秋蝶の翅の破れて舞ふ・太宰治
秋蝶の翅の破れて舞ふ陽かな 五島高資
The autumn butterfly
with a torn wing
in the bright sunshine Taka Goto
https://ameblo.jp/kotonohakokoro/entry-11437946340.html 【【優という字 太宰治】 優しさと、人間として一番優れていること】 より
こういう優しさをもった人間になりたいです。
■太宰治
「私は優という字を考えます。これは優(すぐ)れるという字で、優良可なんていうし、
優勝なんていうけど、でももう1つ読み方があるでしょう?優(やさ)しいとも讀みます。そうしてこの字をよく見ると、人偏(にんべん)に、憂ふと書いています。
人を憂(うれ)へる。ひとの寂しさ侘しさ、つらさに敏感な事、これが優しさであり、また人間として一番優(すぐ)れている事ぢゃないかしら」1946年4月30日付け 河盛 好蔵あて書簡より
$言葉の力で死生観を育む ~ 「自分を見つめる」ということ-太宰治
涙の数だけ、強くなれる。ツライ経験の分だけ、優しくなれる。伸びるためには、縮まないと。明けない夜はないから。
https://ameblo.jp/kotonohakokoro/entry-11424082464.html 【【晩年 葉 太宰治】 人はすべて死んではならぬという科学的な何か理由があるのかね】 より
太宰治の、処女短編小説にして、「晩年」というタイトル。
「晩年」は、私の最初の小説集なのです。もう、これが、私の唯一の遺著になるだろうと思いましたから、題も、「晩年」として置いたのです。
読んで面白い小説も、二、三ありますから、おひまの折に読んでみて下さい。
名言もたくさんある、おもしろい本だと思います。
■晩年 葉
撰ばれてあることの 恍惚と不安と 二つわれにあり ヴェルレエヌ
死のうと思っていた。ことしの正月、よそから着物を一反もらった。お年玉としてである。
着物の布地は麻であった。鼠色のこまかい縞目しまめが織りこめられていた。これは夏に着る着物であろう。夏まで生きていようと思った。
(中略)
「死ねば一番いいのだ。いや、僕だけじゃない。少くとも社会の進歩にマイナスの働きをなしている奴等は全部、死ねばいいのだ。それとも君、マイナスの者でもなんでも人はすべて死んではならぬという科学的な何か理由があるのかね」
「ば、ばかな」小早川には青井の言うことが急にばからしくなって来た。
「笑ってはいけない。だって君、そうじゃないか。祖先を祭るために生きていなければならないとか、人類の文化を完成させなければならないとか、そんなたいへんな倫理的な義務としてしか僕たちは今まで教えられていないのだ。なんの科学的な説明も与えられていないのだ。そんなら僕たちマイナスの人間は皆、死んだほうがいいのだ。死ぬとゼロだよ」
この短編には、途中、次のようなセリフがある。
兄はこう言った。
「小説を、くだらないとは思わぬ。おれには、ただ少しまだるっこいだけである。たった一行の真実を言いたいばかりに百頁の雰囲気をこしらえている」私は言い憎そうに、考え考えしながら答えた。
「ほんとうに、言葉は短いほどよい。それだけで、信じさせることができるならば」
太宰治は、
たった一行の真実を言いたかったとすれば、それは、この一行ではないかと思いました。
人はすべて死んではならぬという科学的な何か理由があるのかね
遺著のつもりで書いた短編集の最初の作品。
死を覚悟しての小説で、何を訴えたかったのか。
死んではいけない、と言われるけれど、死んではならない理由が、何かあるのか。
生きる意味はなんなのか。ここから、「人間失格」へとつながっていくのでしょう。
しばらく、名言を中心に、宰治の思考をたどりたいと思います。
https://ameblo.jp/kotonohakokoro/entry-11404093846.html 【【人間失格 太宰治】 自分には、幸福も不幸もありません。ただ、一さいは過ぎて行きます。】 より
新潮文庫の「人間失格」の解説(奥野健男)には、こうも書かれています。
「太宰治の文学は年々、新しい若い読者を増やし続けている。それも知識、教養、あるいは娯楽のために読むのではなく、自分の人生に切実な問題として、ひょっとすると自分の人生観を根本から変えてしまう、自分の生き死ににも関わるという、熱烈で真剣な読まれ方をしているのである。こういう読まれ方をしている作家は、日本文学にはまことに少ない。
もし太宰治の文学がなかったら、若い読者の日本文学への接し方はずいぶん違ったものになったであろう。」
中でも、やはりこの「人間失格」という作品は、数々の名言が散りばめられている、日本文学において、類を見ない傑作だと思います。
罪の反対語(アントニム)って、何でしょう?
