秋蝶の翅の破れて舞ふ陽かな・優
秋蝶の翅の破れて舞ふ陽かな 五島高資
The autumn butterfly
with a torn wing
in the bright sunshine Taka Goto
https://blog.goo.ne.jp/pandagananda16/e/f524c70d956a16bc10e255ac66019d8d
【人偏(にんべん)に、憂ふと書いて「優しい」 生きたいあなたの為のブログ】より
このブログは、生きたいあなたに、発信しています♪
ネット上で「優しい」という言葉について書かれてある記事をみて、心が温かくなりました。
元記事はコチラ
ある小学校の先生が、校長先生から「優しい」という字についてこう教えてもらいます。
「“優しい”という字は、イ(にんべん)に〝憂い〟と書くのだが、本当は〝憂い〟に〝にんべん〟をつけるのだよ。つまり人が寄り添うことが“優しい”ということなんだ」
書き順としては、「人偏に憂い」と書いて「優」なのでしょう。合理化、効率化、分類整理を重んじればそうなのでしょう。でも、もし、これから「優しい」という漢字を説明するときは、憂いのある人(それは、寂しい人であったり 裏切られてしまった人であり 努力したけど認められなかった人であったり 大切な誰かを失った人であったり 思いが空回りしてしまった人であったりいろいろあるでしょう)の横に、人が、そっと寄り添う。それが「優しい」ということ。そう話したい。
話は続きます。
この先生は、「優しい」の意味に感動し、ある日、小学5年生のクラスでも話をしたそうです。すると、最後に、在日韓国人の女の子が「先生、憂いの横に、人で、優しいというのはよくわかったけど、私には憂いという字は百と愛に見えるよ。憂いのある人には百の愛が必要なんだよ、きっと」と言ったそうです。
その子は、きっと優しい子であり、優しさを必要としていた子であったのではないかと思えてなりません。
昨年は、太宰治生誕100年。映画をはじめ、様々な企画がなされました。そんな太宰治は、昭和21年、フランス文学者の河盛好蔵へ送った手紙にこう書いています。
「私は優というふ字を考へます。これは優(すぐ)れるといふ字で、優良可なんていふし、
優勝なんていふけど、でももう1つ讀み方があるでせう?優(やさ)しいとも讀みます。
さうしてこの字をよく見ると、人偏(にんべん)に、憂ふと書いてゐます。
人を憂(うれ)へる。ひとの寂しさ侘しさ、つらさに敏感な事、これが優しさであり、
また人間として一番優(すぐ)れてゐる事ぢゃないかしら」
人の心に繊細で敏感に…反省、反省。
https://choppeco.hateblo.jp/entry/2018/06/28/114058 【NHK「知恵泉」で太宰治特集】より
NHKの「知恵泉」という番組で、没後70年太宰治特集をしていたので、見てみました。太宰治というと、『人間失格』『走れメロス』などが有名ですよね。玉川上水に女性と入水自殺してから、もう70年が経ったんですね…。
太宰作品や太宰の人生について語ると長くなるので、今回は、番組の中で印象に残った言葉をメモしておきます。
太宰治とは
(うろ覚えな記憶をたどって書いています。間違いあったら、すみません)。
戦前から戦後にかけて活躍した作家です。青森出身。地元の名士の家という裕福な家に生まれましたが、裕福であることに罪の意識を持ち、共産主義の活動に参加していました。若い頃から女遊びも繰り返していて、心中事件を起こしたりしています。結婚後も、他の女性とも付き合い、子どもまで作ったり…。最後は、山崎富栄さんという女性と玉川上水に入水自殺しました。享年39歳。
作品では、太宰治自身の私小説ともいえる、大庭葉三の破滅した人生を描いた『人間失格』や、人間を信じることの大切さを説いた『走れメロス』などが有名かなと思います。
太宰治の作品というと、『人間失格』みたいに陰気、自意識過剰、被害者意識、といった暗くて重いものが頭に浮かぶ人もいるかもしれませんが、『走れメロス』のように明るい作品も多いです。川端康成に絶賛された『女生徒』など、女性の語り口調(女性独白体という文体)で書かれた作品らはとっても軽やかです。『正義と微笑』『パンドラの匣』という作品も、明るく希望が持てる内容になっています。
しかし、戦後、『斜陽』、『ヴィヨンの妻』、『人間失格』といった作品に至ると、滅びゆくもの、破滅的なものが描かれていくようになります。
そして、今からちょうど70年前の6月19日、玉川入水で太宰治の遺体が見つかりました。自殺でした。
世の中で清く正しく生きている人には絶対に見えてこない真実
番組の中で、印象に残った言葉を紹介したいと思います。
東京大学の安藤宏教授が太宰治文学について語っていた言葉です。
世の中で清く正しく生きている人には絶対に見えてこない真実がある。健康優良児だったり、学級委員長だったり…そういう生き方で毎日、過ごしてしまったのでは、見えてこない、人間が持っているコンプレックスとか弱さとか、そういうものを自虐的に演じていく中で発見して訴えていくそういう文学だと思う。
確かに太宰治の作品は、多数派から見た価値観を説いた文学ではありません(というか、文学ってあまり多数派に立つようなものじゃない気もするんですけど)。太宰作品には、「弱さ」が出ているような気がします。それは、太宰本人が駄目な自分をさらけだしているから…。自分はこんな駄目なところがある、こんな弱さがある、ということを出しているでの、なんというか、読んでいて傷つくことがありません。太宰自身、優しい人だったのかなと思います。
つらさに敏感な人を本当の教養人という
親戚の人に太宰治が語った言葉らしいです。親戚の子どもに、太宰は、「君、教養人ってどういう人のことを言うんだと思う?」と聞いたそうです。そして、「学問のある人が教養人じゃないんだよ。つらさに敏感なひとを本当の教養人というんだ」と言ったとか。
同じ意味合いのことは太宰の書簡にも書かれいるそうです。安藤教授のコメントを引用します。(書簡原文ではありません)。
書簡の中で、「優れている」の「優」という字が自分は好きなんだと。人に憂うで優しい。人の辛さや悲しさに敏感なことが優しさの条件であり、人に優れているということの条件なんだ、と。
「文化」という言葉に「はにかみ」というルビをふるべき、と太宰は言っています。
人の前で何かを言うってとても恥ずかしいことなんだ。どんなに正しいと思っても、堂々と言って何の疑問に思わない人は信用できない。「てらい」とか「恥ずかしさ」を常に感じられる人を自分は信じる。
これらの言葉が、私には印象に残りました。自分の意見を堂々と主張している人を見ると、すごいな、自分に自信があるのだな、と尊敬することもあるのですが、どこかでもやもやすることもあって、それは何故なんだろうと言葉にできないままでした。
ですが、「どんなに正しいと思っても、堂々と言って何の疑問に思わない人は信用できない」という感じ方に、ハッとしました。そうだ、私が感じてきた違和感を言葉にするとこれかも!と思いました。
太宰治の作品は、「弱さ」を描いていて、弱さを持つ人に温かい視線を感じます。太宰自身の弱さも書かれていて、あ、そんな風に思ってもいいんだ、そっか、そういう感じ方もあるんだなぁと思えることも。
強さをアピールしたり、強さに憧れるよりも、弱さに寄り添いたい。そういう人間になりたいなぁとふっと思った今日この頃です。