりあげた「胸が熱くなるほどいとおしい女性」なのだと言うんですね。感心しました。
こんなふうに、登場する女性像から『源氏』を語るのはけっこう愉快で、それでいて滋味ある見方にもなりうるのですが、『源氏』の読み方や楽しみ方はそれにはとどまらない。
だいたい『源氏』はシャーロッキアンのようにいろいろ読んでいいのです。大きい構造からも読めますが、小さな窓越しにも調度の肩越からも愉しめます。
たとえば、『源氏』には「かいま見る」(垣間見)ということがやたらに出てくるんですが、どのくらい「覗き見の場面」があるかをピックアップしてみるのもおもしろい。
巻5の「若紫」では、北山に赴いていた源氏が美少女を垣間見て、この少女を連れ帰ることを思い立ちます。「限りなう心を尽くしきこゆる人にいとよう似たてまつれる」と感じたからです。そこで連れ帰ってすばらしい女性に仕立て上げ、自分の奥さんにしようというのです。いわばマイフェアレディです。この美少女こそ、のちの紫の上でした。
ですから、この少女との出会いは源氏全篇に流れる「紫のゆかり」の系譜が、桐壺の更衣、藤壷をへて紫の上に及んで、さらに“紫化(むらさきか)”していったということの強調なのですから、この垣間見はたいへん重大なきっかけだったのです。ぼくは垣間見のことを「数寄見」とさえ捉えているほどですね。
そのほか「野分」(のわき)では、夕霧(光源氏の長男)が紫の上、玉鬘、明石の中宮を次々に垣間見ますし、「橋姫」での薫が大君(おおいぎみ)を垣間見たことも、その後の宇治十帖の混沌を予告しています。垣間見は物語に「数寄の構造」をつくるんです。
垣間見は男が女を垣間見るとはかぎりません。逆もある。ということは『源氏』は男女リバースの覗き見文学であって、相互侵犯文学であって、つまりは不倫文学のバイブルでもあるということなんです。人妻、ギャル、少女、年増、美人、ブス、熟女、やさ男、イケメン、少年、おやじ、髭男、身分の差、貧富の差を問わず、男女の交情がのべつまくなく描かれます。
さすがにパワハラは出てきませんが、ストーキングやセクハラはしょっちゅうです。あからさまなレイプはないけれど、和姦はしょっちゅうです。それでも、そこには『源氏』なりの特徴もありました。
『源氏』以前の代表的な物語に『落窪物語』や『宇津保物語』があります。その『落窪』では寝所に侵入するなり服を脱いで添い寝してくる男君に、「怖くて心細くて、震えながら泣いていた」という場面があって、それは「着ている衣が見苦しいのと、とくに下着が汚れてたので、それが恥ずかしくて、たったいま死にたいほどの気持ちになったので泣いたのだ」という叙述が入ります。
『宇津保』には父母のない女君が寺社参詣に来た男君に犯される場面があるんですが、その前に歌の贈答があったり、女のほうも琴(きん)を鳴らして応接したりしている。
つまり下着が気になったとか贈答歌があったとか、それなりの応接があったとか、『源氏』以前の物語では説明がつく交情になっているんです。いわば弁解付きのセクハラものが前時代には多かった。
ところが『源氏』はこういう前代の物語様式を継承していながらも、男女の交わりをその場の理由で叙述していない。そういう文意の特徴がはっきりしているのです。その場ではあからさまな情交がおこっているのですが、その理由を源氏や男君たちも女君たちも、容易に説明できないように書いてある。そこでは「説明しがたいもの」が暗示されているだけなのです。
このへん、どうしてそんなふうに書いてあるのか、その物語技法の深みを見ていくのも、なかなか興味深い読み方です。
もちろん、もっとカジュアルにもっとポップに、もっと現代に引き付けて読む手もあります。
田辺聖子が翻案した『新源氏物語』(新潮文庫)や橋本治の『窯変源氏物語』全14巻(中公文庫)、あるいはいまは中断しているようですが、マンガになった江川達也が性的表象を重視した『源氏物語』(集英社)なんかがそういうものですね。
そうしたなか、コミックの得意手をふんだんに綾なしてみせたのは、大和和紀の先駆的な『あさきゆめみし』全13巻(講談社)ですかねえ。まだヴィジュアルな史料が乏しかった1979年からの連載だったけれど、たいへんうまく源氏的なるものを扱ってました。
