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鈴木桂一郎アナウンス事務所

8月1日(土) 「歌舞伎ついに今日から再開、1部連獅子、2部棒しばりを観る」

2020.08.01 01:53

今日、8月1日から、ようやく歌舞伎座の歌舞伎公演が再開した。コロナウイルスの影響で、3月公演が中止になってから、実に五カ月振りの歌舞伎公演である。ニュース性のある格好の話題なので、マスコミ各社のカメラが歌舞伎座の玄関前で取材していた。私に取っては、2月13日の歌舞伎座の夜、14日に昼の部を見て以来の歌舞伎である。

歌舞伎が再開されて、初日に歌舞伎座でコロナウイルスの感染者が出たら、即刻休演になるの恐れがあるので、入場の際に、手を消毒して、チケットは受付の人間が確認した後で、自分で半券を切り、箱に入れて入場するシステムだった。

一階席に入ると、コロナ対策の工夫で、座席は両隣が空いていて、自分の前と後ろも空席で、密集を避ける対応がされていた。大向こうは禁止という事でした声をかけるのは駄目。、開演前のざわつきはなく、極めて靜かな、というより静か過ぎる場内であった。開演10分前に席に着いたが、中には、入り口に入り次第、「じーんとしちゃう」と小さな声を出した女性もいた。私も、久し振りに歌舞伎座内に入ったのだが、どこか懐かしく、歌舞伎座の空気を深呼吸してしまった。コロナ禍、再び歌舞伎が見られる、生きていて良かったとしみじみと思った。

1部の前には、愛之助丈の挨拶、2部の前には勘九郎丈の挨拶があった。勿論生ではなく、録音であろうが、挨拶が終わると、待ってましたとばかり、長い拍手が続いた。

1部は、連獅子で、狂言師右近が愛之助、左近は壱太郎。浄土の僧遍念を橋之助、法華の僧蓮念を歌之助兄弟が務めた。

連獅子では、愛之助がきびきびとして、手ごわく親獅子を演じていた。子を蹴落としてから這い上がってくる時に、心配しながら谷底を見守るのだが、子が大丈夫なのかと覘き込んで、不安そうな表情が続き、ちょっと心配しすぎかなとも思った。現代の親子のイメージで演じているのだと思うが、親獅子は、子がたとえ死んでも、それはそれで仕方がないと判断すると思うので、もっと厳格なイメージが必要ではないかと思った。とはいいながら、子獅子と水面に映ったお互いの顔を見合わせた時の表情が、いかにもホッとした感じで、親獅子の愛情を感じさせた。壱太郎の左近は、前髪姿が甘く可愛く見えて、いかにも子獅子らしかった。私は、壱太郎の歌舞伎メイクが、いつもなぜかコミカルに見えてしまうのが不満だ。顔は女形としては、美しいとは言いずらく、どちらかというとコミカルだが、もっと白く顔を塗りつぶして、甘さを出さず、きりっとしたメイクをした方がいいと思う。役者の顔は、完全に好みが入るので、あくまで私の感想である。狂言師左近ではメイクした顔が甘すぎと感じたが、獅子に変わると、力強い表情に変わり、一気に成長した姿を見せていた。きりっとした顔には、爽やかさがあった。メイク一つで役者の顔は変わるものだと痛感した。愛之助と壱太郎の連獅子は、全体的には、実に仲のいい親子の獅子だったと思う。

2部は、棒しばり。次郎冠者は勘九郎、太郎冠者を巳之助が演じた。勘九郎のせりふ回しを聞いていると、父勘三郎そっくりで、横顔も多少ほっそりとしているが、父とよく似ていて、大変懐かしかった。故勘三郎の奥様で、勘九郎の母上が、歌舞伎座に来て、棒しばりを見ていた。二人の父親、勘三郎、三津五郎の棒しばりを、ついこの間見たばかりなのに、二人ともすでに亡くなっているのが辛い。勘九郎と巳之助の棒しばりを見ていると、悲しさが溢れてきた。勘三郎、三津五郎の二人が共に生きていれば、今が一番活躍できる年代なのに、悲しいを通り越して、寂しいの一言である。

勘九郎、巳之助の若い二人に棒しばりは、元気が良くて結構だった。勘九郎の棒使いにスピードがあり、棒術のたしなみがあるというのが嘘に見えず、見事だった。棒に縛られた踊りも楽しいが、棒に縛られる前の、棒を扱うところも楽しかった。巳之助が酒を飲むシーンは、まるで盥の水を飲んでいるようで、酒を飲んでいるようには見えなかった。酒は水の様にぐいぐいとは飲まないと思う。

浄土の僧遍念を橋之助、法華の僧蓮念を歌之助という兄弟の宗門争いは演技が一杯で、南無妙法蓮華経と南無阿弥陀仏と互いに言いながら、お仕舞になると逆に言ってしまうところがみそで、笑わせどころなのだが、盛り上がらず残念だった。勘九郎、巳之助の棒しばりは楽しく、令和の標準になりそうだと思った。