死亡記事:ジョン・パプワース
ハーバート・ジラードがリサージェンス誌創刊者の人生を振り返ります。
翻訳:浅野 綾子
平和と環境保護運動のともしびだった人物がまた 1 人この世を去りました。ジョン・パプワースが 98 歳で亡くなりました。まさに余人をもって代えがたい人物でした。
エセックスの児童養護施設で育てられ、料理人、共産党員、良心の囚人 [国際的民間人権擁護団体アムネスティ・インターナショナルが提唱している概念で、非暴力であるが言論や思想、宗教、人種、性などを理由に不当に逮捕された人をいう]、雑誌編集者、大統領顧問官、聖職者と、実に変化に富む人生を送ったパプワース。とはいえ、この死亡記事に最も重要なのはパプワースがリサージェンス誌の初代編集長でもあったということです。
18 歳で戦争の恐怖にさらされたパプワースは共産党に入党しましたが、まもなくその頑迷な権威主義に反抗するようになります。1955 年には労働党の候補者として保守的なソールズベリーの地域で一か八かの立候補をしましたが、最終的には民衆から距離を置いた、変化に疎いこの政党は人々の求めに応えられないと確信します。
情熱的で力強く思いを語る平和活動家になったパプワース。ある核軍縮キャンペーンの後、パプワースはバートランド・ラッセルとともに投獄されます。彼にとって核兵器は「大国」の究極表現でした。小規模な社会は身の毛もよだつそのような武器を決して持とうとはしないからです。
1960 年代、パプワースはオーストリア人の経済学者であるレオポルド・コールの親しい友人となりました。コールは「スモールイズビューティフル」という考えの創始者であり、直接民主制と顔をつきあわせての意思疎通が当然として行われる社会を考え出しました。パプワースはローカリゼーションという考え方の事実上の創始者でした。
1966 年、パプワースはレオポルド・コールや E. F. シューマッハー、ハーバート・リードと共同し、リサージェンス誌の創刊者兼編集者になりました。ほどなくしてケネス・カウンダ元大統領からザンビアで個人秘書にと声をかけられ、パプワースはリサージェンス誌の編集者としての地位をサティシュ・クマールにゆずりました。
ザンビアでは、パプワースはルサカ [ザンビアの首都] 教区の司祭に任命されましたが、イギリスでは教会の上層部と仲違いしていました。パプワースが物議をかもしだした数々の行動の 1 つにモーセの十戒の書き直しがあります。その中には「セックスという恵みを楽しむことができるが、子をつくりすぎてはならない (Thou shalt enjoy the gift of sex, but thou shalt not procreate excessively.) 」という一文もありました。
(以下略)
本記事は今月号の記事です。全文は、10上旬までに定期購読いただくと、お楽しみいただけます。