さらにフェミニズムの立場から読むとか、ジェンダー的に突っ込んでみるという手もあるでしょう。大塚ひかりという古典エッセイストの『源氏の男はみんなサイテー』(マガジンハウス)とか『ブス論で読む源氏物語』(講談社)などは、そういう思いきってドライな源氏読みです。
ついでながら、現代語訳の『源氏』がどのくらい読まれているか、見当がつきますか。晶子訳が172万部、谷崎源氏が83万部、円地源氏が103万部で、田辺聖子訳が250万部、瀬戸内訳が220万部。『あさきゆめみし』はなんと1800万部だそうです。
しかし、『源氏』から男と女の関係式ばかり抜き出していては、いささかもったいない。
マンガ『あさきゆめみし』単行本 全13巻
そもそも『源氏』はその全体が「生と死と再生の物語」として読めるようになっています。これは大切な見方です。それとともに「もののけ」を含めた「もの・かたり」の大きなうねりが脈動しています。「もののけ」は葵の上を呪殺しただけではなく、何度も出没しますからね。
王朝期、「つくる」というと「物語を書く」ことをさしました。紫式部はその「もの」の「語り」をどういう作り方にするか、そうとう意欲をもって取り組んだはずです。そこで「本歌取り」ならぬ「物語取り」の手法もいろいろ工夫した。暗示や例示、仮託や暗喩の語りも駆使します。だから『源氏』からは驚くほど多様なナラティビティや趣向や属性を、今日なお読みとることが可能です。
式部はそうした「もの」に寄せたフィクションの力を確信していました。巻25の「蛍」には、源氏の養女になった玉鬘(たまかずら)が物語に熱中していたので、源氏が自分がどのように物語について感じているかを述べる有名なくだりが出てきます。そこで源氏は「物語というのは虚構(そらごと)だからすばらしいんだ」という持論を述べてみせるのですが、これは式部が源氏を借りて自分の物語観を吐露しているところです。さらに「日本書紀なんてリアルで瑣末なことばかり書いていて、かなり片寄っている」とも、源氏に言わせています。
日本の言葉の奥行き、すなわち大和言葉や雅語の使い勝手をまさぐるために『源氏』を読むということも、得がたい作業です。これは国学者たちが挑んできた王道のひとつです。
たとえば「らうたし」とか「らうたげ」という言葉が夕顔や女三の宮に使われているのですが、これは「うつくし」とも「いとほし」とも違います。「うつくし」は小さいものや幼いものへのいたわりで、「いとほし」は相手への同情を含む気の毒な感覚から生まれた言葉なのですが、「らうたし」は弱いものや劣ったものを庇(かば)ってあげたくなる気持ちをもった「可憐だ、愛らしい」という意味なんです。
夕顔や女三の宮をそのように見ることは「らうたし」からも推しはかることができるんですね。
このへんのことは国文学の研究書がそれこそとことんやっているので、そういうものを繙(ひもと)くとすぐに見えてくる奥行きですが、こうした「言葉読みの可能性」をわかりやすく、かつおもしろい仮説を提供しているのは、ぼくにとっては、国語学の大野晋さんと作家の丸谷才一さんが対談しながら全巻を巻ごとに紐解いていった『光る源氏の物語』上下(中央公論社)でした。これ、けっこうおすすめです。
それから忘れないうちに加えておきますが、『源氏』が描く衣裳や色彩や、源氏絵と呼ばれてきた絵画を通した源氏体験をするのも、また源氏調度や源氏香などに分け入って源氏理解をするのも、なかなかオツなものです。ぼくはどちらかというと、こちらのほうに子供の頃から親しんできました。
源氏色については吉岡幸雄さんがみごとな再生をされました。『源氏物語の色事典』(紫紅社)はたいへんなプレゼンテーションでしたねえ。吉岡さんの色の再現と色彩文化にまつわる造詣にたちまち引き込まれます。以前、ホテルオークラで公開対談をしたときは、すばらしい源氏色の由来を茜や紅で染めた布で説明してくれました。
紫式部の色彩表現感覚は、かなり独特なのです。赤だ、緑だ、白だとは書かない。「若菜」には洗い髪の色合を綴った息を呑むような表現がありますね。「(洗った髪が)露ばかりうちふくみ迷ふ筋なくて、いと清らにゆらゆらとして、青み給へるしも色は真青に白く美しげに透きたるやうに見ゆる‥‥」というあたりです。溜息が出ます。
『源氏物語の色事典』吉岡常雄著
『真朱(まそほ)の夜明け』ホテルオークラ公開対談
源氏絵をじっくり見るのも「源氏読み」のひとつです。
