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黄泉の国=パラダイス

2020.09.26 07:06

https://ameblo.jp/toro0327/entry-12429322184.html  【黄泉の国考 古事記と鎌倉ものがたりと千と千尋の神隠し】 より

黄泉の国へ  片道キップしかない電車に乗って‥

千がカオナシを伴って銭婆婆のところへ向かうシーンに似ています

正和はいまは廃車となった江ノ電の通称タンコロで黄泉の国へと向かいます 廃車となった電車と言うのも何かのご縁なんでしょうね‥

これが黄泉の国?  黄泉の国駅  黄泉の国と言えば『古事記』の物語

イザナギイザナミは高天原という天界から地上に人の国を作るために遣わされた人類の始祖のような神さまです 今で言う出向ってヤツですね

古事記に登場する三代神 天照大神、月読命、須佐之男命の三兄弟の生みの親神は伊邪那美、伊奘諾(イザナミ、イザナギ)の命です イザナギは彼らの弟の火の神を産んだ時に女性器を傷つけて死んでしまいます イザナミは妻を比婆の山に埋葬します

でも、イザナミに会いたいイザナギは妻を連れ戻しに黄泉の国へと旅立ちます なんとなく正和がイザナギに重なります

三重県にある世界遺産の花窟神社に黄泉の国の入り口があります

死神が正和に黄泉の国はその人の中にある意識によって姿が違うと話します ここはあなたの描く黄泉の国だと。

そりゃそうですよね クリスチャンの方々には三途の川の概念は全くないでしょうし三途の川だけがこの世とあの世の橋渡しではないのです トンネルをくぐるとあの世だったとか、光に乗って宇宙の彼方へと向かう人もいるでしょう 黄泉の国の片道キップは人それぞれに違うと私も思います

死神は黄泉の国は現世の人間が思っているような場所ではなく次に生まれ変わるまでのリフレッシュをする場であると正和に説明します 輪廻転生は存在する‥ 私は確信しています

え? 黄泉の国の物を口にした!!

正和はたとえお茶一杯でも口にしては行けなかったのではと思います だって死者じゃないのだもの

イザナミが黄泉の国へ妻のイザナギを迎えに行った時、イザナギは黄泉の国の物を食べてしまったので現世には戻れないと語ります

でもせっかく迎えに来てくれたのだから黄泉の国の王に話をしてくると。でもその姿を消して見ないで欲しいとイザナギに頼みます でも、イザナギは見ちゃうんですね‥ 黄泉の国に住んでいるイザナギの本当の姿を

黄泉の国ではイザナギは体は腐り蛆が湧き醜い屍の姿になっていました。 驚いたイザナギは黄泉の国を逃げ出します 見られた事に激怒したイザナギはイザナミを追いかけ命を奪おうとします。

千もこの世界の物を食べなければ体が消えてしまうとハクに言われて食べ物を口にしました 。千が迷い込んだのは黄泉の国ではないけどこの世の物ではないことは確かです。

正和は、亜希子は黄泉の国の物を食べても現世に帰る事ができて本当に良かったです。 西岸良平、強引に話を持って行きましたね_φ(・_・

これは正和の中の黄泉の国なのですが『千と千尋の神隠し』の油屋を取り巻く街並みにそっくり

誰も行った事がないけどいつかは行かなくてはならない黄泉の国。  黄泉の国という言い方も神道や仏教から由来している言葉なので、キリスト教ならパラダイスなのでしょうね。

体験談が聞けないところが一発勝負の命の終わる時 黄泉の国はやっぱり

ふしぎなところ


http://mamorumutumi.way-nifty.com/blog/2014/03/post-1f58.html 【聖書の死後の世界】より

死後の世界をどのように聖書はとらえているか見てみたいと思います。

もともと、人が死後に行く世界は、民族によりさまざまな言葉で呼ばれています。

日本では「陰府(よみ)」、「黄泉国(よみのくに)」、「根(ね)の国」などと呼ばれています。そこは善悪の区別はなく、喜びも苦しみもない世界で、善人も悪人も死ねばみなそこに行 くのでしょう。その様にわたしは思っています。

ところが、人間の宗教思想の進展に伴って、因果応報や審判の思想が加わり、地上で悪いことをした者は死後の世界で苦しみを受ける場所として「地獄」の思想が生まれたのだと思います。

イエスは主に「神の国」を語られていますが、地獄のことも語られています。

マルコの福音書9章43節から47節「罪への誘惑」では、「もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。

両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい」(43節、44節)とか、「もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。

両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。

地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない(45節、46節)とか、「もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。

両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい」(47節)などです。

ここで、「地獄に落ちる」とか「地獄に投げ込まれる」ことが、「命にあずかる」とか「神の国に入る」ことの反対として、身体の一部を失うことよりも真剣な問題として語られています。

死者が逝くところは、聖書では「ハデス」(陰府)と「ゲヘナ」(地獄)ですが、「ハデス」はすべての人が死後に入って行く世界であり、そこは最後の審判、 または復活の時まで死んだ人が待機する世界だと思います。

