秋蝶の翅の破れて舞ふ・与謝野蕪村
秋蝶の翅の破れて舞ふ陽かな 五島高資
The autumn butterfly
with a torn wing
in the bright sunshine Taka Goto
与謝野蕪村も連想する一人。
https://blog456142164.wordpress.com/2018/11/27/%E9%91%91%E8%B3%9E%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E7%9F%AD%E6%AD%8C%E3%83%BB%E4%BF%B3%E5%8F%A51%E5%8F%A4%E5%85%B8%E7%99%BE%E4%BA%BA%E4%B8%80%E9%A6%96%E3%83%BB%E4%B8%80%E8%8C%B6%E3%83%BB%E8%95%AA/ 【鑑賞=日本の短歌・俳句❶古典(百人一首・一茶・蕪村)】 より抜粋
🔵与謝野蕪村句集より
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(蕪村は、俳句だけでなく、俳画といわれる美術の分野でも名人であった。当ブログ=観賞・日本美術を参照のこと)
与謝蕪村の略年譜
1716年 摂津国に生まれる 早くに両親を亡くす
1717年 このころ江戸に出る
1737年 夜半亭巴人に師事
1732年 享保の大飢饉
1742年 下総国の砂岡雁宕に師事 奥羽に行脚(10年間)
1744年 このころ「蕪村」を名さ乗る
1761年 45歳ごろ結婚一人娘くのをもうける
1751年 京都に移り住む
このころ「与謝」を名乗る
1767年 田沼意次が側用人になる
1783年 死去
◆◆与謝蕪村について
摂津国東成郡毛馬村(大阪市都島区)生まれの江戸中期の俳人、画家。俳号として別に夜半亭、落日庵,紫狐庵など。画号は長庚,春星、謝寅など。本姓は谷口氏と伝えられるが、丹後(京都府)の与謝地方に客遊したのち、与謝の姓を名乗る。
20歳ごろ江戸に出て夜半亭(早野)巴人の門人となるが,巴人没後、結城の砂岡雁宕ら巴人門下の縁故を頼り、約10年にわたり常総地方を歴遊する。
宝暦1(1751)年,36歳のとき上京、その後丹後や讃岐に数年ずつ客遊するが、京都を定住の地と定めてこの地で没した。この間、明和7(1770)年,55歳のときには巴人の後継者に押されて夜半亭2世を継いだが、画業においても,53歳のときには『平安人物志』の画家の部に登録されており,画俳いずれにおいても当時一流の存在であった。
池大雅と蕪村について,田能村竹田が『山中人饒舌』の中で「一代,覇を作すの好敵手)と述べている通り、早くから文人画の大家として大雅と並び称せられていた。
俳諧はいわば余技であり、俳壇において一門の拡大を図ろうとする野心はなく、趣味や教養を同じくする者同士の遊びに終始した。死後は松尾芭蕉碑のある金福寺に葬るように遺言したほど芭蕉を慕ったが、生き方にならおうとはしなかった。
芝居好きで、役者や作者とも個人的な付き合いがあり、自宅でこっそりと役者の真似をして楽しんでいたという逸話もある。
小糸という芸妓と深い関係があったらしく,門人の樋口道立 から意見され、「よしなき風流、老の面目をうしなひ申候」とみずから記している。
彼が故郷を出たのは何か特別な事情があったらしく、郷愁の思いを吐露しながらも京都移住後、故郷に帰った形跡はない。
【春の句】
▼春雨や暮れなむとしてけふもあり
春雨が降り続いている。夕暮れが迫ってきたが、暮れそうで暮れない一日だよ。〔季語〕春雨
▼春風や堤(つつみ)長うして家遠し
春風がそよそよと吹くなか、堤の上の道を歩き通している。懐かしい故郷ははるか彼方に霞んでいる。〔季語〕春風
▼遅き日のつもりて遠きむかしかな
