「長崎とキリスト教」2 ザビエル来日②
南インドで3年、マラッカやマルク諸島(モルッカ諸島=香料諸島)などの東南アジアで3年の布教活動を行ったザビエルは、思うような成果をあげることができず、ある種の閉塞状況に陥り辛い日々を送っていた。その境遇を変えたのが日本人アンジローとのマラッカでの出会いである。ザビエルはアンジローから日本という未知の布教地に関する情報を得る。そして1549年6月24日、日本に向けてマラッカを出発。ザビエルが日本布教についてどのようなヴィジョンを持っていたかは、この2日前の6月22日付、マラッカ発、ヨーロッパのイエズス会員宛手紙からうかがえる。
「日本に着いたならば、私たちは、国王のいる本土に赴き、イエズス・キリストから派遣された使節であると言明するつもりです。私たちは、主なる神が悪魔に対する勝利を与えてくださるに違いないと、神の慈悲を心から信頼して渡航します。私たちは、日本において、学識ある人々と会うことを恐れません。なぜならば、神を知らず、イエズス・キリストを知らない者が何を知ることができるでしょうか。神の栄光をひたすら願い、イエズス・キリストと人々の霊魂の救いを告知する者が何を恐れるでしょうか。未信者の中に入るだけでなく、無数の悪魔のいるところに入っても、野蛮な者も、暴風雨も、神が私たちに悪を及ぼし、害を与えることをお許しにならない限り、何もできません。」
ザビエルは、日本到着後は日本の国王に会うこと、学識者たちと信仰について議論することを念頭に置いている。彼は、自分が強い意思を持ちさえすれば、日本布教の成功の可否はすべて神の意思によることを意識している。
ザビエルは、日本に向かうためにポルトガル船を探したが、中国沿岸では拿捕される恐れがあったので、結局、日本に渡航するポルトガル船はみつからなかった。これには理由がある。ポルトガル人がはじめて中国の地を踏んだのは、彼らがマラッカを占領した直後の1513年。東南アジアに拠点を持ったポルトガル人が、中国貿易に関心を抱くのは当然だった。華人商人が東南アジアへ持ち込む絹や陶磁器は、ポルトガル人にとっても是非入手したい商品だったし、東南アジアの香辛料や香料を中国へ持ち込めば大きな利益が上がることはすぐに理解できたからだ。ところで、明帝国は海禁政策をとっていたので、華人商人との貿易を公にかつ組織的に行うためには、明帝国から朝貢貿易を認めてもらう必要があった。しかし、ポルトガル人は、それまでインド洋海域で行ってきた武力を用いた貿易方法を東アジア地域でも行おうとして明帝国政府の不信感を高め、朝貢貿易実現の可能性はなくなる。結局、密貿易に従事することになるが、彼らに対して明帝国は大規模な軍事掃討作戦を展開したのだ。ザビエルが日本に向かおうとしていたのはこのような状況下だった。
ザビエルはマラッカからアバンという名の中国人商人の船に乗って中国沿岸部を経由しながら、司祭コスメ・デ・トーレス(ザビエルの後任の日本布教長)、修道士ジョ、アン・フェルナンデスそして日本人アンジローとともに日本に向かう。そして1549年8月15日に鹿児島に上陸した。日本における最初の印象を、1549年11月5日付、鹿児島発、ゴアのイエズス会員宛手紙の中で次のように記している。日本人を高く評価し、日本人が非常に優れた人種であることを力説している。
「第一、私たちが交際することによって知り得た限りでは、この国の人びとは今までに発見された国民の中では最高であり、日本人より優れている人びとは、異教徒の間には見出すことができないでしょう。彼らは、親しみやすく、一般に善良で、悪意がありません。彼らは、驚くほど名誉心の強い人びとで、他の何よりも名誉を重んじます。大部分の人びとは貧しいけれども、そうでない人びとも貧しいことを不名誉とは思っていません。・・・大部分の人びとは読み書きができますので、祈りや教理を短時間に学ぶのに役立ちます。・・・彼らは大変善良な人びとであり、社交性があり、知識欲が極めて旺盛です。」
「ザビエル来日記念碑」ザビエル公園 鹿児島市
「アンジローとザビエルの像」セント・フランシス・ザビエル教会 マラッカ
ニコラ・ プッサン「日本の鹿児島で住人の娘を蘇生させる聖フランシスコ・ザビエル 」ルーヴル美術館
どう見ても、日本人に見えない鹿児島(薩摩)の人びと