源氏絵はなんといっても国宝の源氏物語絵巻が「鈴虫」「関屋」「夕霧」「柏木」「宿木」(やどりぎ)など19場面をのこしているのが基本の基本ですが(ぼくもこの撮影に何度か立ち会いましたが)、宗達が「関屋」「澪標」(みおつくし)をユニークな一枚絵に描いたように、王朝ルネサンスとしての源氏絵は国宝の絵巻だけでなく、白描(はくびょう)の源氏絵、永徳らの源氏屏風、土佐光吉の「源氏物語画帳」、住吉具慶の源氏絵巻など、いろいろあるんです。
これらは「美術としての源氏」というより、源氏というのはこういうものだということを、絵そのものとして把握できるようになっています。「吹き抜け屋台」という図法で描いているとか、顔は「引目鉤鼻」(ひきめかぎばな)になっているとかだけではない。絵を見ていると、文章ではやってこないいろいろな情報がアルス・コンビナトリアをおこして伝わってくる。いわばバーバラ・スタフォード(1235夜)のイメージング・サイエンスのような見方ができるように描かれているんですね。
こうしたヴィジュアル源氏を愉しむには、秋山虔・小町谷照彦の『源氏物語図典』(小学館)、三田村雅子の『源氏物語 物語空間を読む』(ちくま新書)、『源氏物語 感覚の論理』(有精堂出版)、三谷邦明との共著の『源氏物語絵巻の謎を読み解く』(角川選書)などが参考になります。
このほか、お能にも『源氏』の各巻を本説(ほんぜつ)とした幾つもの作品があるので、これを通してみるのもさまざまな源氏体験ができます。
夕顔をシテとする『夕顔』や『半蔀』(はじとみ)、六条御息所をシテとする『葵上』や『野宮』(ののみや)、彷徨する主人公を謡う『玉鬘』や『浮舟』、光源氏がシテになる『須磨源氏』(光源氏が出てくるのはこれだけですね)、紫式部にアヤをつけた『源氏供養』など、それなりの源氏ものがあります。
ただ、ちょっと意外なのは世阿弥(118夜)が源氏をあまり好まなかったようだということで、これについてはまだ本気の研究がないのではないかと思います。きっと紫式部の時代は田楽の流行の段階で、世阿弥はこれを脱したかったから、あえて『源氏』に入らないようにしたのかもしれません。その逆に、もしも世阿弥が『源氏』を能楽していたらなと思うときもあります。
というふうに、源氏読みや源氏体験にはいろいろのアプローチがあっていいのですが、でも王道中の王道は、やはり「歌」にカーソルを合わせつつ「歌物語としての源氏」を読むということだろうと思います。
なにしろ800首近く、795首の和歌が『源氏』に入っているんです。それを式部がすべて登場人物に即して歌い分けました。こんな例はほかにありません。
それだけでなく、「引歌」(ひきうた)というんですが、前代の和歌がおびただしく引用されてもいます。藤原俊成が「六百番歌合」の判詞(評判)で「源氏見ざる歌詠みは遺恨のことなり」と言ったように、『源氏』はそれ自体が歌詠みが必ず通るアーカイブだったのです。
それゆえ中世から近世にかけて、日本を代表する歌人や連歌師や俳人たちが源氏注釈をしながら、このアーカイブを探索しました。四辻善成の先駆的な評釈『河海抄』を筆頭に、一条兼良の『花鳥余情』(かちょうよせい)、三条西実隆の『細流抄』、北村季吟の『湖月抄』など、ずらりと揃っている。
これらを総合的に点検し、巨きな視野で仕上げていったのが賀茂真淵の『源氏物語新釈』であり、それにさらに磨きをかけたのが本居宣長の『玉の小櫛』です。
ちなみに『湖月抄』までを源氏ギョーカイでは「旧注」と言いまして、それ以降は「新注」です。
『河海抄・花鳥餘情・紫女七論』
ただし、こういうふうな源氏の歌世界に入っていくには、多少なりとも和歌をたのしめなくてはなりません。和歌を読みくらべたりすることがおもしろくなると、『源氏』はたまりません。
それはプロの歌人にとっても同じこと、塚本邦雄(1270夜)の『源氏五十四帖題詠』(ちくま学芸文庫)を一度、手にとってみてください。五十四帖全巻に対して塚本さんが一首ずつを新たに詠み、それを含めて各巻の趣向を解説してしまうという、とんでもなくアクロバティックな遊びでした。
ちょっとだけ紹介しますかね。たとえば「桐壺」は「桐に藤いづれむらさきふかければきみに逢ふ日の狩衣は白」を、「夕顔」には「その夏のわざはひの夢わがために一茎ゆふがほぞ裂かれし」を、「玉鬘」が「きのふ初瀬にめぐりあひたるゆかりとて日蔭の花のあはれ移り香」で、「橋姫」が「宇治十帖のはじめは春の水鳥のこゑ橋姫をいざなふごとし」というふうに。七七五七七の字余り塚本節も滲み出しての、塚本邦雄以外の誰にもできそうもないプレゼンテーションでした。