遅々とした春の日が続いている。こうした日々を幾年も重ねるうち、昔もはるか遠くなってしまったことだ。〔季語〕遅き日
▼やぶ入りの夢や小豆(あづき)の煮えるうち
やぶ入りで久しぶりに我が家に帰ってきた子どもが、小豆を煮てやっている僅かの間にも横になって眠ってしまった。疲れているのだろうが、きっと楽しい夢を見ているんだろう。〔季語〕やぶ入り
▼燭(しょく)の火を燭にうつすや春の夕(ゆふ)
春の日の夕暮れ。燭台から燭台へと灯りをうつしていく。明るくなった室内もまた春らしくのどかであることだ。〔季語〕春の夕
▼公達(きんだち)に狐(きつね)化けたり宵(よひ)の春
なまめかしい春の宵。一人歩いていくと、ふと貴人らしい人に出会った。あれはキツネが化けたに違いない。〔季語〕宵の春
▼春雨や小磯(こいそ)の小貝(こがひ)ぬるるほど
小磯の砂の上に美しく小さな貝が散らばっている。春雨が降ってはいるが、その貝をわずかに濡らすほどだ。〔季語〕春雨
▼春の海ひねもすのたりのたりかな
のどかな春の海。一日中、のたりのたりと波打っているばかりだよ。〔季語〕春の海
▼春雨にぬれつつ屋根の手毬(てまり)かな
女の子たちの遊んでいる声が聞こえなくなったと思ったら、いつの間にか春雨がしとしとと降っている。屋根の上には、引っかかった手まりが濡れている。〔季語〕春雨
▼春の夕(ゆふべ)絶えなむとする香(かう)をつぐ
夕闇が迫ってきた。清涼殿では、女房たちが、絶えようとする香をついでいる。何とも優艶な風情であるよ。〔季語〕春の夕
▼滝口に灯(ひ)を呼ぶ声や春の雨
春雨が降りしきり、辺りがひっそりと暗くなってきた。そんな中、滝口には、禁中警護の武士たちが灯を求める声が響いている。〔季語〕春の雨
▼片町にさらさ染(そ)むるや春の風
道の片側だけ家並みの続く町はずれ。反対側の空き地には、色も鮮やかに染め上げられた更紗が干してある。折りしも吹き過ぎる春風の心地よさよ。〔季語〕春の風
▼高麗舟(こまぶね)のよらで過ぎゆく霞(かすみ)かな
高麗船が沖合いを静かに通り過ぎていく。こちらの港にも寄らないで、そのまま霞の中に消え入ってしまった。〔季語〕霞
▼さしぬきを足でぬぐ夜(よ)や朧月(おぼろづき)
男がほろ酔い加減で帰宅するなり、部屋の中にごろりと横になる。そのまま足を動かしながら指貫を脱いでいる。外は朧月夜。静かで艶な春の夜の情景である。〔季語〕朧月
▼菜の花や月は東に日は西に
夕方近い、一面の菜の花畑。月が東の空に登り、振り返ると日は西の空に沈もうとしているよ。〔季語〕菜の花
▼釣鐘(つりがね)にとまりてねむる胡蝶(こてふ)かな
物々しく大きな釣鐘に、小さな蝶々がとまって眠っている。何とも可憐な姿だよ。〔季語〕胡蝶
▼畑(はた)うつやうごかぬ雲もなくなりぬ
畑を打ち続け、ふと手を止めて空を眺めると、さっきまで動かずにいた雲がどこかへ消えてしまっていた。〔季語〕畑うつ
▼白梅(しらうめ)に明くる夜(よ)ばかりとなりにけり
これからは世俗を離れ、白梅に明ける夜ばかりを迎える身になるのだ。(蕪村の辞世句の一つ)〔季語〕梅
▼ゆく春やおもたき琵琶(びは)の抱きごころ
春が行き過ぎようとするある日、久しぶりに琵琶を奏でようと抱きかかえると、とても重く感じた。これも晩春の物憂さのゆえだろうか。〔季語〕ゆく春
▼ゆく春や逡巡(しゆんじゆん)として遅ざくら
散らずにいつまでもぐずぐずと咲き続けている遅ざくら。過ぎ行く春を惜しんでいるからなのだろうか。〔季語〕ゆく春・遅ざくら
▼ゆく春や撰者(せんじや)をうらむ歌の主
春は過ぎ去ろうとしているのに、自分の歌が選にもれた歌詠みが、いつまでも愚痴をこぼしていることよ。〔季語〕ゆく春
【夏の句】
▼愁(うれ)ひつつ岡にのぼれば花いばら
心が愁うまま近くの岡にのぼると、いばらの白い花があちらこちらに咲いている。その姿にいっそう自分の憂いは増すようだ。〔季語〕花いばら
