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紫式部が愛用した若田硯

2020.09.23 09:11

https://manareki.com/murasakisikibu 【源氏物語を書いた紫式部ってどんな人?その生涯・性格とかをわかりやすく紹介するよ【ライバルの清少納言を日記でディスってる件】 より

今回は、「源氏物語」の著者で有名な紫式部について紹介してみたいと思います。

源氏物語の知名度に比べると、あまり知られていない紫式部の人物像。この記事ではその辺の話に迫ってみたいと思います!!

謎多き女、紫式部

・・・とか、偉そうなことを言っておいてアレなんですが、日本最高の文学作品とも言われる源氏物語の著者の割には実は紫式部って謎が非常に多いんです。

いつ生まれたのか、いつ亡くなったのかもわからないし、さらにはその本名すらわかっていません。

というのも、紫式部はそれほど身分の高い出自ではなかったからです。その仕事は、中宮(ちゅうぐう。天皇の正妻)である藤原彰子の身近の世話をする世話人。女房と呼ばれていました。

紫式部は、数いる女房の中で特に彰子お気に入りの女房だったようですが、それでも出自の低い女房の詳細な記録が残されている可能性は皆無です。

紫式部が有名なのは、日本最高の文学作品とも言われる「源氏物語」の著者であるからに過ぎません。

源氏物語を読んだ多くの人はこう思います。

「このスゲー作品を書いた紫式部って一体どんな人物なんだ!?」

こんな感じで、後から色々と調べられるようになった紫式部ですが、前述のとおり生きている頃の史料が少なすぎて調べるにしても限界があるんです。こんな理由から、源氏物語は超有名なのにその著者である紫式部となると非常に謎の多い女性となってしまうのです。

名前の由来

名前もわかっていない紫式部ですが、なぜわかってもいないのに「紫式部」と呼ぶのでしょう。実は「紫式部」っていうのはアダ名。

「式部」は式部省というお役所の部署の名前です。式部省は、大学の管理など行う部署で学識の優れた人物が働く部署でした。紫式部の父が勤めていた部署であり、そこから「式部」の名が採用されたのでは?と言われています。(諸説あり)

「紫」については、何もわかっていません。ただ源氏物語の重要人物に「紫の上」がいますので、そこと関係しているのでは?と言われています。(これも諸説あり)

頭の良かったお父さん、藤原為時(ためとき)

紫式部の話に入る前に、その父である藤原為時について紹介しておきます。というのも、紫式部の人生はその父の影響が色濃く反映されているからです。

父の藤原為時、実はかなりエリートでした。藤原為時は、漢文などの学問に秀でており、花山天皇の頃は天皇に漢文を教え、天皇の読書係も勤めています。

家柄も、数ある藤原氏の中でも特に家柄の高いと言われている藤原北家の出身で、中々のエリートだったことがわかります。

「藤原北家って何?」という方は以下の記事をどうぞ

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ところが、藤原為時が近侍していた花山天皇は986年、藤原兼家の陰謀により譲位させられてしまいます。

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花山天皇の学問係として従事していた藤原為時も、花山天皇の失脚と合わせて仕事を失い、約10年間、職なし状態でした。そして996年、藤原為時は娘の紫式部を連れて越前国の受領(越前守)となります。

当時、一流貴族たちは平安京に住むのが当たり前。受領は中流階級の仕事であり、越前への赴任は藤原為時が凋落してしまったことを意味しています。

紫式部は父の凋落を横目で見るのと同時に、為時から漢文を習得します。当時、女性が漢文に堪能であることは珍しく、むしろ「女性らしくない」と嫌悪されることも多くありました。女性としてはあまり誇らしいことではありませんでしたが、父から教わった漢文スキルは紫式部の人生を大きく変えることになります。

愛する夫、藤原宣孝(のぶたか)

紫式部は998年頃、藤原宣孝と結婚します。父の為時はお堅い硬派な人でしたが藤原宣孝は対照的で、歌をよく詠み、オシャレ好きで軟派な人物でした。

ところが、この結婚生活長くは続きません。1001年、藤原宣孝が他界してしまうのです。

紫式部が源氏物語を書き始めたのは、そんな夫の亡くなった後でした。当時の紫式部は悲しみに耽る日々を過ごしており、将来への不安と虚無感に押し潰されそうになっていました。そんな時に、紫式部を慰めたのが友人が教えてくれた「物語」でした(どんな物語かはわかりません)。

紫式部は、物語を読んでその内容について友人と話している間は辛いことを忘れられたと言っています。紫式部が藤原宣孝のことを深く愛していたことがわかります。

物語の素晴らしさを知った紫式部は、自ら物語の作成に取り掛かります。こうして生まれたのが源氏物語です。源氏物語は、夫の死という悲しい事実を乗り越えようとした、ある種の現実逃避から生まれた作品と言えるかもしれません。

紫式部と藤原道長の怪しい関係

紫式部は、1人部屋にこもって源氏物語を書いていたわけではなく、友達にその内容を見せて、みんなでワイワイお話なんてしていたようです。すると、源氏物語の噂は世間に広まり、時の権力者だった藤原道長の目にも止まることになります。

きっと、源氏物語が思いのほか面白かったのでしょう。藤原道長は、紫式部の源氏物語の執筆を経済面などから支援しました。

少し、藤原道長の話をしましょう。

1006年、藤原道長の娘である彰子が一条天皇の下に入内しました。これは藤原道長の一世一代の大勝負!