枕の話ばかりしてしまいました。
それでは、そろそろ本題に入ることにします。作者のことから入ります。そもそも紫式部とはどういう女性なのか。いったいなぜ『源氏物語』などという長大なものを書いたのか。時代背景は何を見せていたのか。ここからが今夜の源氏彷徨です。
一言でいえば、紫式部は受領(ずりょう)の子です。娘時代の本名は小市(こいち)といいます。小市の家は藤原北家の一門ではあったものの、祖父の代では受領レベル(諸大夫)の身分になっていましたから、栄華を極めていった藤原道長の家系とはほど遠い家柄です。
でも4代ほど前の醍醐天皇のころは、それなりに優遇されていたんです。小市の曽祖父、兼輔(かねすけ)の時代です。それがだんだん落ちぶれてきた。落ちぶれたといっても落魄したわけではなく、ずるずると「家の位」が後退したという程度なんですが、ここが『源氏』が書かれた時代背景としてけっこう大事なところです。
なぜならこのことは、小市にとって「くちおしき宿世」だったんです。小市は長生きをした祖母から往時の華やかな日々のことを聞いて、いささか悔しい思いをもっていた。なぜ父の世代でそうなってしまったのか、なぜ祖母はその懐古話をしてくれたのか。ここに執筆のモチベーションの一端があるのです。
『源氏』の冒頭が「いづれの御時(おんとき)にか、すぐれて時めきたまふありけり」というふうに始まっているのは誰もが知っていることでしょうが、この「いづれの御時」という御時は、実は小市から見ると4代昔の醍醐天皇の御時のこと、曽祖父の御時のことだということなんですね。
(左)醍醐天皇
(右)紫式部の曽祖父・藤原兼輔
もう少し言っておくと、父の藤原為時は漢学者でした。菅原文時を師として漢籍を学び、慶滋保胤(よししげやすたね)や文雅に長じた具平(ともひら)親王らとも親交を結んでいます。花山天皇に大事にされたこともあった。
けれども花山帝は藤原兼家の策略で2年たらずで出家退位しましたから、そのあとは長く文章生散位(もんじょうのしょう・さんに)のまま捨ておかれた身分でもありました。おまけに妻を病気で失った。そういうこともあって小市たちは片身の狭い思いがしていたんですね。小市は幼くしてお母さんを喪(なく)していたのです。このロストマザー体験も見逃せません。
こうした家柄の浮沈に関する出来事は、その後の小市の生涯の人生観と、紫式部としての物語作りのスタンスを決めていきます。宮廷社会で生きるとは、そういうものでした。
それはまたあとでお話しするとして、さて、ところで、父の為時が不遇の散官時代をへて長徳2年(996)に越前守となると、小市は翌年に結婚します。いくつくらいの時だったと思いますか。10代後半? 20代になってから?
そのころとしてはかなり遅い29歳前後です。相手は46歳の藤原宣孝で、山城守という職掌です。この旦那さんは『枕草子』によると、まあまあ明るい茶目っけもある貴族だったようですが、けれども長保3年(1001)、夫は折からの疫病に倒れて死んでしまいます。小市は、同じ年に身罷った東三条女院の詮子の死と思いを重ねて、「雲の上も物思ふ春は墨染に霞むそらさへあはれなるかな」と詠んでいる。わずか数年の結婚生活でした。今度はロストハズバンド体験でした。
で、小市はそれから数年後に一条天皇の内裏に宮仕えすることになるのです。中宮の彰子(しょうし)の女房として出仕しなさいという誘いがきたのです。彰子は道長の娘ですね。そしてここから先が「紫式部」となるわけなのですが、小市は当初、この出仕にけっこう迷っています。
女房というのは、宮廷や貴族の館に局(つぼね)をもらって仕える高級女官のことです。天皇に仕える「上の女房」(内裏女房)と後宮の后に仕える「宮の女房」とがありました。
小市の場合は一条天皇に入内(じゅだい)した中宮の彰子(しょうし)に仕える女房として声がかかったので、「宮の女房」です。当時はこうした女房が後宮サロンをつくり、それぞれ妍(けん)を競いあっていました。道隆の娘の定子(ていし)のサロンには清少納言が、彰子のサロンには和泉式部が入っています。
しかし小市は、どうも出仕の決意が定まらない。「数ならぬ心に身をば任せねど身に随ふは心なりけり」と歌っている。ともかく最初のうちはぐずぐずしていたようで、里に帰ってしまったこともあったようです。