▼夏川をこすうれしさよ手にぞうり
ぞうりをぬいで手に持ち、素足のまま夏の川をわたる。何ともうれしく、気持ちのよいことだ。 〔季語〕夏川
▼牡丹(ぼたん)散つてうちかさなりぬニ三片
咲き誇っていた牡丹の花が、わずか数日で衰え始め、地面に花びらがニ、三片と重なって落ちている。〔季語〕牡丹
▼五月雨(さみだれ)や大河を前に家二軒
五月雨が降り続いて水かさを増した大河がごうごうと流れている。その大河の前に家が二軒建っているが、水の勢いに今にもおし流されてしまいそうだ。〔季語〕五月雨
▼涼しさや鐘をはなるるかねの声
早朝の涼しさの中、鐘の音が響いている。一つまた一つと鐘をつくたびに、その音は遠くへ離れていくようで、何ともさわやかだ。〔季語〕涼し
▼お手討ちの夫婦(めをと)なりしを更衣(ころもがへ)
不義密通によりお手討ちになるべきところを許されて、他国に落ちのびたお前と私。今こうして、ようやく更衣の季節を迎えることができたよ。〔季語〕更衣
▼山蟻(やまあり)のあからさまなり白牡丹(はくぼたん)
大きく真っ白な白牡丹の花びらに、山蟻が這っていく。その黒さが何とも印象的だ。〔季語〕牡丹
▼夕風や水 青鷺(あをさぎ)の脛(はぎ)をうつ
暑い日差しが傾いて、ようやく夕風が立ち染めてきた。川岸では青鷺が脛を水に浸して立っていて、何とも涼しそうだ。〔季語〕青鷺
▼絶頂の城たのもしき若葉かな
山頂に城がそびえ立っている。若葉に囲まれたその姿は、とても頼もしく感じられる。〔季語〕若葉
▼石工(いしきり)の鑿(のみ)冷したる清水(しみず)かな
夏の日盛りの石切り場。人夫の使うのみも熱くなってきたのか、傍らの清水にずぶりと浸けた。〔季語〕清水
▼鮎(あゆ)くれてよらで過ぎ行く夜半(よは)の門
夜半に門をたたく音に出てみると、釣りの帰りの友が鮎を届けてくれ、寄っていけというのに、そのまま立ち去ってしまった。厚い友情を感じつつも、私は門のそばに立ち尽くすのみであった。〔季語〕鮎
▼不二(ふじ)ひとつうづみ残して若葉かな
辺り一面、若葉にうずめられているが、くろぐろとした富士山だけがぽっかり残っている。〔季語〕若葉
▼みじか夜や毛虫の上に露(つゆ)の玉
夏の短い夜が明けた頃、庭先では、毛虫の毛の上に露の玉がきらきら輝いている。〔季語〕みじか夜
▼ほととぎす平安城を筋違(すぢかひ)に
ほととぎすが鋭い声で鳴きながら、平安京を斜め一直線に飛んでいった。〔季語〕ほととぎす
【秋の句】
▼朝顔や一輪(いちりん)深き淵(ふち)のいろ
すがすがしく朝顔が咲いている。その中の一輪は、底知れぬ淵のような深い藍色をして、まことに美しい。〔季語〕朝顔
▼四五人に月落ちかかる踊(をどり)かな
夜も更けて、月は西に落ちかかっている。その光を浴びて、四、五人の男たちがまだ踊り続けていることだよ。〔季語〕踊
▼湯泉(ゆ)の底にわが足見ゆるけさの秋
朝の温泉にひたって、その透き通った湯の底に、青白くほっそりした自分の足が見える。辺りはすでに初秋の気配だ。〔季語〕けさの秋
▼月天心貧しき町を通りけり
夜半の月が中空に輝いている。その月の光を浴びながら、貧しい家々の立ち並ぶ町を通ると、どの家からも灯りは洩れず、ひっそりと寝静まっている。〔季語〕月
▼白露や茨(いばら)の刺(はり)にひとつづつ
秋も深くなり、あたり一面に露が降りている。いばらに近づいてみれば、その鋭い刺(とげ)の先の一つ一つに露の玉がくっついて輝いている。〔季語〕露
▼灯篭(とうろう)を三たびかかげぬ露ながら
亡き友の新盆にあたり、灯篭をかかげたが、数えてみるともう三度目になる。露に濡れた灯篭を見ると、なおいっそう悲しさがこみあげる。〔季語〕灯篭
▼鳥羽殿へ五六騎いそぐ野分(のわき)かな
