「長崎とキリスト教」3 ザビエルと鹿児島
鹿児島に着いたザビエルは、まずアンジローの家の世話になる。これまで,宣教の過程で様々な迫害にも遭ったザビエルだったが,鹿児島では 温かい歓迎を受ける。
「私たちの親友になったパウロ・デ・サンタ・フェ(注:アンジロー=ヤジローのこと。彼は教理の日本語訳などザビエルの活動を支えた)の郷里では、市長も、主だった市民たちも、だれもかれも私たちを本当に心から歓迎してくれました。みなポルトガルから来た司祭たちに会いに来て感嘆の声を漏らしています。彼らはパウロがキリシタンになったことを不愉快に思うよりむしろそのために彼を尊敬しています。パウロの親族は、パウロがインドへ行って同胞たちが見たこともないことを見てきた話を聞き、みなおめでとうを言っているところです。」(1549年11月5日付ザビエルのゴアのアントニオ・ゴメス神父宛書簡)
9月には薩摩藩主島津貴久に謁見し、布教の許可を得る。島津貴久は,ザビエルの布教と上京の願いを快く承諾し,上京する船の手配も約束, 鹿児島にいる間の宿泊所も提供した(福昌寺)が、キリスト教にはそれほど関心を示さなかったようだ。鹿児島での約1年間にアンジローの協力もあって100人近くが洗礼を受けたとされる。
「パウロは昼夜を分かたず友人と親族にせっせと福音を伝えています。妻も娘も、多くの親族も友人も、彼のおかげで信仰に入りました。キリシタンになった者は今のところそのことで非難されてはいません。」(同前)
その中の1人が弟子になるベルナルド(鹿児島のザビエル公園にザビエル、アンジローと並んで彼の像が建っている)。ザビエルが都に上ったりする活動を助け、後にザビエルがインドに帰るとき、一緒に行って、その後ヨーロッパにまで出かけていく。つまり最初にヨーロッパに入った留学生だが、残念なことにポルトガルのコインブラで勉強中に亡くなってしまう。
またザビエルは、島津氏の菩提寺である福昌寺の住持(じゅうじ 住職)をつとめていた忍室(にんしつ)に出会い、親交を深めていく。当然、信仰の問題についても話し合う。
「幾度も話し合ってわかったのは、霊魂は不滅か不滅でないか、あるいは、霊魂は肉体とともに滅びるか滅びないかがはっきりしていないことです。彼の考えも首尾一貫していません。肯定するかと思うと否定する。これはほかの学者たちもおそらく同じではないでしょうか。」(同前)
ザビエルは、忍室との話を通して京に上って大学(比叡山延暦寺)に行き、宗教論争を戦わしてみたいと考え始めたようだ。ところで、ザビエルは手紙の中でこんなことを書いている。
「一般にここにいる信徒は僧という者たちほどみだらなところがなく、道理に従っています。僧は言語道断の情欲の限りを尽くし、何をしても平気な顔をしています。・・・こちらが僧にそのようなみだらな行いをやめるように警告すれば、彼らは笑って、からかい半分に私たちの批判を退けます。どれほど厳しく批判しても向うは鉄面皮になるだけです。みだらなあまり何も感じなくなってしまうのです。」(同前)
この「言語道断の情欲」とは何のことか?男色、同性愛のことだ。ザビエルはたびたび僧から親切を尽くされたが、彼らがこのような悪徳をほしいままにしているのを目にして、仏教徒はどういうものかを判断し、僧の悪徳をこらしめることにより仏教の勢力をそごうとしたようだ。
ところで、ザビエルの活動は、日本人の改宗に第一の目的があったが、同時に世俗的な動機も有していた。
「私たちはゴアで王室の収益を管理している役人たちに、王のため多額の収入になるはずの新しい資源が生まれる滅多にない機会が日本にあることをていねいに説明しなければなりません。日本の商業の中心地である大坂の港に家を作り、ポルトガルの王の役人たちにそれをあてがい、さらにヨーロッパの商品を入れる倉庫をいくつか建てる許可を得ることは容易だと思います。国内の方々の鉱山から大坂へ大量に届くきわめて良質の銀や金を商品と引き換えることで、ポルトガルは相当の利潤をあげることができるでしょう。」(同前)
「ザビエル上陸記念碑」祇園之洲公園 鹿児島
「アンジロー、ザビエル、ベルナルド像」ザビエル公園 鹿児島
最初に洗礼を受けたのが鹿児島出身のベルナルド。以後、2年間ザビエルと活動を共にする。ベルナルドは、ザビエルと共に日本を出て、途中で別れながらもヨーロッパまで行き、ローマ教皇と対面。最初のヨーロッパ留学生と言われている。
「島津貴久」尚古集成館
福昌寺
島津家代々の菩提寺。1869年(明治2年)の廃仏毀釈により廃寺となった。 昭和28年9月7日に県の史跡に指定