それでも、結局は決断する。何かを決意したようです。キャリアウーマンとして、栄華に酔いしれる宮廷社会の実態を見てみようという決意だったかもしれないし、かつての曽祖父の時代の宮廷感覚を取り戻したかったのかもしれません。
このあたりのことは、杉本苑子さんに『散華』(上下・中公文庫)という小説があるので、読まれるといい。現代語による会話が少し興ざめしてしまうところがありますが、紫式部の生涯を小説にしたものとしては、小市から式部になっていく心情と境遇に沿って女心のカーソルを動かしているので、そこそこわかりやすいと思います。
歴史的なプロフィールについては、今井源衛『紫式部』(吉川弘文館)、清水好子『紫式部』(岩波新書)などが参考になるでしょう。
紫式部という名称は自分から名のったのではありません。自分でつけたペンネームでもありません。これは「候名」(さぶらいな)あるいは「女房名」というもので、仕事上の呼び名です。
候名や女房名には、本人が帰属する家を代表する者の官職名を用います。紫式部の「式部」は父親が式部丞という官職に就いたことに由来します。清少納言は兄弟に「少納言」がいたから、伊勢は父親が伊勢守だったから、相模は夫が相模守だったから、それぞれそう呼ばれました。清少納言の「清」は清原氏の出自であることを示します。だから念のために言っておきますが、セイショー・ナゴンではなくセイ・ショーナゴン。ドンキ・ホーテではなくドン・キホーテであるように。
どうしてこんなふうなハンドルネームのようなもの、まさに水商売の源氏名のようなものがついたかというと、宮廷にかかわる女房は実名を伏せるという仕来りになっていたからでした。ですから女房たちは系図にもめったに実名が記されません。
それで「紫式部」という候名ですが、これは通称です。実際には小市の父の姓は藤原なので、おそらくは「藤式部」(とうしきぶ)と呼ばれていたはずです。
それが『源氏』が有名になり、ヒロインの紫の上に宮廷の人気が集まったので、また『源氏』の物語の全体が「紫のゆかり」が導きの糸になっていたので、いつしか「紫の式部」になったのではないかというのが、学界の定説です。
ま、そのくらい同時代によく読まれていたということでもあるわけです。これは有名なエピソードですが、当代きっての知的ダンディの藤原公任(158夜)が彰子の皇子出産の祝宴に出ていたときに式部に出会い、「すみません、このあたりに紫の方はいらっしゃいますか」と冗談めかして尋ねたという話がのこっています。
ついでながら、角田文衞さんは長年の研究を通して、紫式部の本名が実は「香子」(かおりこ/たかこ/こうし)だったということを調べ上げました。『紫式部伝』(法藏館)という大著になっています。大論争がおこった仮説だったのですが、いまなお賛否両論です。
さて、夫に死なれ、中宮に出仕する誘いがあって、小市がひそかに決断したのが物語を「つくる」ということでした。
寛弘5年(1008)の日記(のちに『紫式部日記』となったもの)に、「はかなき物語などにつけてうち語らふ人」になりたいといったことを書いています。
こうして、何年何月何日とは確定できないのですが、夫を亡くして6、7年、宮仕えをして3年、小市は『源氏』をほぼ書き了えているんです。ということは、もう少し前から草稿を綴っていたんだと思います。
草稿段階でどんな構想ができあがっていたのか、そこはわかりません。おそらく、主人公を大胆にも天皇の第二皇子にしたことが決定的なトリガーになったんではないかと思います。「世になく清らなる玉の男みこ」としての「光の君」ですね。「かかやく日の宮」とも呼ばれた。
式部は源融や源高明や藤原伊周(これちか)などを参考モデルにしたようです。まあ、合体ロボのような超イケメンです。
この「光の君」の父は桐壺の帝というふうにしました。それこそ曽祖父の時代の醍醐天皇や村上天皇がモデルです。その帝が選んだのが桐壺の更衣です。帝(みかど)の寵愛を独占したために同輩から疎まれ、さまざまな陰湿な「いじめ」にあったという設定にしました。
ついで、その帝と更衣のあいだに輝くような「光の君」が授けられたのに、母なる更衣が死んでしまうというイニシャルステージを思いついたことで、あらかたの構想ができたはずです。