「罪ってのは、君、そんなものじゃないだろう」罪の対義語が、法律とは! しかし、世間の人たちは、みんなそれくらいに簡単に考えて、澄まして暮しているのかも知れません。刑事のいないところにこそ罪がうごめいている、と。「それじゃあ、なんだい、神か? お前には、どこかヤソ坊主くさいところがあるからな。いや味だぜ」
「まあそんなに、軽く片づけるなよ。も少し、二人で考えて見よう。これはでも、面白いテーマじゃないか。このテーマに対する答一つで、そのひとの全部がわかるような気がするのだ」
「まさか。……罪のアントは、善さ。善良なる市民。つまり、おれみたいなものさ」
「冗談は、よそうよ。しかし、善は悪のアントだ。罪のアントではない」
「悪と罪とは違うのかい?」
「違う、と思う。善悪の概念は人間が作ったものだ。人間が勝手に作った道徳の言葉だ」
「しかし、牢屋にいれられる事だけが罪じゃないんだ。罪のアントがわかれば、罪の実体もつかめるような気がするんだけど、……神、……救い、……愛、……光、……しかし、神にはサタンというアントがあるし、救いのアントは苦悩だろうし、愛には憎しみ、光には闇というアントがあり、善には悪、罪と祈り、罪と悔い、罪と告白、罪と、……嗚呼、みんなシノニムだ、罪の対語は何だ」
「ツミの対語は、ミツさ。蜜の如く甘しだ。腹がへったなあ。何か食うものを持って来いよ」
罪と罰。ドストイエフスキイ。ちらとそれが、頭脳の片隅をかすめて通り、はっと思いました。もしも、あのドスト氏が、罪と罰をシノニムと考えず、アントニムとして置き並べたものとしたら? 罪と罰、絶対に相通ぜざるもの、氷炭相容れざるもの。
罪と罰をアントとして考えたドストの青みどろ、腐った池、乱麻の奥底の、……ああ、わかりかけた、いや、まだ、……などと頭脳に走馬燈がくるくる廻っていた時に…、
人を信じられず、嘲りあい、道化を演じて、本音を隠さなければ生きていけない大庭葉蔵に対して、妻のヨシ子は、正反対だった。
人を疑うことを知らず、誰でも信じてしまう。
しかし、何でも信じればそれが幸せかと言えば、そうとは限らない。
襲い来る悪意に、思いがけず傷つけられ、
抵抗もできぬ間に汚されてしまう悲劇も起きる。そんな、悲しい出来事が起きた。
自分の若白髪は、その夜からはじまり、いよいよ、すべてに自信を失い、いよいよ、ひとを底知れず疑い、この世の営みに対する一さいの期待、よろこび、共鳴などから永遠にはなれるようになりました。
実に、それは自分の生涯に於いて、決定的な事件でした。自分は、まっこうから眉間を割られ、そうしてそれ以来その傷は、どんな人間にでも接近する毎に痛むのでした。
果して、無垢の信頼心は、罪の原泉なりや。
不幸。
この世には、さまざまの不幸な人が、いや、不幸な人ばかり、と言っても過言ではないでしょうが、しかし、その人たちの不幸は、所謂世間に対して堂々と抗議が出来、また「世間」もその人たちの抗議を容易に理解し同情します。
しかし、自分の不幸は、すべて自分の罪悪からなので、誰にも抗議の仕様が無いし、また口ごもりながら一言でも抗議めいた事を言いかけると、ヒラメならずとも世間の人たち全部、よくもまあそんな口がきけたものだと呆れかえるに違いないし、自分はいったい俗にいう「わがままもの」なのか、またはその反対に、気が弱すぎるのか、自分でもわけがわからないけれども、とにかく罪悪のかたまりらしいので、どこまでも自らどんどん不幸になるばかりで、防ぎ止める具体策など無いのです。