野分が吹き荒れる中、五、六騎の武者たちが鳥羽殿に向かって一目散に駆けていく。その後を追うように、野分はなお激しく吹きつのっている。〔季語〕野分
▼柳散り清水かれ石ところどころ
柳が散り、清水は枯れ、石がところどころに露出している。わびしい秋の風景であることよ。〔季語〕柳散る
▼落穂(おちぼ)拾ひ日あたる方(かた)へあゆみ行く
秋の日差しが山の端にかかり、広い田んぼの一部を照らすばかりになった。農夫が落穂を拾いながら、日の当たる方へ移っていく。〔季語〕落穂
▼山は暮れて野は黄昏(たそがれ)の薄(すすき)かな
遠くの山々はすでに暮れてしまったが、近くに見える野はまだ暮れなずんでいてほの明るい。薄が風にゆれている。〔季語〕薄
【冬の句】
▼易水(えきすゐ)にねぶか流るる寒さかな
戦国時代の中国、荘士が悲壮な決意で旅立ったという易水に、真っ白な葱(ねぎ)が流れている。そのさまは何とも寒さが身に沁みる。〔季語〕寒さ
▼斧(おの)入れて香(か)におどろくや冬木立
冬木立の中にやって来て、枯木と思って斧を打ち込んだ。ところが、新鮮な木の香りが匂ってきて驚いた。〔季語〕冬木立
▼葱(ねぎ)買うて枯木の中を帰りけり
町で買ったねぎをぶら下げて、葉の落ち尽くした冬木立の中を一人で帰ってきたことだよ。〔季語〕葱・枯木
▼うづみ火や終(つひ)には煮(に)ゆる鍋のもの
火鉢の炭は灰にうずまっている。その上にかけてある小さな鍋はいつ煮えるとも分からないが、まあそのうち煮えるだろう。〔季語〕うづみ火
▼楠(くす)の根を静かにぬらす時雨(しぐれ)かな
大木となった楠の木。その根元を時雨が静かに濡らしている。何と森閑とした風景だよ。〔季語〕時雨
▼宿かせと刀(かたな)投げ出す吹雪かな
外は吹雪。旅人が家にころがりこんできて、宿を貸してくれというより早く、刀を投げ出して腰を下ろしたことだよ。〔季語〕吹雪
▼水鳥や提灯(ちやうちん)遠き西の京
暗い池のほとりにたたずむと、水鳥の音がかすかに聞こえてくる。はるか西の京あたりに目を向けると、提灯の明かりが動いており、それも遠くかすかである。〔季語〕水鳥
▼寒月や衆徒(しゆと)の群議の過ぎて後(のち)
明日の戦いの評定を終えた僧兵たちが去っていった。そのあとには寒々とした冬の月が中空に輝いている。〔季語〕寒月
▼水鳥や枯木の中に駕(かご)二挺(にちやう)
冷たい水面に、水鳥たちが泳いでいる。対岸の冬木立の中には、かごが二挺乗り捨てられていて、辺りには誰もいない。〔季語〕水鳥
◆◆蕪村、先人と響き合う画と俳諧 東京文化財研究所の研究員
(朝日新聞17.01.12)
江戸中期の俳人、絵師の与謝蕪村(1716~83)。研究は国文学と美術史でそれぞれに進むが、東京文化財研究所の安永拓世研究員(日本近世絵画史)は、分野をまたぐ研究によって俳諧と画の双方に秀でた蕪村ならではのメッセージや人物像が見えてくるという。
安永さんは、蕪村の創作活動では文学と画が強く影響し合い、特に画では両者が互いにイメージを重ね、補完し合うと考える。
晩年の代表作の一つ「鳶鴉図(とびからすず)」(二幅一対)。同じ主題の屏風(びょうぶ)画に句が書かれており、従来、鳶の画は松尾芭蕉の弟子、向井去来の句「鳶の羽も刷(かいつくろい)ぬ初時雨」、鴉の画は、芭蕉の句「日ごろ憎き鴉も雪の旦(あした)かな」を反映するとされてきた。
安永さんはさらに、木々に風が吹く「鳶図」には、去来の前掲句に続く芭蕉の脇句「一ふき風の木の葉しづまる」が潜み、「鴉図」には「あけ烏」などの俳書を出版した蕪村自身が投影されているとみる。去来―芭蕉―蕪村とつながるのだ。「蕪村があえて句を書かなかったことで、見る側は解釈の幅を広げ、蕪村を含む三重のイメージ構造を読み取ったのでは」