式部は、漢の武帝と李夫人の秘話や白楽天の『長恨歌』が詠んだ玄宗皇帝と楊貴妃の悲恋などをヒントに、日本の宮廷社会のあからさまな日々を綴ることにしたんですね。その後、どんなふうに書き進めたのかということもわかっていないのですが、おそらく4~5年で書き上げたのだろうと思います。
すごいですね。没頭したんでしょうね。それにしても、この物語を一気に読めた同時代の王朝貴族、宮廷文化、後宮社会というものの文化水位というのも、驚くべきものだったと思います。
ということで作者像のことはこのへんにして、それではそろそろ『源氏物語』という大河小説のような物語がどんな「しかけ」や「しくみ」になっているのかということを、ざっと見ておこうと思います。
ご存知のように『源氏』は五十四帖でできています。五十四帖になったのは藤原定家の校訂本以来のことで、それ以前には異同がいくつかあったようですが、それはともかく、源氏といえば五十四帖です。
そのなかに、たくさんのエピソードやプロットが散りばめられているのですが、それらすべては時の流れに従って話が進行するようになっています。光源氏をはじめとする主人公たちの成長、登場人物の生老病死、季節の変化、節会と行事のめぐり移り、調度の出入りや装束のメッセージ、神社仏閣への参詣、さらには「もののけ」の出没などが織りなされ、それが五十四帖に連続的に及びます。
とはいえ、むろんベタには書いてはいない。王朝クロニクルともかぎりません。
光源氏が生まれて12歳の元服のときに葵の上と結婚させられるまでが巻1の「桐壺」ですが、次の巻2「帚木」(ははきぎ)では17歳にとぶ。桐壺の帝が亡くなって、朧月夜との密通がバレてしまってピンチにたった源氏の話は巻10の「賢木」(さかき)が描いて、ここに大きなターニングポイントがあらわれるのですけれど、次に源氏が須磨・明石に退却するところも2~3年とんでいます。
おびただしい登場人物についても、必ずしも追跡描写があるわけではありません。囲碁の布石のようにしっかり伏線は綴られているのだけれど、忘れたころに再記述や後追い記述がされるということもしょっちゅうです。トレーサビリティを微妙にしておくことが、式部の魂胆であり意図だったのです。
巻3「空蝉」(うつせみ)で源氏と一夜の契りを交わした空蝉のその後は巻16「関屋」にとびますし、巻6「末摘花」(すえつむはな)の後日譚は巻15「蓬生」(よもぎう)を読むまではわからない。
しかし、ときどきとんでいたからといって、『源氏』の物語構造はゆるぎません。プロットはけっこう複雑ではあるけれど、かなりしっかりした構造です。
ぼくは長らくレヴィ=ストロース(317夜)が言うように「構造は関係である」と確信してきたのですが、『源氏』はまさに「物語=構造=関係」になっているんです。
『週刊 絵巻で楽しむ 源氏物語源氏物語 五十四帖』
物語には母型(マザータイプ)というものがあります。とくに古典は母型をもっている。母型を支えているのはワールドモデルです。『源氏』のワールドモデルは何なのでしょうか。「都」ではありません。「宿世」(すくせ)です。『源氏』はこの宿世と物語構造を融即させました。
かくて『源氏』の物語構造は、結果的に大きく3部構成に分かれることになりました。これは研究者たちが便宜的に区分けしたものですが、こういうふうに見るのはわかりやすいので、ぼくもこれを使わせてもらいます。
第1部は「桐壺」「帚木」「夕顔」から「須磨」「明石」をへて「野分」「玉鬘」「梅枝」、巻33の「藤裏葉」に及ぶという、けっこうな長丁場です。
この進行のなかで二つのストリームが交差します。複数の予言的な暗示が幾つか提示され、その予言にもとづいたロングストリームの物語がうねるように進行しているなか、ショートヴァージョンのエピソードがしばしば絡んで、しだいに光源氏の特徴と野望があきらかになっていく。それとともに、その複雑な心情を浮き上がらせるというふうになっているのです。
ロングストリームの話の根底に流れるメタモチーフは、母の桐壺の更衣の「面影」です。その面影が先帝の四の宮だった藤壷へ移り、さらにその姪の紫の上に投影されていく。この面影が「うつる」(移・映・写)ということこそ、源氏全体に出入りしている最も重要な特色のひとつです。