人を信じられなくて、疑ってしまって、苦しんできた。しかし、無垢の信頼心によっても、人は傷つく。
信頼と、盲信の違いは、どこにあるのか。裏切られるのは、相手が悪いのか。
だまされるような自分が悪いのか。
もはや、誰を信じていいのか、何を信じれば安心できるのか、考えれば考えるほど、分からなくなる。
それならば、いっそのこと、何も信じずに、生きていきたい。そうすれば、誰にも裏切られて、悲しまなくて済む。でも、そんなのは淋しすぎる。期待することすら出来ないなんて。
かといって、自分のことは信じられるかと言うと、自分こそ、当てにならない。もはや、やけくそ。自暴自棄にとなり、さらに自分のことが嫌いになる。好きになれなくなっていく。
そうやって、自分の首を絞めてしまう。いまはもう自分は、罪人どころではなく、狂人でした。いいえ、断じて自分は狂ってなどいなかったのです。一瞬間といえども、狂った事は無いんです。けれども、ああ、狂人は、たいてい自分の事をそう言うものだそうです。
つまり、この病院にいれられた者は気違い、いれられなかった者は、ノーマルという事になるようです。
神に問う。無抵抗は罪なりや?
堀木のあの不思議な美しい微笑に自分は泣き、判断も抵抗も忘れて自動車に乗り、そうしてここに連れて来られて、狂人という事になりました。
いまに、ここから出ても、自分はやっぱり狂人、いや、癈人(はいじん)という刻印を額に打たれる事でしょう。
人間、失格。
もはや、自分は、完全に、人間で無くなりました。結局、「人間」とは何なんだろう。なぜ、「人間、失格」なのか。太宰治(大庭葉蔵)は、なぜ「もはや、自分は、完全に、人間で無く」なったのか。廃人、狂人、罪人。これが、人間失格。「罪悪のかたまり」だから、幸せになる資格はないのか。道化を演じることすらできなくなった、抵抗することもできなくなったから、狂人、廃人なのか?
抵抗すれば、道化を演じれば、それは「ノーマル」なのか?
やはり道化を演じて、周りに合わせることが、「正常」なのか。それが「幸福」なのか。
そんなメッキみたいな幸福のために、人間に生れてきたのか。幸福って、一体なんなんだ。いまは自分には、幸福も不幸もありません。ただ、一さいは過ぎて行きます。
自分がいままで阿鼻叫喚で生きて来た所謂「人間」の世界に於いて、たった一つ、真理らしく思われたのは、それだけでした。ただ、一さいは過ぎて行きます。
幸福そうに見えるけど、不幸だと言う人もいる。不幸そうに見えるけど、幸福だと言う人もいる。けれど、そんな不幸も続かないし、どんな幸福もやがて色あせ、儚く消える。
諸行無常、盛者必衰、会者定離。「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理を表す。」(平家物語)
最初は大きな音で鳴る鐘も、だんだんと小さく消えていくように、きれいに咲き誇る花も、やがては色あせ、散っていくように、喜びも、悲しみも、楽しみも、苦しみも、一切は過ぎてゆき、最期には何が残るんだろう。
何も残らないとしたら、人は、何のために生れてきたのか。必ず失われる命、なぜ生きるんだろう。生きる意味が分からぬまま、道化を演じ、自分を誤魔化し、ただ、時間だけが過ぎてゆく。太宰治は、そんな生き方を「人間、失格」と言いたかったのかもしれません。