他の画でも、西行や岩佐又兵衛、中国の詩人の蘇東坡など先人のイメージを二重、三重に織り込み、自身とのつながりを、時に遊び心たっぷりに示している。「そうした技量は、連句などで日頃から養っていた」。そこには「自尊心とコンプレックス、遊び心がない交ぜの複雑な心情がみてとれる」という。
画は独学とされる蕪村。江戸で学び、京都に移ったが、池大雅や伊藤若冲(じゃくちゅう)らがいて競争は厳しかった。画の評価が高まったのは、丹後(京都府北部)に約3年いて京都に戻ってからという。「丹後では、京都から来たという触れ込みでさほど上手でなくてもばんばん描かせてもらい、自信をつけたのでは」
また当時の文化人は中国へのあこがれが強く、蕪村も漢詩に通じていたが、一方で「漢詩よりも日本の俳諧の方が表現が自在」と書き残した。「当時の中国文化の優越性を、蕪村は俳諧で超越した。蕪村の絵画表現の独自性と俳諧的な趣向は切り離せない」(小川雪)
◆◆与謝蕪村、見えてきた素顔 生誕300年、新資料発見で研究盛ん
2016年12月27日朝日新聞
与謝蕪村像(部分)=呉春(松村月渓)筆、京都国立博物館蔵
今年、生誕300年を迎えた江戸中期の俳人で、画でも名高い与謝蕪村(よさぶそん)(1716~83)。松尾芭蕉、小林一茶と並び称される俳人だが、近年、多数の未知の句を含む新資料が相次いで見つかり、実像に迫る研究が進んでいる。
◆推敲の過程、確認 自選句集復元のカギに
212もの未知の句を含む1903句を収めた「夜半亭(やはんてい)蕪村句集」(夜半亭は、蕪村が主宰した俳諧の一派)の「発見」は昨秋、大きな話題になった。蕪村の50代後半~晩年ごろに弟子が記し、蕪村が朱を入れたもの。存在は知られていたが、長い間所在不明だった。奈良県天理市の天理大付属天理図書館が約5年前に購入した、蕪村の弟子、寺村百池(ひゃくち)の子孫に伝わった資料に含まれていた。
《我(わが)焼(やき)し野に驚(おどろく)や草の花》
清登(きよと)典子・筑波大教授(国文学)は、印象的な新出句にこの句を挙げ、「春の『野焼き』と秋の『草の花』の二つの季語を用いて季節の推移を巧みに表現した」とみる。
《傘(からかさ)も化(ばけ)て目のある月夜哉(かな)》
解釈をめぐっては、研究者の間で意見が分かれ議論が続くが、この新出句も蕪村らしい遊び心があるとされる。
「夜半亭蕪村句集」は、蕪村の創作活動にどう位置づけられるのか。清登さんは、晩年の蕪村が出版に向けて1500近くの自句を選んで書いた「蕪村自筆句帳」と多くの句が重なり、しかも配列がほぼ一致することに注目。「『夜半亭』は『自筆句帳』の選句資料だったと考えられる」。その過程で蕪村は推敲(すいこう)したとし、次の2句を挙げた。
《白梅やいつの比(ころ)より垣の外》(夜半亭蕪村句集)
《白梅や誰がむかしより垣の外》(蕪村自筆句帳)
「『自筆句帳』の句の方が懐旧の情を色濃く感じられ、より推敲された句形と思われる」と清登さん。
天理図書館嘱託の牛見正和・元司書は「この発見が『自筆句帳』の完全復元につながれば」と期待する。出版されなかった「自筆句帳」は蕪村の死後、娘の嫁入り資金にと、弟子が稿本を分割して頒布したため、散逸した。1974年に国文学者の故・尾形仂(つとむ)氏が1千余りの句で復元したことが、現代の蕪村研究の画期だ。残る400~500句の配列など、「夜半亭」は本来の姿に近づくカギとなる。
一方、新出句は、蕪村が「自筆句帳」の選から落とした句とみられる。それでも「発想や推敲の過程がうかがえ、意義は大きい」と清登さん。藤田真一・関西大教授(国文学)も「前書きのある句が多く、様々な人間関係や心の交流がみえてくるだろう」と期待する。
さらに人物像も浮かんでくる。蕪村は生前「自分の句集など出す必要はない」と述べ「日来(ひごろ)の声誉(せいよ)を減ずる(これまでの名声も失いかねない)」とまでしていた。だが「夜半亭」の出現は入念な自選句集の準備を裏づける。「この矛盾こそが人間らしく、俳諧師らしいのかも」と藤田さん。