ところが藤壷との密通によって罪の子が誕生すると、この子が冷泉院となって帝位につくのですが、この面影のストリームは潜在的な王権の可能性のほうに転化していきます。源氏は太政大臣、また准太上天皇(じゅんだじょうてんのう)にまで昇りつめるけれども、それは摂関家の権力でもなく、また天皇の権威でもない別様のものなのです。あくまで源氏独特のものです。そこにあらわれるのが六条院という「雅びの王国」の結構だったわけでした。
ショートヴァージョンのほうは、源氏が空蝉、夕顔、末摘花、夕顔の遺児の玉鬘らとどういうふうに交わったかという話の連鎖です。これらの女性はロングストリームの物語には登場しません。けれどもそのぶんたいへん印象深く描かれます。
そういうなか、源氏は葵の上を正妻にします。これは政略結婚のようなものですが、その葵の上は夕霧を産んだあと、六条御息所に排除され、さらにその生霊(いきりょう)に取り憑かれて殺されるという、まるでシェイクスピア並みの悲劇か、ホラー小説に匹敵するような驚くべきの事態を出来(しゅったい)させます。三島由紀夫(1022夜)がこの顛末を現代劇に置きなおしましたね。
こうしてさしもの華やかさに彩られた六条院の邸宅も、死霊によって揺さぶられる屋敷と化していきます。六条院は増築を重ねて広大なものになったのですが、その「秋の町」の結構は実は六条御息所の邸宅を吸収したものでした。この土地はそういうゲニウス・ロキ(地霊)をもっていた。上田秋成(447夜)が『雨月』の「浅芽が宿」に換骨奪胎しています。
かくて源氏その人は須磨・明石に移っていく。あとで説明しますが、そうなった表向きの理由は弘徽殿の女御の妹である朧月夜の官能力にあるのですが、ぼくはここは紫式部が源氏に「侘び」を選択させたところだと見ています。須磨・明石のくだりは神話の物語類型から言うと「貴種流離譚」に当たります。
『葵上』の題で描かれた御息所
(葛飾北斎画『北斎漫画』より)
能曲「葵上」において御息所の生霊を表現する鬼女面は、後に般若面の代表となった。
源氏が落ち着いた先は明石の入道の邸宅です。入道が娘の明石の君を縁付けたいと申し出ると、源氏はこれを受け入れ、二人のあいだに生まれた子は今上帝の中宮になって、源氏一族の繁栄のシンボル力のように見えてきます。
しかし源氏はまだ「侘び」のなかにいる。ここに浮上してくるのが玉鬘(たまかずら)と夕霧です。玉鬘は頭中将と夕顔のあいだに生まれた子で、源氏が引き取って養女にしていたのですが、たいそう美しく育った。そこでみんなが言い寄るようになっていく。養父の源氏さえ妖しい気分になります。この玉鬘をめぐる話が巻22の「玉鬘」から巻31の「真木柱」まで続いて「玉鬘十帖」とも呼ばれるんですね。
一方の夕霧は光源氏と葵の上のあいだに生まれた長男です。雲居雁(くもいのかり)とのあいだに4男3女、藤内侍(とうないしのすけ)とのあいだに2男3女、さらに落葉の君とも結婚するという「まめ人」ですが、のちのち源氏が亡くなったあとは大いに権勢をふるいます。ですから物語の男主人公としては、光源氏から夕霧へとバトンタッチされていくというふうになっているわけです。けれども、そこには静かな逸脱のストリームが流れているんですね。
第2部は巻34「若菜」上から巻41の「幻」までです。
源氏はもう40代になっている。ここでは女三の宮が六条院に降嫁してきたことがきっかけになって、それまでの六条院の栄華が目に見えてくずれ、源氏と紫の上のあらまほしい関係が世俗にまみれていくという進行をとります。
結局、栄華を手にするようになったのは明石の君の一族です。ここに登場してくるのが柏木ですね。柏木は蹴鞠(けまり)の日に垣間見した女三宮に懸想(けそう)していて、落葉の宮との結婚に満足していない。それでも強引に密通して思いをとげます。こうして生まれてきたのが次の第3部で活躍する薫です。
ここから事態がしだいに複雑になってきて、源氏の心も右に左に乱れていきます。
源氏は藤壷との罪の因果応報を感じながら、五十日(いか)の祝いで薫を抱くのですが、そこにはうっすらと苦渋の表情があらわれています。柏木は柏木で、源氏に女三宮との秘め事を知られて自滅するかのように死んでいき、女三宮は出家してしまいます。実直だったはずの夕霧も落葉の君に恋慕するというふうに踏み外す。その豹変ぶりに雲居雁は失望して実家に戻ってしまいます。
すべての歯車がちょっとずつ狂ってくるんですね。源氏もだんだん常軌を逸した言動を見せる。とうとう紫の上はすべてを諦観してこの世を去ってしまいます。これでは源氏はどうしょうもない。紫の上を哀悼しながら出家の道を選ぼうとするというふうになって、「幻」の巻で光源氏は消えていく。