彰子が一条天皇との間に男子を産んで、その子が天皇になれば藤原道長は天皇の外祖父。当時の日本は、生活や子育てに関しては母が絶対的権力を持ってい他ので、それに口出しできる母方の祖父も、子に対しては強い影響力を持っていたのです。

つまり、彰子の子が天皇になる=天皇に対する藤原道長の影響力が強まる=藤原道長が政治の実権を支配!ってことになります。

藤原道長は彰子の入内のため、彰子の身近の世話をする女房として優秀で美しい女性を探します。紫式部は、この選ばれし女性にも見事に抜擢され、さらには彰子の家庭教師役にまで選ばれています。

紫式部は藤原道長との出会いにより、その人生が大きく変わります。そして紫式部と藤原道長を結びつけるきっかけとなったのが源氏物語だったのです。

龍天に登る硯の玉兎かな 五島高資

硯海の渦にものの芽萌しけり 五島高資

 端渓硯

https://ameblo.jp/sousenn-syodou/entry-12372907286.html 【若田硯】 より

今回は長崎県対馬特産の若田石を使った若田硯についてです。若田硯は産地の対馬でも製硯されていますが、昔は大部分が山口県の小月町にて製硯されていました。

今では岡村製硯所が残るのみになり、昨年現地まで足を運んでまいりました。

若田硯も歴史は古く、著名な人物だと、紫式部が源氏物語を執筆時に愛用したのも若田硯だと言われています。江戸時代には中国の巨頭、端渓硯と歙州硯に勝るとも劣らないという評価をされており、現代にいたっても高い実用性を誇る和硯です。

磨った感想を一言でいうと「最強の磨墨力」

昨日記事にした古墨、若田硯におろせぬ墨は他の硯におろせるはずがない。といっても過言ではありません。それほど磨墨の力が強く、ガテン系の男らしい風格すら感じます。

そんな男らしい硯を使って源氏物語という恋愛物を書き上げたというのは中々ギャップがあって面白いというか。まぁそれは置いておいて。

【磨墨力】★★★★★★★【発墨力】★★★☆☆【磨墨感】下【覚醒値】3

紫雲石硯で出てきました、同じ石でも色などの違いによって質が変化するものを【覚醒値】として表現することにしました。1が基準値で、3だと2段階変化するという意味です。

【鋒鋩の形状】

量は非常に多く大粒

日本最強のオフェンス力を誇り、どんな状況も個の力で突破するバリバリの点取り屋タイプです。

まだ潤沢に資材はあり、東日本ではあまり知られていませんが、九州では硯研究会の方が個人で若田硯を彫っているぐらい知名度があります。まさに西の横綱。

そして、基本グレー色をしていますが、黄脯硯(おうほけん)といって、石の紋様が渓谷の美を表現する様なものもあり、黄臕(おうひょう)といって、黄土色の様な石質の物もあって、そうなると質が更に良くなるそうです。

ここ岡村製硯所ではたくさんの硯を見させてもらいましたが、同時にたくさんの事も教えていただきました。

まず、書道用品屋に行くと「天然石」とか「自然石」とかいう名称を付けて売られている硯があります。これ何のことかそれまでさっぱりわからなかったんですが、全て「野面」(のづら)のことだと教えてもらいました。

これが一般的によく見る「角硯」(かくけん)と言われるもの。

こちらが「野面」。写真ではわかりませんが、側面に石を彫り込んだ跡がそのまま残っています。

勘の良い人はもうお気づきでしょうが、「角硯」も「野面」もどちらも同じ石です。野面の方が少し手を加えてはいますが品質は全く同じです。ところがお店だと天然石とか自然石っていう名称を付けて、同じ大きさの角硯より数千円高くしています。

どちらを選ぶかは自由ですが、天然石って書かれていたらこういう事だと覚えておいてください。ちなみに岡村製硯所さんでは角硯も野面も同一料金で作ってくださいます。

あと、龍渓硯の時に話をした打割を教えてくださったのもこちらです。

奥様から、平成が始まった辺りから中国の安い硯が大量に出回るようになり、和硯の注文はパッタリ止まってしまった。という話を聞きまして、一瞬でそれは「羅紋硯」のことだな。とわかりました。

安ければ何でもいい。っていうなら話は別ですが、羅紋硯は硯の中では最低ランクのものです。磨るのに時間がかかる、滲むの二重苦。

頭ごなしに否定するのも良くないですが、こういった物が出回ったことで、良い硯が何なのか判る人が少なくなり、時間もかかるんだから墨液でいいじゃん。っていう流れになっていってしまったのではないかと思っています。

昨日もテレビでやってましたが、メイドインジャパン製品を外国人が買い付けにくるような時代です。和硯はもっと見直されてもいいような気がします。

さて、岡村製硯所さんは数少ない(日本唯一??)有限会社として経営されている所です。

まず注目していただきたいのは、奥様の半端じゃないおもてなし力。止まりません。

そして高野山の貫主様の掛軸まで見せていただき、今度作品作りの参考にしようと思いました!

各書道用品屋さんに硯を卸しているそうですが、直接電話しても送ってくれると思いますよ!

って、勝手な事言ってしまいましたが、実用硯なら必要な大きさをすぐに作っていただけますので、僕の名前出していただいて構いませんから、興味のある方はぜひ購入してみて下さい!

※和硯の中ではとてもリーズナブルなお値段です。