◆自由な句会運営、弟子の選句眼鍛える
寺村家資料には、50代になり、俳諧に本腰を入れ始めてからの蕪村の句会の記録である句会稿「夏より」「高徳院発句会」「月並発句帖」も含まれていた。そこから見えてきたのは、上下関係にとらわれない、自由な句会運営だ。
《みじか夜や浅井に柿の花を汲ム》(月並発句帖)
藤田さんはこの蕪村の句をめぐり、一座から「題は短夜(みじかよ)なのに、柿の花の句になっていないか」との疑問が出たとの記述に驚いた。「宗匠(師匠)が一方的に弟子を指導するのでなく、皆の意見を尊重する『衆議判(しゅうぎはん)』で選句することが多かったようだ」
句会稿を分析した清登さんは「初期の句会は参加者の意欲や判断に任せる点が多く、それが一座の句作の力と選句眼を鍛え、共通の評価基準も形成した」。また、初期は実力が伯仲する者どうしの鍛錬の場という性格が強いが、次第に門弟育成の場になっていく様子もうかがえるという。
「夜半亭」や3点の句会稿は、天理図書館報「ビブリア」に翻刻されている。2020年ごろに原本の画像がカラーで出版される予定だ。(小川雪)
◆キーワード
<与謝蕪村> 摂津国毛馬(けま)村(今の大阪市都島区)生まれ。江戸で俳諧などを学んだ後、京都を拠点に活動し、丹後や讃岐も訪れた。有名な句に「菜の花や月は東に日は西に」「春の海終日(ひねもす)のたりのたり哉(かな)」。新出句の確認までは約2900句が知られていた。
◆「夜半亭蕪村句集」の新出句(抜粋)
*( )内は季節
◇清登典子・筑波大教授選
楼(たかどの)の仮寝(かりね)の夢もかすむかな(春)
雨に匂ひ風にかほるや花茨(はないばら)(夏)
むさし野や本(もと)一すじの薄より(秋)
広沢の水やゝかれぬ十三夜(秋)
こがらしや入江の波を吹畳(ふきたた)む(冬)
◇藤田真一・関西大教授選
きぬぎぬや梅が香を裂妹が門(かど)(春)
さくら咲て宇宙(おおぞら)遠し山のかい(春)
朝嵐横川(よかわ)へ贈る袷(あわせ)かな(夏)
掛菜(かけな)していほやすき宿や冬籠(ふゆごもり)(冬)
松の戸の隠者を訪へばふくと汁(ふくとじる)(冬)
◆◆知られざる蕪村、212句 図書館購入の句集から確認
2015年10月15日朝日新聞
見つかった与謝蕪村の「夜半亭蕪村句集」。赤い矢印は新出句=14日、奈良県天理市、内田光撮影
江戸中期の俳人で俳画を確立した与謝蕪村(よさぶそん)の、これまで知られていなかった俳句212句を収めた句集が見つかった。天理大付属天理図書館(奈良県天理市)が14日発表した。句集の存在は戦前から知られていたが、長らく所在不明だった。
蕪村は松尾芭蕉、小林一茶と並び称される江戸期の俳人だが、これほど多くの俳句が一挙に見つかるのは極めて異例だ。
見つかったのは、蕪村存命中に門人がまとめた「夜半亭(やはんてい)蕪村句集」(夜半亭は蕪村の俳号のひとつ)の写本2冊。図書館が4年前に書店から購入。「蕪村全集」(全9巻、講談社)と照合するなどし、四季別に所収されている1903句のうち、212句が未知のものと確認した。
句集は以前から研究者の間では知られ、1934年発行の専門誌「俳句研究」が35句を紹介していたが、句集はその後所在不明になっていた。
蕪村はこれまで約2900句が確認されている。関西大の藤田真一教授(近世俳諧)は「蕪村は研究し尽くされたと思われていた存在。その知られていない句がまとめて出てきたのは衝撃的」と話す。句集は19日~11月8日、天理図書館(0743・63・9200)で公開される。入場無料。(佐藤圭司)
◆新たに見つかった句
蜻吟(かげろう)や眼鏡をかけて飛歩行(とびあるき)
〈とんぼが眼鏡をかけたような大きな目玉でふらふら飛んでいる、「吟」は「蛉」の誤字の可能性〉
