「長崎とキリシタン」1 ザビエル来日①
1549年、フランシスコ・ザビエルが来日し、日本にキリスト教が伝来した。これは中学校の教科書にも載っている史実。では、なぜザビエルは日本にやって来たのか?もちろん、キリスト教の布教のためだが、そもそもザビエルはポルトガル王ジョアン3世の命により1541年にリスボンを出発してインドへ向かった。しかしその時は日本へ行くつもりはなかった。おそらく日本のことなど聞いたこともなかっただろう。そんなザビエルが日本に来た経緯はこうだ。
スペインのナバラ王国の貴族出身のザビエルは、高位聖職者になって没落したザビエル家を再興しようと、1525年パリ大学のバルバラ学院(スポンサーはポルトガル王)で学ぶことになる。ザビエルはここで哲学と神学を学び、学位取得後に神学教授として成功することを望んでいた。1530年3月、パリ大学より哲学修士の称号を授与され、10月よりパリ大学で教鞭を執り始める。そうした矢先、ザビエルに転機が訪れる。1529年にバルバラ学院で神学生イグナチオ・デ・ロヨラと同室となったのだ。ザビエルは、当所はロヨラを嫌悪していたが、やがて彼に感化されるようになる。その結果、それまで抱いていた高位聖職者になる望みを捨てて、ロヨラとともに修道者として東方布教に自身を捧げることを決意するにいたるのだ。
1534年8月15日、ロヨラ、ザビエルら7人の同志たちは、パリのモンマルトルの丘において①清貧②貞潔③聖地エルサレムへの巡礼(それがかなわなければローマ教皇の命じる場所であれば世界のいかなる地であっても赴くこと)、の三つの誓いを行う。この「モンマルトルの誓い」をもって、イエズス会の創設とされている。そして、この集団は1540年9月、教皇パウルス3世の勅書によって正式にカトリック教会における修道会として認可された。そして、この認可にはポルトガル王ジョアン3世が関わっている。
ヴァスコ・ダ・ガマが喜望峰を迂回するインドへの道を発見(1498年)して以来、ポルトガルは東洋との通商を事実上独占していた。「敬虔王」と呼ばれたジョアン王は、渡航するポルトガル人の世話を精神的な面でしていただけでなく、東洋の国々をキリスト教に改宗させることも自分の義務だと思い、教皇パウルス3世に宣教師として何人かのエリートを派遣するように依頼した。このポルトガルの使節が、イエズス会を正式に承認するかどうか思案中の教皇のもとに到着する。教皇はポルトガル王の要請をイグナチオ・デ・ロヨラに伝える。ロヨラは、シモン・ロドリゲスとニコラス・ボバディリャをインドに派遣することに決めるが、ボバディリャが重病にかかって出かけられなくなる。そこで、ロヨラの秘書を務めており、派遣先が未定であったザビエルが急遽インドに派遣されることになったのである。イエズス会が正式に教皇に承認されたのももちろんだ。
1541年4月7日にリスボンを船出したザビエルは、アフリカを経由して、1542年5月6日ゴアに到着した。そこを拠点にインド各地で宣教し、1545年9月にマラッカ、さらに1546年1月にはモルッカ諸島に赴き宣教活動を続け、多くの人々をキリスト教に導いた。1547年7月末、ザビエルはマラッカに帰還するが、ここで彼は大きな転機を迎える。12月、友人のポルトガル商人からアンジロー(ヤジロー)という日本人を紹介されたのだ。ザビエルは、アンジローとの出会いについて1548年1月21日付のローマのイエズス会宛の手紙でこう述べている。
「マラッカで大変信心深い、信仰のあついあるポルトガルの商人から最近発見されたいくつかの大きな島の話を聞きました。その国は日本と呼ばれていて、イエス・キリストの教えを広めるうえでインドより発展しそうなところだそうです。なぜかというと、日本人はどの国民より知識に飢えているからです。
ある日本人がこの商人といっしょに私に会いに来ました。名をアンジローと言います。彼はマラッカの人々が私について語ったことを聞き、私のところへ話しに来る決心をしたのです。彼はすでに日本でポルトガルの商人たちと親しくして、何か気がとがめることがある由。どうすれば神と仲直りができるだろうかと彼が尋ねると、商人たちはマラッカに入る私のところへ行くように勧めました。」
ジョゼ・デ・アベラール・レベーロ「国王ジョアン三世に別れを告げるザビエル」リスボン サン・ロケ教会博物館
クリストヴァォン・ロペス「ジョアン3世」リスボン サン・ロケ教会博物館
マヌエル・エンリケス「聖フランシスコ・ザビエル」コインブラ司教区
ドミンゴス・デ・クーニャ「聖イグナティウス・デ・ロヨラに別れを告げる聖フランシスコ・ザビエル」コインブラ司教区
マヌエル・エンリケス「インドで布教するザビエル」コインブラ司教区
ザビエルの日本布教ルート