いわゆる、裁きを受けるまでの中間的な場の死者の世界のことでしょう。

それに対して、「ゲヘナ」(地獄)は最終的な審判によって永遠に神の呪いに定められた者が落ちる終末的な苦悩の場を指しているのでしょう。

ところが、この「ハデス」は、二つに分かれるのですね。

ルカの福音書16章19節から31節「金持ちとラザロ」のところを見てみますと、

一つは、慰められる場所です。すなわち、生きている間に悪いものをもらったラザロが逝ったところです。

もう一つは、炎の中でもだえ苦しむような苦しみの場所です。すなわち、生きている間に良いものをもらった金持ちが逝ったところです。

イエスが「カファルナウム、お前は、天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ」(ルカの福音書10章15節)と言われた時の「陰府」も、この罪深い悪人が入る陰府を指していると思います。

したがって、生きている間に良いことをした者は慰めの場所、悪いことをした者は苦しみの場所と言う見方もあります。

苦しみの場所である「陰府」に対して、祝福の場所である「陰府」は「パラダイス」(新共同訳では「楽園」)とも呼ばれます。

慰めの場所であるパラダイスは決して天国(神の国)ではないのです。そうすると、生前にイエスの言葉を信じ心に留めて生きた義人、

いわゆるキリスト者は、死ねばパラダイスの慰めの場所に行き、その後、裁かれることなく無条件で神の国に招かれるということでしょう。決して、天国に直行ではないと思います。

イエスがパラダイスについてはっきりと述べているのは、十字架の上で、隣で十字架にかけられている者に、「はっきり言っておくが、

あなたは今日わたしと一緒に楽園(パラダイス)にいる」(ルカの福音書23章43節)と言っておられることからも明らかです。

楽園(パラダイス)は三つの見方があるのですね。一つは、エデンの園を指すパラダイス、二つ目は、終わりの時のパラダイスについては、ヨハネ黙示録(2章7節)で、

「耳ある者は、御霊が諸教会に告げることを聞くがよい。勝利を得る者には、神の楽園(パラダイス)にある命の木の実を食べさせよう」とあるパラダイス。

三つ目は、黙示録で、新しいエルサレムは再来のパラダイスとして描かれています。

あ、そうそう、パウロがこの世に居ながらパラダイスに言っていますね。次のように自分の体験談を語っています。

コリント信徒への手紙第二12章2節「わたしは、キリストに結ばれていた一人の人を知っていますが、その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。

体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。」、同12章3節「わたしはそのような人を知っています。体のままか、体を離れてかは知りません。

神がご存じです。」、同12章4節「彼は楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしたのです。」

他人の体験談のような言い方をしていますが、これは「第三の天にまで引き上げられた」パウロ自身の体験を語っていると思います。

このパラダイスは、イエスが十字架の上で「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(ルカによる福音書23章43節)と言われたパラダイスと同じでしょう。

以上簡単に死後の世界をまとめてみました。

すべての人間が死ぬとまず逝くところは、陰府(ハデス)であり、陰府(ハデス)には慰めの場所(パラダイス)と苦しみの場所があり、そして、最終的に逝く場所として「神の国」である天国と地獄があるのです。

何処へ赴くのかは終わりの日の最後の審判(生前の生きざまで裁かれるのですが、イエスの言葉を信じた信仰者はその裁きを免れる)により決まりますから、人それぞれです。

ただし、イエスを信じていると言っても、キリスト教会に通っていても神様からの目で見ればその人が裁きの対象になるかもしれません。

仏教では明確ではありませんが、人間世界は、聖書では初めがあり必ず終わりがあるのです。わたしたちは目的があって造られたのですから、

人それぞれに計画(新しい人間として創造され、神の国に招かれる)があり、目的がある。

神のご計画は必ず成りますから、わたしは最終的に遅いか早いかはあっても、すべての人が造られた目的通りに成長し、神の国に招かれると思っています。

「神の国」と「地獄」は終わりの日の終末的な現実であって、神の人間救済のご計画の終局的な段階だと思います。

神の国は祝福された場所であり、地獄は神から最も遠い絶望の場所です。でも、わたしは地獄にも神はおられると思っています。

そうでしょう、この全宇宙は神様が造られたのですから、神様がおられない所など何処にもありません。そして、

神様がおられるところは、必ず救いの余地があると思うのです。

「陰府」は死者の魂が赴く世界であって、最終的な決定[裁き]がなされるまでの中間期な場所です。その中で祝福された場がパラダイスであり、苦悩の場が陰府ということでしょう。

もちろん、祝福されるかどうかは、生きている時に良いものをもらったか、悪いものをもらったかで分かれるということですから、信仰がどうかではなく、この世でどのような生き方をしてきたかが問題になるのでしょう。

しかし、贅沢に遊び暮らせるような恵まれた人生も神様からの頂きものですから、複雑ですね。やはり神様がその人に与えられた人生があるのでしょう。

確かにその人の責任によらずして不幸な環境に生まれる人もいますから、そういう方はその環境のなかで誠実に一生懸命に生きて死ねば、次の世で祝福されるということでしょう。