我焼(やき)し野に驚(おどろく)や屮(くさ)の花
〈ちょっと前に自分が放った火が燃え広がり、一面の草の花が焼けている〉
傘(からかさ)も化(ばけ)て目のある月夜哉(かな)
〈唐傘にあいた穴から、夜空に浮かんだ月の明かりが差し込んでくる〉
*ふりがなと〈 〉内の解釈は藤田教授による
◆キーワード
<与謝蕪村(1716~83)> 摂津国毛馬(けま)村(大阪市都島区毛馬町)生まれ。若い頃に江戸へ出て俳諧や書、漢詩などを学び、丹後、讃岐などを経て晩年は京都に住んだ。俳風は写実的、浪漫的。著名な句に「菜の花や月は東に日は西に」「春の海終日(ひねもす)のたりのたり哉(かな)」。
◆きょうの潮流
(赤旗15.10.21)
〈傘(からかさ)も化けて目のある月夜哉(かな)〉。傘おばけならぬ破れ傘から月を見たのでしょうか。ほのぼのとした滑稽さです。最近見つかったといわれる与謝蕪村の200余句の一つ。奈良県の天理大学付属図書館で展示中です▼来年は蕪村生誕300年。多才さで図抜けています。俳句、絵画、両者を合わせた俳画。画風も中国風の山水図から現代の漫画にも似たユーモラスな人間描写までさまざまです。生き生きとした庶民の姿から躍動するエネルギーが伝わってきます▼伊藤若冲(じゃくちゅう)、池大雅、円山応挙と江戸中期を代表する画家たちが同じころ同じ京都で活躍していました。蕪村と若冲は同い年で近所に住んでいたのに交流の痕跡がなく、その謎が想像をかきたてます▼江戸期は言論弾圧の時代でもありました。世情への風刺が幕府ににらまれれば財産没収、用足しや食事のときも外すことを許されない手鎖の刑。その恐ろしさは故井上ひさしさんの『手鎖心中』や『戯作者銘々伝』に描かれています▼消滅した芸術もあります。漢詩の形式で時代を面白くよんだ「狂詩」は風俗統制を強いた寛政の改革によって衰退させられました。歌舞伎、俳句、落語など江戸時代から受け継いだ芸術は多い。ただ、過酷な弾圧に耐えたものだけが残りました▼文化遺産を未来に伝えるのは現代人の役目です。それを考えれば、目先の「社会的要請」に沿わない文系学部は廃止・転換せよとは言えぬはず。国立大学にそんな通知を出す役所が文部科学省とはあまりに悲しい。
◆(天声人語)知られざる蕪村句
2015年10月20日朝日新聞
とかく人は深読みをしておもしろがる。松尾芭蕉の名高い一句に〈古池や 蛙(かわず)飛びこむ 水の音〉があって、五七五の頭の字を並べると「ふ・か・み」となる。すなわち俳句というものの「深み」をこれで教えていると解した人がいたらしい▼もっとも芭蕉研究家はそんな珍説など相手にせぬと、往年の名エッセイスト高田保がユーモラスに書いていた。その俳聖芭蕉と並び称される江戸期の与謝蕪村に、新たな光をあてる発見であろう。知られざる212句が見つかったと先日報じられた▼専門家によれば、蕪村は研究され尽くしたと思われていた存在といい、これほど一度に出てきたのは驚きらしい。〈傘(からかさ)も化(ばけ)て目のある月夜哉(かな)〉は見つかった句の一つ。他にどんな句があるかと、興味が募るファンは多いことだろう▼〈牡丹(ぼたん)散(ちり)て打(うち)かさなりぬ二三片〉や〈菜の花や月は東に日は西に〉など名句あまたの蕪村だが、没後長く忘れられていたという。明治になって「芭蕉に匹敵あるいは凌駕(りょうが)する」と光をあてたのは正岡子規だった▼「百年間空(むな)しく瓦礫(がれき)と共に埋められて光彩を放つを得ざりし」と子規は記した。この10年で蕪村を15句ほど借用している小欄、当人はむろん、子規の墓にも足を向けて寝られない▼来年は蕪村の生誕300年にあたる。その記念展がきのうから奈良県の天理大付属天理図書館で始まり、見つかった句集も展示されている。芸術の秋である。絵師でもあった蕪村の、詩趣ゆたかな「ふかみ」に遊ぶのもよし。