実際には源氏の死の場面は描かれていないんですが、そのことは第3部の宇治の物語で、源氏は嵯峨の地に出家して亡くなったというふうに回想されることになります。
かくて第2部はしだいに仏道の求道感覚が色濃くなって閉じられます。けれども抹香くさくはなりません。かなり式部は工夫したでしょうね。
第3部は「幻」の巻から8年がたって始まります。「匂宮」「紅梅」「竹河」ときて、「橋姫」から「夢浮橋」までがいわゆる宇治十帖です。
宇治十帖はぼくが高校時代に惹かれたところで、いまその理由を考えてみると、薫が生まれながらの疑念を抱えていて、その体に仏身をおもわせるような芳香がそなわっていたりするところに惹かれたのかもしれません。薫は源氏の形見の子として扱われますが、実は柏木と女三の宮のあいだに生まれています。薫は何か2つの陰陽のスティグマをもっているのです。
もう一人、第3部で鮮烈な印象を放つのが浮舟です。薫がひっそりと宇治に移り住まわせていたところ、匂宮(におうのみや)が薫と偽って宇治に乗りこんで接触すると、それまであえて距離をとっていた薫が浮舟に耽溺します。それでどうなったのか。宇治十帖はこの浮舟の物語になっていきます。
話の流れとしては、源氏は死んでしまっているので、新たな主人公として薫と匂宮が中心になって進みます。舞台はもはや洛中ではなく、洛外の宇治や小野の里といった閑静な「凹んだ場所」です。
前半で描かれるのは、源氏亡きあとの人物たちのその後の動向と、柏木の遺児の薫の言動、そして匂宮のふるまいです。とくに薫の「まめ」と匂宮の「すき」が対照的に描写されます。光源氏は「まめ」と「すき」の両方を兼ね備えていたのですが、もはやそういう統合像をもったヒーローはいないんですね。
この薫と匂宮にあたかも逆対応するかのようにかかわってくるのが、八の宮とその女君たちです。大君(おおいぎみ)、中の君、浮舟などが登場する。八の宮は『源氏』全巻のなかでも、きわめて特異なキャラクターですね。
そもそも薫は八の宮の求道的な姿勢に関心をもって宇治に赴くようになったのですが、そこに匂宮が介入してきます。そういうなかで薫は大君に求婚をする。けれども大君は父親の遺言に縛られて応じられないままに病死します。結局、中の君は匂宮と結婚しました。浮舟はどうかというと、薫と匂宮の板挟みにあって、宇治十帖を象徴するかのように宇治川に入水する。
浮舟は紫式部が最後に用意した「面影」です。これまでの女君たちとはまったく違っている。だから、いったい最後の最後になって、なぜ浮舟なのかということですね。
物語のほうも、これで最後です。浮舟が横川の僧都(よかわのそうず)に助けられて小野の里に暮らし、やがて出家するというふうに五十四帖は終わっていくのです。なんとも不思議なエンディングです。男の主人公は、光源氏、夕霧、匂宮、薫、そして横川の僧都というふうに変移していったわけでした。
源氏物語 登場人物系図
以上がおおざっぱな3部構成の流れです。
詳しいことは省いて起承転結の流れだけをスキーミングしたので、これで『源氏』の物語性が編み出せるわけではありませんが、いまはこんな流れだけをかいつまみました。ぼくとしては『源氏』が以上のような「ゆるやかな崩れ」を追っているということを強調しておきたかったのです。
たくさんの「小さな芽生え」と、重なりあい離れあっていく「ゆるやかな崩れ」。
『源氏』はこの離合の組み合わせで織られているのです。そこにはつねに「別様の可能性」がコンティンジェントに見え隠れして、そのたびに「面影」が濃淡の色合いを変えて出入りするのです。
なぜ、そんなふうになるのかといえば、そもそもにおいて「当初の過ち」があったからです。それを式部が「宿世」と捉えたかったからです。このことについては、その他の重大な見方、たとえば天皇の問題、藤原氏の問題、無常の問題、記憶と想起の問題などなどとともに1571夜に採りあげます。
では、この流れを巻立ての順に一つひとつ見ていくと、どうなるか。それについては次夜に続けたいと思います。
こんなふうに一作の作品を千夜千冊の「夜」をまたいで継続させるのは、1001夜でブライアン・グリーンの『エレガントな宇宙』を綴ったとき以来のことです。もうしばらく『源氏』に付き合ってください。